【長編小説】無限人格少女③
- 弑谷 和哉
- 8月31日
- 読了時間: 35分
第三章
1
五月二十日月曜日、高校の授業という日常をなんとかやり過ごすと、恭子といっしょに帰った。僕は自転車を押しながら恭子と話した。恭子も記憶喪失のことを気にしている様子だった。
「なんで交通事故前後の記憶が、ないんだろうな」
頭の後ろに手を組んで、恭子はぼやいた。バッグを肩にかけている。
「こういう経験ってある?」
「いや、物忘れはあるけど、記憶喪失はないな」
「そっか。もっとカウンセリング受けたほうがいいのかもな」
「それがいいかもね」
「誠は付き合ってくれるのか?」
「別に問題ないよ」
恭子は微笑した。
「気分がいいから、これからバスケでもするか」
「いや、もうかんべんだよ」
「そっか」恭子は快活に笑った。「まっすぐ家に帰んなくちゃなんねえんだ」
「見たいテレビでもあるの?」
「バカかよ。テレビなんて、あの事件の番組ばっかりじゃねーか。気が滅入るよ。そうじゃなくて、ルナが調べたいことがあるんだってさ」
「帰ったら、人格交代するのかい?」
「あたしっていう謎を解くっつってるからな。鼻につく野郎だが、頼りにするしかなさそうだ」
分かれ道にさしかかると、「じゃあな」と恭子は手を振った。
いつも明るく元気な恭子と話すと、こっちまで元気になるような気がした。
玲子と恭子が日常をこなし、カウンセラーの志保と探偵のルナが、現在の複雑な状況をひも解き、快方に向かってゆく。理想的な形になってきたな、と僕は思った。だけど、寧々は漫画を描き続けられるだろうか。
僕は漫画『無限人格少女』のラストが気になってしかたがなかった。
夜ご飯を食べると自室にこもり、ひまつぶしにノートパソコンをいじった。パソコンで動画やゲームなどを適当にやっているだけで、三時間ぐらいすぐに消費する。しかし、どうしても冨松市の事件を検索してしまう僕がいた。
冨松市にバラ撒かれた肉塊は依然、捜索されている。佐野茜の指はまだ全て見つかっていないそうだ。十五本の指が発見されたが、残りの五指は発見されていない。
中学生カップル殺害で発見されたナイフは大量生産品で、犯人の特定は困難だそうだ。夜中であったため、目撃者はいなかった。
サラリーマン殺害の動画から、犯人はナイフスローイングに長けた人物だと推測された。動画に映っている部屋から、家を特定するのは困難だそうだ。
一連の事件の容疑者として、動画投稿をしたと見られる五人を逮捕したが、誤認逮捕だと判明した。有用な証拠も証言も得られず、警察は関係各所に謝罪した。
那月の犯罪はばれていなかった。だが、不安要素があった。
投稿された動画は手振れしていた。つまり、三脚に乗せたのではなく、殺害の様子を撮影した誰かがいたということになる。したがって、共犯者が少なくともひとりはいると考えられているのだ。
那月のミスか、それとも僕との共犯関係を強固にするためか、理由はわからない。ただ、その記事を読んだとき、僕の背中にぞくりと怖気が走ったのは事実だ。
僕はパソコンから離れることができずにいたが、なんとか身体を引き剥がした。寝支度を整えると、ベッドに入った。最近はすぐに寝付けない。余計なことを考えてしまうからだ。何度も寝返りを打つ。そうしているうちに深夜三時になってしまった。
いったん水を飲もうと起き上がると、メールが入った。環からだった。
〝花火の音、聞こえた?〟
意味不明のメッセージのあとに、リンクが貼られていた。
僕は嫌な予感を覚えながらもURLをタップした。
動画投稿サイトに飛んだ。
動画のタイトルは『冨松市某コンビニ店ニテ』。
近所のコンビニがローアングルで映っている。カメラが地面に置いてある感じだった。あたりは暗いがコンビニの前は明るい。店員が店から出てきた。手には新しいゴミ袋を持っている。ゴミ袋の交換をするようだ。ゴミ箱に近づいた瞬間、轟音とともに画面が白けた。
爆弾が爆発したのだった。
僕は自転車を全速力でこいだ。脳裏に血まみれになったコンビニ店員の映像がよぎった。近距離で爆弾に吹っ飛ばされたのだ。無事であるはずがない。
環の家に到着し、裏口に向かう。また鍵がかかっていないかもしれない。予想通り裏口のドアは開いた。目の前に環の姿があった。いや、僕には一目でそれが那月であるとわかった。壁に半身をあずけ、腕を組んでいる。
「来ると思ったわ。生き腐れ」
那月はにやつきながら、そう言った。
「なんでおまえが出て来たんだよ。また人を殺したんだな」
「何よ、そのしかめ面は。新しい犯罪のステージに招待しようというのに」
「おかしい。人格交代は起こらなかったはずだ。隙をついて交代したんだな」
「違うわよ。ルナみたいに推理してみれば?」
「ルナ……。そうだ。恭子のあとはルナに交代すると言っていた。じゃあ、ルナが……」
「わかってるじゃない。ルナよ。あいつは調べたいことがあると嘘をつき、私に交代したのよ」
「ルナを脅迫したんだな」
「そんなわけないじゃない。ルナは自主的に私に代わったのよ。あなたはルナの性格をちゃんと把握していないのよ。ルナは事件の最後に謎を解く。じゃあ、事件が進行せずに、いつまでも終わりにたどり着かなかったら、解決のしようがないじゃない」
「ルナは事件を進行させるために、那月に代わったっていうのか」
「そうよ。ルナは正義でも悪でもない。中立的というのも間違っている。とにかくルナは探偵で、自分の仕事にしか興味がないのね」
「ルナを仲間にいれるべきじゃなかったんだ」
「仲間どうこういうのは唾棄すべき概念だけど、あたしにも協力者ができたわ」
「協力者? 誰かを脅迫して抱きこんだのか」
「あなたは物騒なことばかり言うわね。同士を集めただけよ。私がこの五日間、何もしていなかったと思う?」
「でも、こっち側には出て来られなかったはずだ」
「それは事実よ。忌々しい恭子と玲子のおかげでね。あの子たちには隙がないから参ったわ。おかげで心の中を探索する時間ができたけどね」
「どういう意味だ」
「唾棄すべき返答ね。心の中にはまだ表出していない人格たちがたくさんいる。心の中はは暗闇だけど、目を凝らして見れば彼女たちの姿が見える。私は犯罪に適した人格を選び、こちら側に引っ張った」
「協力者っていうのは新しい人格のことか」
「彼女たちの協力で、爆弾を仕掛けることができたわ」
「彼女たちってことは複数か」
「爆弾の製法を知っている者、材料を調達した者、爆弾を作った者の三名ね。近いうちに紹介するわ」
那月は寄りかかっていた壁から離れ、ポケットからナイフを取り出すと、自分ののどに突きつけた。
「ひっこんでなさいよ。まだ話してる途中でしょうが」
誰かが人格交代しようと干渉してきたのだ。
「恭子よ。強情な女ね」那月はナイフをしまった。「あなたが聞きたいことは、こんなところでしょ」
「綾子が回復するかもしれないのに、どうしてめちゃくちゃにするんだ」
那月はからからと笑った。
「綾子? どうでもいいわよ、そんなの。多重人格が悪化しても、死ぬわけじゃないでしょ。大切なのはどう生きるか。違う?」
那月の射抜くような視線に、圧倒されてしまう。
「どれだけ長く生きても、何も成し遂げなければ、死んでいるのと同じ。あなたは死んでいるのよ。生き腐れなのよ。でもまだ間に合う。だから成し遂げなさい。やり遂げなさい。私について来れば何も問題はない。覚悟を決めて、日常をぶち壊すのよ」
「僕に何をしろっていうんだよ」
「爆弾を作るのよ。ナイフで殺してたんじゃ埒が明かない。だから、爆弾を大量に作って街ごとぶっ飛ばすの。臓器を街中に撒き散らすの。今回の犯行はその練習に過ぎない」
「練習で人を殺すのかよ」
「私は人を殺すのを厭わない。何人だって殺ってやる。その行為で私の意志を示せるのなら、いくらでも」
「おまえの狂った考えにはうんざりだよ」
「狂っていて何が悪いの? 世界がこんなにも狂っているんだから、私の狂気なんてかわいいものでしょ」
那月と話していると、いつも脳が沸騰したように熱くなる。
「破局しか生まないよ、那月は。どうして幸福になろうとしないんだ」
「破局なんてもうとっくにしてるじゃない。これだけ犯罪に関わっておいて、逃げられると思ってるの。もう後戻りできないのよ。幸福なんて妄想は切り捨てなさい。幸福は怠惰な生に過ぎないんだから」
「怠惰な生でも死ぬよりはましだよ」
「怠惰な生なら死んだほうがましよ」
僕らの意見は対立した。那月は唇をわなわなと震わせ、力任せにナイフを投げた。僕の頭の脇を通り、裏口の扉に刺さった。切れた髪が宙を舞った。
「時間切れね。私につくか、恭子につくか、よく考えておきなさい。白黒つけない灰色の意志は、もう通用しないわよ」
血走った目にまぶたが落ちた。前屈みに倒れそうになったが、すぐに体勢を立て直した。恭子だった。
「誠、大丈夫か?」
恭子に声をかけられると急に力が抜けて、その場に膝を落とした。
恭子に励まされたあと、体重でペダルをこぐようにして自宅にたどり着いた。両親はまだ眠っているようで、僕の外出はばれていなかった。慎重にドアの開け閉めをしたかいがあった。
ベッドにもぐるが、もう外は明るい。状況も心境も眠りとはほど遠く、結局一睡もできなかった。
朝食のとき、具合が悪いから学校を休むと母に告げた。
2
死んだような眠りから覚めると、頭痛がした。眠りすぎた。窓から夕日が差し込んでいる。意気消沈して、枕に頭を落とす。寝返りを打つと何かに触れた。驚いてベッドを転げ落ちた。
「あははっ」
環が毛布をはねのけて顔を出した。
「なんで僕のベッドに……。というか、どうやって入ってきたんだよ」
環はベッドでごろごろしながら答えた。
「鍵開けたに決まってんじゃん。てか、となりで寝てんのに気づかないでやんの。寝顔かわいいね。あはっ」
僕は机の椅子を引いて座った。
「開けたってどうやって……」
「あんな鍵開けるの、うちにとってはめちゃちょろいよ。朝飯前って感じ。方法は教えたげない。企業秘密だよーん」
「泥棒みたいなことするなよ」
「うわっ。泥棒ってやだ。なんか汚い感じ。てか、うちのことは怪盗って呼んでよ。神出鬼没の怪盗・亜里沙。かっこよくない?」
「やっぱり新しい人格なんだね。名前は亜里沙か。那月の仲間なんだろ」
「そだよ。うちが昨日、爆弾の材料を盗んできたんだもん。でも、マジでやるとは思わないよね。那月こわっ」
「那月が実行犯なんだな」
「うん。爆弾仕掛けて、スイッチ押したのは那月。計画練ったのもね。てかニュースでやってんじゃん。テレビつけてよ」
僕は転がっていたリモコンをつかみ、テレビをつけた。
爆弾事件のニュースが放送されていた。
コンビニでアルバイトをしていた四十歳の主婦が死亡。ゴミ箱の中に爆弾が設置されていた模様。現場を撮影したと思われるスマートフォンが、付近の草むらに残されていた。
スマートフォンは地面に刺して固定されており、ライブ配信機能で現場を中継していたことが判明。また、スマートフォンの持ち主は、先日殺害された冨松市在住のサラリーマンであることも判明した。ライブ配信の動画は、自動的にアーカイブが残されていた。
冨松市の殺人鬼を名乗る人物の犯行と見て、警察は捜査を進めている。
「そっかー。殺した人間のスマホ使って、同一の犯人による犯行って示したわけか。殺した人間のスマホだから、足もつかないもんね」
「たぶん、キリィもからんでるんだな。那月は機械類の操作が苦手なはずだ」
「機械音痴だからね。さすがにスイッチ押すぐらいはできたけど」
「他にも協力者がいるって、那月は言ってたぞ」
「いるけど、那月が言わないから言わないよ」亜里沙は自分を指差した。「てかみんなここにいるんだからいーじゃん別に」
「そういう問題じゃ……」
「これなーんだ?」
制服のスカートのポケットから取り出したものを、亜里沙は見せた。
僕の家の預金通帳と印鑑だった。
「ちょ、返せよ」
僕が手をのばすと、亜里沙はひょいとかわした。
「引き出しに入れとくなんて不用心だよね。どんぐらいたまってんのかな」
「見るなよ」
通帳を取り返そうとするが、しなやかな動作でかわす。
「返してほしかったら、うちの手伝いしてよ。また、爆弾の材料盗みに行くんだよね。やっぱ女の子だし、持ち物重いのとか大変なんだ。段取りはうちが決めるからさ」
亜里沙を壁際まで追い込み、飛びかかったが、脇をするりと抜けられた。
「どんな場所でも侵入して、どんなものでも盗んで、痕跡を残さずに立ち去る。それが怪盗・亜里沙だよ。絶対に見つからないから大丈夫」
僕はあきらめて立ち尽くした。
「わかったよ。でも、その前にルナと話をさせてくれないか。ルナの真意を確認したいんだよ」
「ひどくない? うちが嫌いってことでしょ」
「そういうことじゃないよ。ルナとは、話さなきゃならないことがあるんだ」
「しょうがないな。一瞬だよ」
ルナは手帳と印鑑を投げてよこした。
「なかなか賢いじゃないか。僕を呼んで助けを求めるとはね」
「話したいことがあるっていうのは本当だ」
「僕が那月に手を貸した理由を、直接問いただしたいわけだね」
ルナは部屋に置いていた自分のバッグから、煙草とライターと携帯灰皿を取り出し、僕の椅子に着いた。しかたがないので、僕はベッドの端に座った。
ルナは煙草に火をつけた。
「しかし、那月が言った通りだよ。事件を進行させ終局に向かわせるために、人格交代したまでさ。探偵はね、事件が滞りなく進むように補助するのも仕事なんだ。犯人を自由に動かし、犯行を完遂させ、解決に導く。その過程で犠牲者は出るだろうさ。ただね、犠牲者が出なければ、探偵の出る幕もまたないのさ」
自説を淡々と語るルナの表情は、憂いを帯びていた。しかし、ルナの考えは首肯しかねるものだった。推理小説の話を現実に適用するのは問題がある。
「じゃあ、どうしても那月たちに交代するんだね」
「信念ばかりは曲げられないさ。もちろん恭子たちには、日常生活を送ってもらう。必要なときは那月たちに代わる。君は僕のやりかたが気にいらないだろう。だがね、宣言しておこう」
ルナは煙草の火を消した。
「僕は必ず全ての謎を解決する」
非難の言葉を浴びせようと思っていたが、その気が失せてしまった。ルナの信念はねじ曲がっている。だが、本気で謎を解決する気迫に満ちていた。
ルナは新しい煙草に火をつけた。
「前にも話したが、大きな謎は二点ある。無限の人格の存在と、ココロの存在だ」
話題をうまくすり替えられた。ルナは続けた。
「まずは無限の人格について、考えてみよう。僕も記憶を探っているのだが、どうも思い出せない。父の実験の最中に大きな音が鳴ったんだ。そこで頭に衝撃が走った。頭に電気刺激をしている最中だった」
「君のお父さんの部屋に、なにか手がかりがあるかもしれないよ」
「僕は探偵だから、もちろん探索したさ。でも、なにも見つからなかった。しかし、父の勤めていた研究所になにかあるかもな。キリィに人格交代して、パソコンのデータを盗み見るか」
「やめてくれよ。悪の人格に交代すると、那月が出てくるじゃないか」
「そう言うと思ったよ。僕は今の情報で、推理を進めたい気分なんだ。話を戻そうか。おそらく、電気刺激の際の大きな音に、なにかあると思う。記憶が回復すればいいんだがな」
「それよりも、ココロのほうが気になるよ」
「ココロか……」
ルナは煙を天井に吹いた。
「あれは超常現象のようなものだが、そういった類いのものを推理するのも探偵の仕事だ。助手の君は、ココロのことをどう思うね?」
「脳を喰ったら、人格をコピーする存在としか考えられないけど」
「コピーか……。やはり、そうだと思う。しかし、なぜそんな人格が存在するかが、謎なのだよ。無限の人格――やはり、この現象に繋がっているのだろうな」
「無限か……。人には無限の可能性があるって、よく言うけど……」
部屋には沈黙が降りた。ルナは思いついたように言った。
「やはり、君にはちょっとばかりの才能があるよ。いや、探偵のってわけじゃあないよ。助手のって意味さ」
「助手?」
「つまりね、探偵の助手に必要なことは何かというと、探偵の話を真摯に聞くことにあるのさ。合いの手を入れ、会話を促し、必要な時はちょっとした質問をしたりする。君にはその才能があると言っているのさ。よし、公式に僕の助手にしてやろう」
まだ公式の助手じゃなかったのか、と僕は思った。
「やはり先に解く謎は、無限の人格のほうだな。やはり、きっかけは父の研究だろう」
「たしか、大量の本やネットを閲覧したとか……」
「フィクションの多くもインプッットしたな。映画も大量に倍速で見たし、小説も流し読みした。僕という人格は、シャーロック・ホームズからインスパイアされたんじゃないかな。那月はバットマンのジョーカーだろう。キリィなんて、典型的なハッカーだ」
「元ネタがあるのか」
「それはそうだろう。無から有は生み出せない。知能を上げるために得た様々な情報が、多くの人格を生み出したのかもしれないな。無限とも思えるほどの量のね」
「フィクションが出自だとすると、ココロも説明がつきそうだな。ああいう小説か映画が、なんかありそうだし」
「ふむ。記憶にはないが、そんな小説を読み流したのかもしれないな」
「問題は、実験中に聞いた大きな音だよね」
「そうだな。あれを思い出そうとすると、頭がキリキリと痛む。志保のカウンセリングが必要なのかもな」
「じゃあ、悪の人格に交代しない?」
「志保の存在が謎を解く鍵のように思える。キリィに父の研究を暴いてもらう件も気になるが、志保のほうが先だろうな。当分は、正義の人格に任せるさ」
僕はほっとため息をついた。
「しかし、現状の材料で推理をするのも、名探偵の仕事だな」
「那月に交代なんかするなよ」
僕は念を押した。
「そんなことをするはずがないだろ。僕は推理に集中したいんだ」
ルナのあとを追おうと思ったが、やめることにした。
あの様子なら人格交代などしないだろう。
ルナはぶつぶつ独り言を言いながら、去って行った。
3
玲子と恭子はうまく学校生活を送っていた。
玲子は綾子よりすこし頭がいいので、成績は良くなっているようだった。
恭子は体育のときだけ出てきて、あやしまれないように加減して運動した。
玲子は運動神経がないに等しかったのだ。結果的に、以前の綾子よりも優秀になったわけだが、すこしがんばっているというぐらいの評価で、多重人格だと疑われることはなかった。
放課後、玲子に誘われて学校の屋上におもむいた。
「昨日は学校をお休みになられましたけれど、大丈夫でしたか?」
「ちょっと寝不足で疲れちゃって……。ごめん。玲子をひとりにさせて」
「私のほうこそすみません。誠さんを色んなことに巻き込んでしまって。昨日もルナに交代したばっかりに、亜里沙を呼んでしまいました」
恭子は割り込んで言った。
「あたしは反対したんだぜ。でも、玲子がどうしてもルナに交代するって言うからさ」
玲子はすまなそうに言った。
「重々承知しているのですが、綾子さんを救うためにはルナさんの力が必要だと思ったんです。かなり危険ではあるんですが……」
たしかに危険だ。那月などの悪い人格に、交代されるリスクがつく。しかし、ルナの推理力に頼らなくては問題はいつまでも解決しない。
「玲子の考えは間違ってないと思うよ」
「でも、誠さんにご迷惑が……」
「僕のことは気にしないでよ。大切なのは君の問題だよ」
吹奏楽部の演奏が風に乗って聞こえてきた。何の曲だろう。
「誠さんはやさしいんですね」
「そうでもないよ」僕はあいまいに微笑んだ。「ただ流されるのが好きなんだろうな」
玲子は不思議そうに僕のことを見つめた。
「それより、用事って何? 街の景色を眺めたかっただけかい?」
玲子は首を振った。そして誰もいないにも関わらず、小声で告げた。
「家に爆弾の材料があるんです」
演奏が止んだ。だが、すぐにまたはじまった。
「ひとつ分は使いましたが、まだ二つか三つは作れるだけの材料が残っています。それを処分しようと思っています」
「その話をすること自体が、どれだけ危険かわかってるのか。記憶は共有されるんだぞ」
「わかってます。でも、那月は本気で街中の人間を殺そうとしてるんです。本当はもっとはやく動くべきだったんです。ナイフを捨ててしまえば、犠牲者は出なかったのかもしれません」
「ナイフを捨てても、すぐに調達できるさ。爆弾の材料だって、亜里沙が盗んで来るだろう。那月を刺激しちゃだめだ」
「でも、また人が死にます」
「ルナに交代しなければ――だめだ。ルナがいないと問題は解決しない。そうすると那月が――」
「ルナさんに交代しても、凶器がなければ那月は行動できません。凶器を捨てれば、那月は報復するでしょうが、私には手を出せない。だって身体が同じなんですから」
「玲子に手を出せないにしても、玲子の大切なものを破壊するに決まっている。いや、それがものであるとも限らない。たとえば――」
僕は絶句した。
「問題は誠さんなんです。狙われるのは、私ではなく誠さんのほうなんです」
「那月は僕を殺せない。ひとりでできることには限りがある。共犯者が必要なんだ。那月に協力している限り、僕は殺されない」
「誠さんに危害を加えるつもりはないのかもしれません。だけど、亜里沙は誠さんの家に侵入したんですよ」
「別に通帳ぐらいどうだっていいさ」
「違います。誠さんの家には――」
玲子は口をつぐんだ。何を言いたいのか、悟った。
「僕の両親がいる、か。那月が僕の親を殺そうとすると思っているんだね。じゃあ宣言しよう。僕の親に危害を加えれば、那月に二度と協力しない。玲子が記憶すれば那月にも届くはずだ」
「たしかに記憶しましたけど、危険が大きすぎます。那月は誠さんなしでも、犯罪を続けるかもしれません」
「いいや、那月は僕を必要とするはずだ。なぜだかわからないけどそんな気がする」
玲子はジレンマに捉われていた。多重人格の謎を解くためルナに交代する必要があるが、那月に交代されてしまう。那月に交代されるのが嫌なら、ルナに交代できない。その妥協点が、ルナへの交代を許容し、那月の凶器を処分するということだった。
そのことを僕に話した真意は、どんなに頭が鈍くてもわかる。
凶器の処分に協力してほしいということだ。
玲子や恭子がひとりきりで作業するのは、人格交代の危険が伴う。那月が出てきた場合、犯罪を抑える誰かが必要だ。作業自体も女の子ひとりでするには、手にあまるなの作業だろう。
玲子と恭子は、凶器の処分で僕が危険な目に合うと考えている。それを承知の上で僕に助けを求めたのだ。どれだけの勇気がいる決断だったのだろう。その想いは、これから起こる犯罪がいかに恐ろしいかを示していた。
当然だった。
那月は街中に爆弾を仕掛けると言っていたのだから。
「凶器を処分しよう。僕も手伝うよ」
しっかりと玲子の目を見て、そう言った。
玲子は感謝の言葉を述べた。語尾はかすれてほとんど聞き取れなかった。
玲子は泣き出した。両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。
僕はなぐさめようと肩に手をかけた。だが、恭子が払いのけた。
袖で乱暴に顔をぬぐうと、屋上の出入り口に進んだ。が、途中で立ち止った。
振り返らないまま、恭子は言った。
「そうと決まればとっとと行くぞ」
今すぐ処分をはじめるらしい。
行動は早いほうがいい。もう危険ははじまっているのだから。
4
爆弾の材料は一階の奥の部屋にあった。キッチンの先にあたる部屋だ。
乳鉢に入った火薬や薬瓶が、テーブルの上に並べられている。薬瓶には、何らかの粉上の薬品が入っていた。床には金属製の容器や様々な電子部品、工具などが散らばっている。あまりにも乱雑だ。危険物を扱っている意識はあるのだろうか。
環の家に来る途中で、亜里沙がどうやって材料を盗んだのか話をした。環の家には自転車が停まっていた。自転車で盗みをはたらいたのだろうか。となりに原チャリも停まっていたが、綾子が免許をとったという話は聞かない。
恭子は打ち明けた。原チャリは死んだ母のものだそうだ。それを亜里沙が使ったのだという。免許はないが、亜里沙はバイクを操縦することができた。ナンバープレートの数字を書き換え、盗みに使用したという。数字を細工したのは、ナンバーから身元を割り出されるのを防ぐためだ。
僕がそろそろと部屋を物色していると、恭子がやってきた。
手にはスタンガンを持っていた。
僕が身構えると、「バカ」と恭子は言った。
「亜里沙が盗んだ物だ。あたしが交代されたら、これで気絶させてもらおうと思ってさ」
僕はスタンガンを受け取った。スイッチを押して、先端を相手に押し当てればいいそうだ。
「気絶すれば、また人格が代わるってことか。恭子らしい考えだね」
「黙っとけ。それと、気絶したあとの人格は、あたしが必ず取るから心配すんなよ」
「わかった。でも、うまく使えるかな……」
「スイッチ押すだけじゃねえか」恭子は部屋を見渡した。「どっからかかろっかな。ちなみにナイフは居間の引出しの中にたくさん入ってる。問題は凶器をどこに捨てるかだな」
「考えてなかったの?」
「考えてないわけじゃねえよ。火薬は排水口に流しちまえば問題ないだろ。薬品は流すと有毒っぽいから、水かけて土に埋めちまおう」
やはり大ざっぱな性格だ。警察にばれなければいいのだが。
「そこらへんに転がってるのは、起爆装置の部品みたいだ。そういう金属類が問題なんだよ。ナイフとかもさ。どっかに埋めても、薬みたいに土にしみこむわけじゃねえし、埋めた場所は当然ばれるから、すぐに掘り返されちまう」
「川に投げよう。金属だから腐食するし。発砲スチロールの箱とかに入れれば、うまく下流に流れるかもしれない」
「よし、それで行こ――」
そのとき、階上から男性の声が聞こえた。何を言っているかわからないが、低く不気味な声だった。助けを呼んでいるようにも聞こえる。
僕は恭子に詰問した。
「上に誰か監禁されてるんじゃないか」
恭子は首を振った。
「罠だよ。上に人はいない。パソコンのスピーカーから声が流れてるだけだ。あたしを誘って隙をつくり、人格交代しようとしてんのさ」
男性の呻き声は止まない。リピートされているのか。
「罠は定期的に作動するようにプログラムされているみたいだ。あたしはキリィがプログラムを組んだのを知ってるけど、その意味はわからねえ。どんな罠か把握できねえから、ただ近づかないようにしてるんだ」
僕は違和感を覚えた。
「知ってるけど意味はわからないって、どういうこと? 記憶は共有されてるんじゃないの?」
恭子は眉間にしわをよせて、絞り出すように言った。
「そうだな……。たとえば一冊の本があったとするだろ。その本はとても難しい内容の本だ。百人が読んでも全員が理解できるわけじゃねえ。だけど一部の人間は理解できる。それ以外の人間は理解できねえ。何が言いたいかっていうとだな……」
思考がこんがらがってしまったようだ。会話を重ね、恭子の言いたいことがわかった。僕は整理して、恭子に話した。
「たとえを今の君に置き換えてみよう。全ての人格は同じ本つまりは記憶を読んだ。でも、記憶の内容はキリィには理解できるが、恭子には理解できなかった。パソコンに精通していないからだ。ディスプレイに表示されたプログラミング言語を理解できるのは、おそらくキリィぐらいだろう」
恭子は大きくうなずいた。
「そう! それが言いたかったんだよ」
男の声は依然、二階から響いている。パソコンから再生されている音声だとわかっていても、気になってしかたがなかった。
「二階に行ってたしかめてきていいかな」
「余計なことはすんな。はやく凶器を処理しようぜ」
「パソコンも壊したほうがいいんじゃないか。あれも犯罪の道具のひとつだろ」
「助かるがあとまわしだ。物事には優先順位ってやつがある。一番の問題は爆弾の材料だ」
恭子はキッチンからビニール袋を引き出すと、薬品を無造作に入れはじめた。ぼうっと見ているわけにもいかない。乳鉢をとりあげ、キッチンの流しに黒い粉末を捨てた。水流で排水口に送る。
「誠、庭に穴掘るの手伝ってくれよ。薬埋めちまうからさ」
薬品でいっぱいになったビニール袋をさげて、恭子は言った。
乳鉢を流しに放置し、恭子の元に向かおうとした。足が進まなかった。僕の全身を怖気が走った。二階を仰ぎ、つぶやいた。
「再生されてるのは僕の声だ」
だから無性に気になったのだ。機械から再生されているためか、僕の声だけれど妙な違和感がある。何と言っているのだろう。同じ言葉を何度も繰り返し言っているようだ。
僕の声をいつのまにか録音したのか。
「本当だ……。おかしいな。キリィは誠の声なんて仕掛けてこなかった。前はドラマとかで人が襲われるシーンを再生しているみたいだった」
わかる。耳をすませば聞こえる。
「い…しょ………う……おり」
イントネーションがおかしい。話し方が不自然だ。意味を汲み取ろうと考えずに、音だけをたどるように努めた。抑揚を欠いた声で僕はこう言っていた。
「いっしょに死のう。栞」
罠の真意を悟ったときには、もう遅かった。
聞こえてしまったのだろう。恭子は頭を抱えて、取り乱していた。顔をあげ、スタンガンを指差すと、がくんと床に倒れた。押しのけられた金属製の容器が壁に当たった。
僕がばかだった。キリィの狡猾な罠にはまってしまった。でも、僕はあんなセリフ言った覚えはない。
やはり栞に人格交代した。
「やっと呼んでくれたんですね……。待っていましたよ……」
栞は幸せそうに言った。
「僕は言ってない。あれはパソコンから再生された音声にすぎない。ほら、二階から聞こえるだろ?」
何も聞こえなかった。声の再生はもう終わったらしい。
「恐くなってしまったんですね……。わかりますよ……。でも、最初だけですから……。あとに残るのは心地のいい暗闇だけ……」
栞はゆらゆらと近づいてきた。
「素敵……。そのスタンガンの電撃で、ショック死させてくれるんですね……」
僕はスタンガンをまじまじと見つめた。
「そ、そうだよ。心臓に当てれば一発だよ」
殺すと見せかけて気絶させれば、恭子に交代させられるかもしれない。しかし、本当に恭子に交代するだろうか。
この罠はいったん栞に人格交代させ、危険だからという理由で僕が栞を気絶させるところまで読んでいるはずだ。
気絶から目覚めたあとに、どの人格に交代するかはある種の賭けなのだろうか。それとも、恭子と同じように那月にも身体を奪取する自信があるのだろうか。
スタンガンを持った右手の手首を、栞がとらえた。
「嘘、ついてますね……」
目が笑っていない。
凄まじい力で手首を閉めつける。
「中途半端は嫌です……。最後までやってくれないと……」
爪が喰いこんでくる。血がすこしずつ流れ出る。
振りほどこうとするが微動だにしない。
「それに……肝心の誠君が死ねないじゃないですか……」
たまらずスタンガンを落とした。ごとり、と鈍い音が響く。
栞は僕の手首を離し、スタンガンを拾うと、スカートのポケットにつっこんだ。
「ふふふふふ……」
不気味な笑い声を発しながら、栞は駆けて行った。あとを追う。栞は居間の引出しの前に立ち、僕を見つめている。その表情は期待と絶望と希望が、入り混じった不可解なものだった。
近寄ると、栞は引出しをいきおいよく開けた。その振動で中に入っていた金属片がぶつかり合い、不快な音をたてた。数十本ものナイフだった。
「誠君はどれにしますか……」
「どれって言っても……」
栞は実際に手に取ってみたりして、熱心にナイフを選んでいた。僕は栞の後ろで、その様子を眺める格好だったので、スカートのポケットから飛び出たスタンガンの端がちらついた。栞はナイフ選びに夢中になっているから、奪うなら今だった。
栞は二本のナイフを手にした。
「やっぱり……おそろいがいいですよね……」
チャンスを失った。判断が遅かった。虚ろな瞳を僕に向ける。両手に持ったナイフは、たしかに同型だった。
「それでどうしようって言うんだよ」
栞は片方のナイフを僕に差し出した。
「刺しあいっこ、するんですよ……」
僕は聞きなれない単語を耳にしてたじろいだ。
「せーので、お互いの胸を刺すんです……。ロマンチックですよね……」
同意はできないが、ナイフを受け取った。武器は手にした。しかし、気絶させることはできないから、有効じゃない。
栞はナイフを逆手に持ち、頭の高さに構えた。
僕はナイフをおろしたままだ。だから、まだ大丈夫なはずだ。
後ずさりする。綾子と食事をともにしたテーブルに背中が当たる。
栞はにじりよる。
「せーの――」
有無を言わさず栞はナイフを振り下ろした。思わず身をかわした。テーブルのふちにナイフが突き刺さった。
とっさにナイフを放り、椅子を抜いてふりかぶると、思いきり栞の頭にたたきつけた。
後頭部に椅子の足が打ちこまれ、栞はうつぶせに倒れた。
くるしい。呼吸が荒い。力が抜け、椅子を取り落とす。
「大丈夫だよね……」
強くたたきすぎたかもしれない。
気を失っているだけか、それとも――。
肩は動いている。生きている。うまく気絶させられたようだ。
問題はこの先だ。
次に人格交代するのは誰か。恭子か那月か――。
僕にはどうすることもできない。
足元にスタンガンが転がっていた。栞が倒れた拍子にポケットからすべり落ちたのだ。
スタンガンを手にして、意識が戻るのを待った。
那月だったら、スタンガンを使うしかない。那月は反撃の手段を持っていない。栞のナイフはテーブルに深く突き刺さっているし、僕のナイフは部屋の端に落ちていて、手にするには遠すぎる。
凶器のたくさん入った引出しが開いたままだったので、すぐさま閉める。
振り返ると、呻き声を発しながら環が起き上がろうとしていた。
床に手をつき、上半身を押し上げる。
――どっちだ?
環は頭を押さえながら立ち上がった。
苦悶を浮かべた表情からは誰だか判断できない。
僕と目が合うと、ひらひらと手を横にふった。
「私は君が想定している人格ではない」
威厳の漂う低い声が部屋に響いた。スタンガンを握る手がゆるんだ。
「私の名前は知美。君と出会うのは、はじめてだね」
5
相当な打撃を受けたはずだが、知美はさして気にしていない様子だった。腕を組んで争いの痕跡を鑑みると、軽くため息をついた。
混乱した頭を整理するため、僕はたずねた。
「他の人格を押しのけて君が現出したんだね」
「うん。いささか面倒な争いだった。勝ったのは運だね。みんなほぼ同時に、人格交代しようとしていたよ。しかし、爆弾と起爆装置の作り方など教えるべきではなかったよ。まさか本当にやるとは思わなかったね」
「君が爆弾の製法を……。那月が引っ張ってきたっていう人格か」
スタンガンを使い、また気絶させる必要があるかもしれない。
「その点に関しては那月に感謝しているよ。こちら側には私の知的探究心を満たす、壮大な世界が広がっているのだからね。私はあらゆる学問を探求し、世界をすこしでも多く知りたいと思っている。最近は知能科学にはまっているよ。人間の脳はまだ未解明な部分が多い。やはり両親の影響だろうな。そもそも、知能科学というのは――」
延々と理解不能な講義が続いた。とにかく知美は幅広い知識を有していて、特に理系の学問に詳しいことはわかった。だから爆弾と起爆装置の作り方も考案できたようだ。
学問の探究に熱意を注いでおり、知能科学とかいう学問が、謎の鍵になると知美は考えているみたいだった。
スタンガンは使う必要はなさそうなので、ポケットにしまった。
僕にとって重要なのは、学問よりも目前の課題だった。爆弾の材料を処理するという当初の目的を果たしていない。僕は際限なく続くと思われる知美の言葉を、強引に遮った。
「ちょっといいかな。爆弾の製法を教えたことを後悔しているのなら、いっしょに材料を捨てるのを手伝ってくれないかい。犯罪を封じ込めたいんだ」
知美は眉根を寄せた。
「善悪という二元論で世界を語るのは、いささか短絡的ではあるのだが、私は悪の側に属しているらしい」首をかしげるようにして骨をならした。「したがって私は悪側に人格交代される可能性が高い。君の案に従うと、間違いなく那月が介入し、邪魔をするだろう」
「恭子に交代すれば、うまくいくと思うんだ」
「それはできない。私は悪側だから、自発的に恭子に交代できない。心の中で善悪の二極にわかれて、対立している状況なのだよ」
その様子は全く想像できないが、とても面倒な状況なのはわかった。僕はすくない脳みそをフル稼働させて考える。
「ルナはどうなんだい? ルナは善悪のどちらとも取れるじゃないか」
「良い洞察だ。それなら可能だろう。ルナも出てきたがっているようだしね。しかし、いささか私の退場が早すぎはしないかね。せっかく外の空気が吸えたというのに」
知美の言う通りだが、今はそれどころじゃない。緊急を要する事態なのだ。ルナに交代しても恭子に代わるとは言い切れないが、その可能性にすがるしかない。
知美は宙を見つめていた視線を僕に戻した。
「よし、条件がある。知能研究に関する書物を、できるだけたくさん集めておきたまえ。父の書斎にある文献だけでは、私の研究に不足なのだ。条件を承諾するのなら、ルナに人格交代しよう」
「わかった。言う通りにするよ」
満足そうにうなずくと、知美は目を閉じた。
そして、ルナに人格交代した。
ルナは目を開くと、興奮気味に言った。
「知能研究については、ひとまず置いておこう。しかし、知美が多重人格の謎の鍵になるかもしれないな。その謎を、なんとか解いてみようじゃないか。誠、着いてきたまえ」
ルナは二階に駆け出した。僕はそのあとをついて行った。
着いたのは綾子の部屋だった。部屋はきれいに整っていた。
ルナは迷いなく、パソコンのあるデスクに向かった。
そして、勝手に人格交代した。
「ばばーん。突然の登場、キリィちゃんでーす!」
キリィはいきなりキーボードを猛烈な勢いで叩き始めた。
「お父さんの研究所のパソコンに侵入完了。綾子にしていた実験の詳細をサーチ。役目は完了。さらば!」
また人格交代をした。今度はルナに戻った。
「ふむ。興味深い内容だ。助手の誠君も見てみたまえ」
パソコンに表示されていたのは、テキストデータだった。様々な情報を綾子にインプットしながら、脳に電流を流すと、知能が上がるようだった。別の研究者の追記があった。ルナはそこに注目した。
追記にはこう記されていた。
『実験中に研究所に落雷あり。過電流が環綾子に流れる。その後、知能指数が跳ね上がった』
ルナはパソコンを指さしながら言った。
「キリィに交代して正解だった。落雷による過電流が、なんらかの形で、脳内の記憶を覚醒させたんだ。きっと知能指数が跳ね上がった原因はそれだ。つまり、推理するとだな――おっと、事件の真相究明は犯罪が終わってからだったな。まずは君の音声の謎を解明しよう」
ルナはどこからか煙草を取り出し、火をつけた。
「謎の音声はキリィが仕掛けたものだ。君は気付いていなかったんだろうが、那月は脅迫に用いるために、君の声をスマホで録音していたんだ。録音した音声から『いっしょに死のう。栞』に必要な五十音をサンプリングし、つなぎ合わせた。自分の声だとすぐに気付かなかったのは、機械的に作られた語りで違和感があったことが原因だと思われる。キリィは君がこの家に訪れてから、スピーカーから大音量で合成した音声が再生するようにプログラムを設定した」
僕は凶器の処分の話をしたかったのだが、ルナの話につきあうことにした。不可解な点に気付いたからだ。
「どうして僕がこの家に来たことがわかったんだよ」
「いい質問だね。さすがは僕の助手だよ。君は那月に拉致されたことがあるね」
「それで出会ったんだ」
「気絶している間に、君のスマホに位置情報を送信するアプリをインストールしたのさ。君の動きを常に把握するためにね」
「え?」
「機械音痴の那月でもアプリのインストールぐらいはできる。位置情報はウェブサイトで閲覧でき、キリィはこれを利用した。この家に来た時点で音声が再生されるようにプログラムしたのさ。なぜ君がいることが必要条件だったかというと、君がいないときに栞があのセリフを聞いても、さすがにだませないからさ。というわけで謎は解決。すっきりしただろ?」
すっきりした気分はまるでなかった。ひどくばかにされた気分だった。僕が話す隙も与えずに、ルナは続ける。
「あんまりすっきりしないかい? そうだね、僕としたことが探偵として最も大事なことを忘れていたよ。犯人を舞台に引っ張り上げないとね」ルナは咳払いをした。「そこにいるんですよね。犯人のキリィさん」
キリィはいきなりの交代に慌てた。頭をかきむしる。
「あ、ああ、なんでこのタイミングなんですか? わ、わけがわからない! ど、どどどどうしよう。に、逃げよう。逃げるんだ、キリィちゃん!」
まずい。ルナから恭子に人格交代してもらおうと思っていたが、逆効果だった。
キリィはどたどたと走り、物置に逃げ込むとドアを勢いよく閉めた。カチャと施錠の音が聞こえた。僕はドアをたたき、キリィの名を呼んだ。
返事はない。それでも声をかけ続けていると、ドアは意外な形で開かれた。
向こう側から蹴破られたのだ。
僕はふっ飛ばされ、背後の階段を転げ落ちた。
なかばで止まったものの、全身を殴打し、ドアの激突で鼻血が流れ続けている。
ふと顔をあげた。
階段の上で那月が仁王立ちしていた。
「殺される覚悟はできてるわね」
悲鳴が周囲に漏れないようにするためだろう。那月は僕を地下室に引きずり込んだ。僕のポケットに入ったスタンガンを奪うと、容赦なく首に当てた。
そのあとのことは覚えていない。意識を取り戻し、自分の身体を確かめて、暴虐の限りが尽くされたことを知った。
制服は引き裂かれ、身に付けているものは下着ぐらいだった。だから、あざだらけの身体がよく見えた。紫色でところどころ血がにじんでいる。
もちろん、全身には激痛が走っているのだが、それは理解を超えた痛みだった。よって叫び苦しむことはなかったが、僕はしばらく思考停止していた。
「ぶち殺す」「火薬捨ててんじゃねえ」「椅子で殴りやがったな」「叩き潰す」「計画の邪魔してんじゃねえ」「調子に乗るな」「生き腐れ」
頭が回転してくるにつれ、僕の脳裏に罵詈雑言が浮かんでくる。
凶器の処理は裏目に出てしまった。那月を本気で怒らせてしまった。
地下室に那月の姿はなかった。
這うようにして地下室を出る。
二階で足音が聞こえる。那月は二階にいる。
ということは、凶器を捨てるチャンスがあるということだ。
僕は心臓の鼓動を抑えるようにして、爆弾の材料のある奥の部屋に向かう。その部屋には鍵がかかっていた。居間の引出しのナイフはなくなっていた。僕が気絶している間に隠したのだ。
だからこそ、僕は拘束されていないのだった。
僕は階段を上がった。鍵は那月が所有しているはずだ。だから、那月に会って奪うしか方法はない。不可能に近いとわかっていた。僕にはもう戦う力が残されていないし、スタンガンも持っていない。
那月は自室にいた。寧々が描いた漫画の原稿用紙を持っていた。
宙にばら撒くと、手当たり次第にナイフで切り裂いた。周囲に舞うページを切る。切りまくる。ただの紙片となった原稿が、はらはらと床に落ちた。
那月は僕をにらみつける。
「まだ生きてたの」
那月がわざと僕を殺さなかったのは明白だった。なぜ殺さなかったのかたずねたかったが、もっと聞きたいことがあった。
「あの部屋の鍵を持ってるんだろ」
「唾棄すべき質問ね。渡すわけないじゃない」
「僕にはこうするしかないんだ」
「奇跡的な人格交代を期待してるのかしら? 不可能よ。奇跡は起きない。起こさせない」那月の目つきは鋭さを増した。「あいつらの代わりに、あたしがこの身体を独占してやる。誰にも邪魔させない。もちろん、あんたにもね」
「本当に街を爆破するつもりなのか」
「本気よ。口で言うだけの凡百の凡人といっしょにしないでくれない? 言うからには実行。即実行。全力で実行よ。あんたの助けはもういらないから。私がスカウトした優秀な人格たちで、犯罪を遂行するんだから」
「でも身体はひとつだろ」
「人格は無限よ」
那月は口の端をつり上げた。
「ちなみに、玲子の描いた絵も切り裂いといたから」
そう言い捨て、自分の父の部屋に消えた。
あとを追わず、その場に這いつくばった。まるで敗者そのものだ。
僕は床に散らばった原稿用紙の破片を一枚一枚、拾いはじめた。なんだか泣きそうになった。人が殺されるのを目の当たりにしても、涙を流さなかった僕が。すべてを拾い集めると、机の引出しの中に閉まった。
寧々に謝りたかった。玲子にも。恭子にも。僕はうまくやれなかった。
背中に何かが当たった。那月が服を投げつけてきたのだ。自分の父の服なのだろう。長袖のシャツとズボン。
「それを着て帰りなさい。優しさじゃないわよ。あざが隠れるように渡しただけだから。あと、二度と私の目の前に姿を現すな」
ナイフを突き付けられ、家を追い出された。
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