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【長編小説】無限人格少女②

第二章

       1


 学校は事件の話題でもちきりだった。朝のニュースや新聞では取りざたされていなかったので意外だった。どうやらインターネットに情報が流出したらしい。

 SNSを通じて情報が拡散され、周知の事実となっていたのだ。友達のいない僕にとってSNSは、有名人の日常を知るツールにすぎなかった。

 アップロードされた切り取られた指の画像を見て、女子たちが悲鳴をあげていた。

 学校に来る途中で、駐車したパトカーを三台も見かけた。警察官たちは地面に目を落とし、慌ただしく動いていた。落ちた肉片を探していたに違いない。そのときは、そしらぬ顔で自転車を走らせて、やり過ごすことができたが、教室はそうもいかない。僕ははやく担任の教師が来ることを祈った。

 すると、やってきたのは環だった。いつもは余裕をもって登校してくるのに、今日はぎりぎりだった。環は沈鬱な面持ちで自席に着くと、そのまま机に顔を伏せた。環の友人たちは事件の話をしたいのか、肩をゆすっておこそうとしている。

 綾子だ。那月と人格の交代が行われたことは明白だった。綾子は心に大きな傷を負ってしまったのだろう。いくら肩をゆすってもおきない綾子を見て、申し訳ないと思った。しかし、綾子に従えば那月を裏切ることになる。

 そして、僕は那月に弱みを握られ、脅迫されているのだ。

 担任の教師が入ってくると、騒ぎはおさまった。不審者が現れたと、警察から連絡があったと告げた。登下校の際は十分な注意を払うように、と注意を促した。それだけだった。生徒からは、詳細な情報を求める不満の声があがったが、担任は応えなかった。

 ネットを通じて情報流出しているのが、わかりきっているにも関わらず、警察は事件を表ざたにしていない。なぜだろう。今だ事件の全体像を把握しきれていないからか。無用なパニックを避けたいのか。理由は定かではなかった。

 綾子はうつむいたまま肩をふるわせていた。泣いているのだろうか。


 一時限目は数学だった。綾子は組んだ腕に額をのせた形で、顔をふせたままだった。教師は綾子が寝ていると判断したのか、そのまま授業をしていた。一時限目が終わっても、綾子が顔をあげることはなかった。綾子の友達も心配そうに話しかけていたが、席を立ってしまった。

 次の授業は生物なので、生物室に行かなくてはならないのだ。

 僕は恐る恐る綾子に声をかけた。

「大丈夫?」

 綾子の髪は艶を失っていた。洗っていないのかもしれない。

「次の時間は生物なんだけど」

 綾子はがばっと顔をあげた。その目は色を失い、虚空を見つめていた。

「連れて行って……くれるんですか……」

 僕は戸惑いがらもうなずいた。綾子は僕によりかかるように歩んだ。かなり疲弊しているようだ。階段を上がると、綾子は首をふった。

「ここじゃだめです……もっと上……」

 生物室があるのはこの三階なのだが……。そもそも綾子は生物の教科書ももたず、手ぶらだった。

「屋上かな?」

 綾子はうなずいた。僕らには話すべきことがたくさんある。無断で授業にでないのはどうかと思うが、しかたないだろう。綾子を支えて階段を上る。

 いや、彼女は綾子なのだろうか? 綾子の返答はワンテンポ遅れたりしなかった。精神が疲労しきって、余裕がないとも考えられるが……。

 屋上に着くと僕は教科書とノートを、筆箱を重しにして置いた。それがいけなかった。目を離しているすきに、綾子は屋上の手すりに足をかけていた。

「綾子!」

 僕がかけよる間に、綾子は格子状の手すりを越え、そのまま飛び降りようとした。

 僕は格子の間から手をのばし、綾子を抱きとめた。

「冗談よしてくれよ。いきなり何してるんだよ」

 綾子は肩越しに言った。

「連れて行ってくれるって、言いましたよね……」

「連れて行くって、そういう意味じゃないよ。何言ってんだよ」

「私、綾子じゃありません……」

 虚ろな瞳が僕にそそがれた。

「私の名前は栞です……。この手を離してくれませんか……」

 また新しい人格が生まれたのか。しかも、自殺願望をもっている。

 栞は僕の手に爪をたてた。手の甲の皮が裂け、血が流れる。

 それでも僕は、栞の腰に回した腕を離さなかった。

「昨日も何度も何度も死のうとしたんです……。だけど、他の人に邪魔されるんですよ……。誠さんも私の邪魔をするんですか……?」

「他の人っていうのは綾子や那月だろ。どっちでもいいから早く出てきてくれ!」

 爪がさらに深く喰いこんでくる。

「死なせてください……。お願いですから……」

「なんで死のうとなんて思うんだよ」

「誠さんはなんで生きようとなんて思うんですか……?」

「それは、そういう決まりだからだよ」

「決まりだから生きてるんですか……? それって楽しいんですか……?」

「た、楽しいとかそういうことじゃないだろ」

「じゃあ、どういうことなんでしょうか……?」

「…………」

「わからないんですね……。なのに生きてるんですね……。かわいそうですね……」

 僕の手にたてられた爪の力が抜けた。

「私といっしょに死にませんか……? 生きている意味が見出せないのなら、死んだほうがいいと思いませんか……?」

 栞の言う通りかもしれない。僕は決められているから生きているだけだ。流されているだけだ。生きる意味も楽しさもわからない。

 でも、それは過去の話だ。

「僕もそう思っていた。ただ、死ぬ勇気がなかっただけだ。でも、変わったんだ。環に出会って」

「残念です……。誠君といっしょに死にたかったのに……」

 栞はさびしそうにつぶやいた。

「死にたくなったら呼んでくださいね……。待ってますから……」

 かくんと、首を落とした。気を失ったため、全体重が僕にかかってくる。環が落下しないように必死に支えていたが、すぐに意識を取り戻した。

 綾子は僕をにらみつけた。

「胸、さわってません?」


 綾子に繰り返し謝罪したが、機嫌はなおらなかった。

 授業にはもう間に合わないし、無断で休んだことになる。それはさすがにまずいので、理由を捏造することにした。突然具合の悪くなった綾子を保健室に連れて行き、僕が付き添ったというシナリオだ。というわけで、綾子をなだめながら保健室に向かった。

 その道で綾子は階段で足をすべらせた。きれいな階段落ちだった。

「痛ってぇ。ったく、綾子はおっちょこちょいだな」

 頭をさすりながら、環は起き上がった。人格が入れ替わったのは明白だった。

「今度はいったい誰なんだ?」

「恭子だけど。ってか女の子が転んだんだから、心配ぐらいしろっつーの」

 環の人格はどこまで増えるのだろうか。このまま増え続けたら、環がどうかしてしまうんじゃないだろうか。いや、もうどうかしている。そして、僕もどうかしそうだ。

「おい、誠。今日の授業って体育あんのかよ」

「ないよ」

「つまんねーなー。綾子は部活やってねーし」

 綾子と違いかなり活発な性格らしい。身体を動かしたくてしょうがないようだ。

「誠ってさ、バスケできる?」

「まあ、できないことはないけど」

「じゃあ、やろうぜ。体育館にボールあんだろ」

「でも、今は授業中で……」

「知るかよ、そんなもん。行こうぜ!」


 体育館は、どのクラスも使用していないようだった。

「ラッキーじゃん!」

 恭子の声はよく響いた。体育倉庫からバスケットボールを持ってくると、軽快にドリブルをはじめた。僕の脇をすり抜け、ゴールに駆けていきレイアップを決めた。

「人格が変わると身体能力まで変化するのか?」

「身体の使い方の問題だよ。ふだんは身体動かしてないみたいだから、鈍っちまって理想通りに動かねえけどな」

 恭子はスリーポイントシュートを放った。ボールはゴールのふちにあたった。

「筋肉が足んねーんだよな」

 恭子は落ちたボールを拾った。そして、人差し指の上で器用に回転させた。

「誠、取ってみろよ」

 ドリブルしながら近づいてくる。

 バスケのルールはわかるが、別に得意という訳じゃない。

 僕はボールを取ろうと手を出した。恭子は素早くかわした。

「女に負けんのか?」

 なんだか那月を彷彿とさせるセリフを聞き、躍起になった僕は、がむしゃらに手をのばした。でもそんな動きは予測されていて、なんなくかわされる。あげくの果てには股を抜かれ、シュートを決められてしまった。

「下手くそ」

 恭子は意地悪く笑った。

「来いよ。あきらめんのか?」


 健康的な汗をかいたのは久しぶりだった。最近は冷や汗ばかりかいていたように思う。恭子には、ぼろぼろに負けてしまったわけだけど、気分は良かった。恭子は張り合いのない対戦相手に、不服のようだった。

「男だったら身体ぐらい鍛えろよ! だせぇなぁ」

「ごめん」

「謝ってんじゃねえよ。だから誠は那月の下僕なんだよ」

「ごめん」

「だから謝ってんじゃねえよ」

 僕らは体育用具室にバスケットボールを戻しに行った。恭子はボールをカゴに入れると、伏し目がちに言った。

「まあ、楽しかったよ」

「僕も楽しかった。たまには運動するのもいいもんだね」

「いつでも呼べよ。忘れないように言っとくけど、あたしの名前は恭子。次に会うときまでには、ちっとは身体鍛えとけよな。それじゃ」

 恭子は体操用のマットにばたっと倒れた。身体を他の人格にゆずったのだ。肩をゆすり声をかけていると、環は唐突に抱きついてきた。

「だ~れだ?」

 僕は頭も身体もフリーズしてしまっていた。環はさらにぎゅっと身体を押し付けた。

「だ~れだ?」

 とても甘い声だった。この声色に近いのは綾子だったが、綾子がこんなことをするはずがなかった。だから素直に答えた。

「わからない」

 環は、僕からほんの数センチというぐらい顔を近づけてきた。

「そりゃそうだよね。新しい人格だもん。千佳っていうんだ。はじめまして」

「は、はじめまして」

 息がかかるほど近い距離だった。

「あ、でもでも、ちーちゃんって呼んでよ。そのほうがかわいいし。ちーちゃんもちーちゃんのことちーちゃんって呼ぶからね。だから誠くんはねー、〝まーくん〟。まーくんがいいよ」

 千佳、いやちーちゃんは、とろけるような笑顔でまくしたてた。

「ちーちゃん、提案なんだけどさ。いったん離れようよ。距離が近くてさ」

「やだー」ちーちゃんはまたも抱きついた。僕はマットに押し倒されてしまった。「ちーちゃんは、まーくんの一番そばにいたいんだもん」

「こ、こういうのはよくないと思うよ」

「いーじゃん。楽しいじゃん。あったかいじゃん。それとも、まーくんはなんも感じないの、この状況?」

 体育用具室は、薄暗かった。電気はつけておらず、窓からカーテン越しに、光が射してくるだけだ。その窓の外からは、グラウンドでサッカーをしている生徒たちのかけ声が聞こえる。

「こーふんするでしょ?」

 身体が熱い。二人の人間が密着しているのだから当たり前なのだが、それだけが理由じゃない。僕が答えあぐねていると、ちーちゃんは耳元でささやいた。

「セックスって気持ちいいらしいよ」

 ちーちゃんは半身を起こし、僕に馬乗りになった。

「はじめて、なんでしょ」

 ちーちゃんは襟元のリボンを取った。

「でもいいんだよ。ちーちゃんもだからさ。だって綾子はまだ誰にも汚されてないんだもん。記憶をたどればわかるんだ」

 シャツのボタンを上から外していく。胸があらわになっていく。

「だからはずかしがることないんだよ。ちーちゃんもはずかしいんだけど、まーくんとだったら、ね……」

 ちーちゃんは白い下着をはだけさせたまま、顔をよせてきた。そして、両手で僕の頬をつつみこんだ。

「好きって言って……」

 ちーちゃんに、目を合わせられなかった。かといって、視界にはちーちゃんの肢体しかなく、まぶたを閉じることもできない僕は、せわしなく目を泳がせた。

 体育用具室のドアが荒々しく叩かれたのは、救いなのかそうでないのかよくわからなかった。

「中に誰かいるのか?」

 体育の教師の声だった。ドアが開く前にちーちゃんはタックルをかました。体育教師はドアにふっとばされて床に倒れた。ちーちゃんは――いや、もうその出立ちはちーちゃんではない。 

 那月はスカートのポケットからバタフライナイフを取り出し、体育教師ののどに突きつけた。

「気絶してるわ。ついてるわね」

 ナイフをたたむと、元通りにポケットに入れた。

「千佳のくだらない誘惑に乗ってんじゃないわよ、生き腐れ。警察がかぎまわってるときに余計なトラブルは起こしたくないのよ」

 那月は全力で僕をにらみつけた。ちーちゃんとは大違いだ。

「ごめん。でも、僕は言う通りにしただけで……」

「だからあなたは生き腐れなのよ。自分の意志がまるでないから、他人の意見に乗るしかないんだわ。いい? あなたは私の言うことだけを聞いていればいいの。そうすれば凡人が一生かけても見られない、究極の絶景が見られるんだから」

「わかったよ、那月。もう目立つようなことはしないよ。約束する」

「じゃ、とっととずらかるわよ。こいつがいつ目覚めるかもわからないしね。まあ、体育用具室に生徒が侵入して、のぞこうとした教師をドアごとぶっとばしたっていう事実は残るけど、どっかの不良が罪をかぶるでしょ。バラバラ殺人との関連性も疑われないわね、この程度じゃ。そうそう、リボン取ってよ」

 僕らは体育館をあとにした。那月はリボンを結びながら、僕にたずねた。

「あなた、たまってるの?」

「そんなことないよ」

「私が抜いてあげようか、まーくん?」

「な、何言ってんだよ」

「結構、自信あるのよね。やったことないけど」

「その手の動きはやめろよ」

「でもさ、綾子はかんかんでしょ。他の女と寸前までいったんだから」

「他の女ってわけじゃ……。いや、そういうことになるのか」

「ま、退屈な授業なんか受けたくもないから、綾子に身体戻すけどね」

「え、ちょっ……」

 僕は綾子に平手打ちをくらった。


 放課後、綾子といっしょに帰った。綾子は徒歩なので、僕は自転車を押しながら進む。那月があんな事件を起こし、綾子はだいぶ精神が乱れている。だから、人格が増加しているのではないかと綾子は悩んでいた。

「心の中がいっぱいなんです」綾子は語った。「いろんな人格がふわふわ浮いてるんです。みんなあたしと同じ容姿です。でも、心の中はとっても暗くって顔は見えません。だけど数はわかります。明らかに多すぎるんです。現実に現れていない人格がまだたくさん眠っているみたいなんです」

 詳細を聞こうとしたが、綾子は耳を貸さなかった。ひとりでしゃべり続ける。精神がだいぶ疲弊しているのだろう。

「暗闇の中に光の裂け目があるんです。そこに入ったら、現実に出られます。みんなそのチャンスをうかがっているんです。これからどんどん人格が増えていったら、私はどうなるんでしょう。私が私でいられる時間も短くなっていっちゃうのかな……」

 分かれ道でさよならを言った。僕は綾子の姿が見えなくなるまで見つめていた。人格の増加はある程度でおさまるだろう。そう自分に言い聞かせていた。


       2


 翌日は雨だった。

 テレビではこの街で起きた殺人事件のニュースが流れていた。ネットでさんざん騒がれたので、警察も事件の報道を規制する意味を失ったのだろう。佐野茜については報道されていなかった。しかし、DNAなどから個人を特定するのに、そう時間はかからないのだろう。

 母さんは心配そうに僕を見送った。大丈夫だよ、と僕は傘をさして家を出る。母さんは僕が事件に関係しているとは、夢にも思わないだろう。

 雨脚は弱い。しかし、雨の日は気が滅入る。雨の日は徒歩で行くと決めていたのだが、自転車に乗ることにした。那月にまた襲われる可能性を否定できなかったからだ。

 自転車をこぐ足が重い。登校するのを持ちかまえているインタビュアーたちを目にすると、余計に気が滅入った。ペダルを踏み込みやりすごす。

 僕は悪くないのだ。ただ脅されているだけだ。たしかに最初は那月の思想に共感した。強いあこがれさえ抱いた。でも今は違う。那月は明らかに間違ったことをしている。そして、他の人格たちに悪い影響を及ぼしている。

 だったら、事件の真相を公にすればいいじゃないか。綾子は犯人として捕まってしまうが、もしかしたら多重人格ということで、罪を免れるかもしれない。病院に入り、治療を受ければ多重人格は治るだろう。

 だけど、那月を裏切ることになる。あの夜の那月の意地悪な笑みが忘れられない。

 僕は何を望んでいるんだろう。どうして答えが返ってこないんだろう。

 だから、生き腐れって言われるんだろうな。

 綾子は学校を休んでいた。


 午前中はぐずぐずと授業を受けていたが、思い切って早退することにした。体調が悪いという陳腐な嘘をついて。これが原因で警察にマークされるのではないかと不安だったが、それ以上に綾子が休んでいるのが気になった。

 傘はサドルの後ろにさしこんだ。雨なんてどうでもよかった。がむしゃらにこいだ。自殺願望をもつ栞が、何をするかわからないから心配だった。

 玄関には鍵がかかっていた。チャイムを鳴らしても返事はない。しかし、二階のカーテンが開いているから、環は中にいるのだろう。チャイムに気付かないのだろうか。

 いてもたってもいられず、どこか開いている場所がないか調べる。家の裏手に回った。庭に出るための窓は開かなかった。脇に裏口がある。鍵はかかっていなかった。

 環の家に入ると、ハミングが聞こえた。耳をくすぐるようなメロディーは二階から聞こえた。階段をそっと上がってゆく。

 廊下のつきあたりにある部屋のドアが、わずかに開いていた。声はそこからもれている。

 静かにドアを押し開くと、キャンバスに向かう環の姿があった。ハミングを歌いながら油絵の創作に取り組んでいる。なぜか服装は制服だ。僕が来たのに気付いていない様子だった。

 部屋の壁は本棚に覆われていた。大量の本が並べられている。ざっと眺めただけでも多様なジャンルの小説や専門書がそろっていることがわかった。奥の壁にはめられた窓の下には、小さな木製の机があり、そこで本を閲覧するようだった。

 環は部屋の中央にイーゼルを設置し、心地よさそうに筆を操っていた。描いているのは幻想的な花畑だ。素人目にも非常に画力が高いことがわかる。

「きれいな絵だね」と僕は言った。

 環はハミングをやめ、ちらりと振り返った。

「いつのまにいらしたんですか?」

 おしとやかな雰囲気は、これまで出会った人格にはなかった。

「君の名前は?」

「玲子と申します。以後、お見知りおきを」

 玲子はパレットと筆を小机に置くと、丁寧にお辞儀をした。

 顔をあげると、もう一度頭を下げた。

「学校を休んでしまって申し訳ありません」

「え? なんで僕にあやまるの?」

「身体がぬれています。心配で急いでかけつけてくれたんですよね。今、タオルをもってきますから」

 玲子は小走りで部屋を出て行き、すぐに戻ってくるとタオルを手渡した。僕は顔についた水滴をぬぐった。

「誠さんにもご連絡するべきだったのですが、綾子が取り乱しまして」

「いいんだよ、気にしなくて」

「今朝は大変でした。制服に着替えたはいいものの、家を出ることができず、やむなく学校に休みを頂く電話を致しました。綾子は自分の部屋で暴れ、疲れきったのかベッドに倒れ伏しました。そして、私に人格が交代されたのです」

「綾子が暴れた?」

 僕は髪をふいていた手を止めた。

「はい。綾子の部屋は、それはもう言葉にできないほどひどい有様になっていまして。とても誠さんには見せられません。きっと綾子はすこし休んだほうがいいのです。これもすべて那月が……あの恐ろしい那月が……」

 玲子は口に手をそえた。その手は震えていた。

「すごい量の本だよね」

 僕にはうまく話題を転換できたためしがない。

「はい。ここは父の書斎なのです。書斎だったと言うべきでしょうが……」

 その上、良い話題を提示できない。

「ああ、なぜ私がここで絵を描いているか疑問に思ったのですね。画材やイーゼルは父のもので、この部屋に置かれていたのです。だからそのままここで。あと、私はこの部屋が好きなんです。本に囲まれた静寂な雰囲気が……。ああ、すみません。そんな個人的な趣味なんて興味ありませんよね」

「そんなことないよ。なんだかわかるよ、その気持ち」

「本当ですか。誠さんにそう言って頂けると、私もうれしいです」

「きっと集中して描けるんだろうね」

「ええ、とても。今は心象風景を描いているんです。私の心の中に浮かんだ風景を……。描いているときは本当に平和な気分なんです。その間に綾子が休んで、癒されることを願っています。ああ、あまり見ないでくれませんか。まだ途中ですので……」

 玲子は、恥ずかしそうに絵を手で隠した。ほとんど隠せていなかったけれど。

「邪魔して悪かったね。元気そうでよかったよ」

「邪魔だなんてそんな……」

「タオル、どこに置いておけばいいかな? 戻しておくよ」

「そんな、私がやります」

「いいんだよ。絵を描いててよ。僕はもう行くから」

「お、お茶でも飲んでいったら……」

「脱衣所に戻せばいいんだよね」

「階段を降りて左です……」

「ありがとう」

 玲子は何か言いたそうだったけれど、僕は部屋をあとにした。

 階下に降りようとしたが、ふと足を止めた。階段前のドアには「Ayako」と記されたネームプレートが降ろされていた。女の子の部屋を覗くのは気が引けたが、綾子がどの程度心を乱したか知る必要があった。

 綾子の部屋はひどい有様だった。

 床には本や洋服が散らばり、引き裂かれて綿が飛び出たぬいぐるみが、いくつか転がっていた。ベッドの毛布は引き剥がされ、シーツは爪でかきむしったためか所々破れていた。椅子は転倒し、窓ガラスにはひびが入っている。一歩足を踏み入れると、砕かれたCDで足を傷つけた。

 僕はドアを元通りに閉めた。

 洗面所のかごにタオルを入れると、顔を洗わせてもらった。綾子が危ない。人格が増殖してゆくという異常、那月の凶行、いずれも精神を狂わせるには十分な条件だ。何とかしなくちゃならない。それができるのは事実を知っている僕だけだ。綾子には、両親も兄弟もいないのだから。

 どうしたらいいかわからないが、とりあえず話し相手にはなれるはずだ。会話をしていくうちに、環がすこしずつ落ち着きを取り戻せばいい。水を止めると完全な静寂をかすかに妨げるように、風がうなる音が聞こえた。どこかの通風孔から漏れているのだろう。僕は玲子の元に引き返した。

「お茶が飲みたくて帰ってきちゃったよ」

「ふふ。今、淹れますね」


 玲子の淹れた紅茶はとてもおいしかった。そういえば昼は何も食べていなかった。しかし、玲子の紅茶だけで僕は満足だった。

「お茶はもうすこしゆっくり飲むものですよ」

 玲子はポットを手に取ると、空になったカップにそそいでくれた。

「環はどうすればしあわせになれるのかな」

 僕はだしぬけに言った。

「私たちの心配をしてくれているんですね」

「そういう意味じゃないよ。いや、そういう意味なんだけど、こう……、君だけじゃなくみんなが幸せになる方法はないのかって意味だよ」

「ふふ。私は今幸せですよ、とても」

 僕は紅茶をすすった。

「誠さんといるときは、みんなしあわせなんですよ」

「そうかな。僕が事態を悪化させてる部分もあると思うんだけど」

「そんな、自分を責めないでください。誠さんはその……、優しすぎるだけなんですよ」

「優しすぎる……か」

「ええ。優しいからみんなに合わせられるんです。器量が大きいということですよ。だから、どうか気にやまないでください。私たちの問題は、私たちで解決するべきなんですから」

 たしかに、僕はみんなの調子に合わせている。だけど、その裏返しは自分がないという意味だ。僕には指向というものがないんだろうか。思い返せば子供のころから、強い感情を抱いたことがない。何かがほしいとか、将来はどうなりたいとか……。親の言うことを聞くおとなしいお利口さんでしかなかった。

 僕の頭にコンパスのイメージが浮かんだ。コンパスの針はぐるぐると回っていた。磁場の方向が定まらないのだ。

 現実に引き戻したのは、風のうなりだった。

「何の音なんだろう」

「え?」

 玲子はカップを口に運ぶ手を止めた。

「いや、さっきから風の音が聞こえるんだよ」

「気のせいですよ。紅茶をもう一杯いかがですか?」

「まだ半分も飲み終わってないんだ」

「ああ、すみません。音っていうのは冷蔵庫の音なんじゃないですか。たまに低くうなることがあるじゃないですか」

「もっと遠いところからだよ」

「そうですか。どこかの窓が開いてるのかもしれません。見てきます」

「ちょっと待って。今日は朝から雨が降っていたのに、ちゃんと戸締りをしなかったの?」

「それは……」

「降りこむほどの強い雨じゃないけど、戸締りはすると思うんだ」

 玲子は立ちかけていたが、もう一度腰を降ろした。紅茶を一口飲むと、

「誠さんには隠し事はできませんね」と言った。


       3


 風のうなりは地下室から響いていた。

 玲子はドアノブの鍵を解いたが、ノブを握ったまま硬直している。

「開けていただけませんか? 私が那月に殺されてしまうかもしれないので」

 なるべく何も考えないようにして、僕はノブを回した。

 三十代前半くらいのスーツ姿の男性が、椅子に座った状態で拘束されていた。口に巻きつけられたガムテープの隙間から、風がうなるような声を発している。

 背中に衝撃。床に顔をしたたかにぶつけた。後ろから蹴り飛ばされたのだ。

「勘がいいわね、生き腐れ。すこしは成長したんじゃない?」

 ナイフを小手先で弄びながら那月は言った。

「なぜ綾子が取り乱したのか理由がわかったよ」

 僕は那月をにらみながら腰を上げた。

「まあ、昨日の深夜にやったからね。駅の近くにふらっと行ったら酔っぱらった冴えないリーマン発見。お金がほしいから相手をしてほしいと誘惑すると、バカみたいについてきた。行為に及ぶ前に殴打アンド拘束で地下室にどーん!」

「前の殺人で十分じゃないか」

「どこがよ。まだ何もやりきってないわ。あんなものは序章にすぎない。本編がはじまるのはここから。さあ、殺戮をはじめましょう。無差別に市民を殺害してゆくのよ」

「僕はもう何も協力しないぞ」

「それって五番目の犠牲者になるって意味? あはは」

「五番目……? 三番目じゃないのか?」

 佐野茜、目の前にいる男性。三番目は僕になる。

「合ってるわよ。この男を捕まえる前に、公園でいちゃついてたおませな中学生カップルをスローイングナイフでととんっとね。朝のニュースで報道されなかったのね。発見が遅れたのか」

 那月はおもむろにスマホを操作しはじめた。

「それ冗談で言ってるんだよな」

「写真見る?」

 中学生の男女二人が抱き合うようにして倒れていた。のどにはナイフが突き刺さっている。

「どうするつもりなんだよ。いったい何人殺せば気がすむんだよ」

「逆に何人だと思う?」

「ふざけるな!」

「ふざけてないわよ。ふざけてたらマジで人殺しなんかする?」

「あの男性を解放しろ。またバラバラにするつもりなんだろ」

 男性は必死でもがいた。ガタガタと椅子が揺れる。

「物騒なこと言わないでよ。わざわざ生け捕りにしたのは別の目的よ。バラバラはあきたし、何より掃除が大変」

「掃除をしたのは僕だぞ」

「忘れてたわ。ご褒美をあげないと。ちーちゃんに替わろうか?」

「ふざけるなと言っただろ」

「カリカリしないでよ、まーくん。でもまあ、おふざけはこのぐらいにして、本題に入りましょうか。あそこに注目」

 那月は部屋の隅を指差した。ナイフが十本ほどと、ビデオカメラが無造作に転がっている。

「今回のあなたの仕事は簡単。ただ、あのカメラで男を撮影すればいいだけよ」

「何をするつもりだ」

 那月は口の片端をつりあげた。

「凡庸な市民に送るささやかなビデオレターを作成するのよ」

「僕が協力すると思うのか」

「思うわ。だって死にたくないんでしょ」

 反論できない。那月には逆らえないのか。

「誰でも自分の命はかわいいものよ。最終的には自分が大事。これが本能。でも、優秀な市民たちは偽善の皮をかぶり、他者を思いやる胡散臭い笑みを浮かべる。だから切り裂いてやる。破壊してやる。肉が内臓が血液が雄弁に物語る。私たちは決して美しくないことを。殺戮の果てには真実の世界。その世界はどんな炎よりも紅く輝いている」

 那月の言葉はナイフのように僕の脳に突き刺さる。

「さあ、誠。ビデオカメラを拾いなさい」


 僕は男性の前に立ち、カメラを構えた。液晶モニターには、男性がもがく様子が映っている。那月は僕の右横でナイフを構えて立っている。

 フレームの端からナイフが飛び込んできた。回転する刃は男性の身体の中心を捉えた。上半身を弓なりにそらせ痙攣したかと思うと、がくりとうなだれた。一撃で死んだ。あまりにもあっけなかった。

 那月は攻撃を続けた。容赦なくナイフが降り注ぐ。男性の服を裂き、肉を裂き、血を噴出させる。マシンガンで乱射されているようだった。とどめと言わんばかりに脳天にナイフを打ちこむ。那月のナイフの手持ちは尽きた。

 ほんの数秒の間で、人間が血まみれの肉塊に変貌した。

 僕は録画を停止し、カメラを降ろした。

 那月は頭を抱えて、うめき声をもらしている。

「また、あいつだわ……。誰かを殺すたびに出て来ようとしてくるわね」

「ココロのことか?」と僕はたずねた。

「そう……。死体を前にすると必ず交代しようとして来る。中学生殺しのときもそうだった。あのときは何とかおさえこんだわ。今回も、大丈夫そうね」

 落ち着いたかと思うと、ビデオカメラを乱暴に奪った。さきほど撮影した動画をチェックしている。

「まあ、手ぶれが気になるけどよしとしましょう」

「そんな動画どうするつもりだよ」

「気になるでしょ」

 那月はいたずら好きな子どものように、そう言った。人を殺したことに何の罪悪感も、動揺も覚えていない。那月は人殺しに慣れてしまった。

 地下室を出て、那月は二階に向かってゆく。

「佐野茜殺しの情報が、ネットを通じて一気に拡散したじゃない。これは使えるって思ったのよ」

 二階の廊下の左手にあるドアを開いた。

「ここは父の部屋。もう死んじゃったから使い放題よね」

 環の父親の書斎だった。机にはデスクトップ型のパソコンが一台、設置されている。

「さっきの動画をネットにあげあげしようと思います」

 那月は回転いすに座ると、パソコンの電源を入れた。

「どこかの動画投稿サイトにアップロードするってことか?」

「アップロード? まあ、詳しいことはよくわかんないけどそういうことよ。これからは殺人をするたびにネットにあげあげする。そうすることで、この街にいや日本中に劇的な速度で情報を発信するの。現代人はこの現実だけでなく、ネットという仮想空間でも生きていると言えるわ。現実だけじゃなく仮想空間もろとも凌辱してやろうってわけ。それに、情報のコントロールも容易だしね」

 那月は人差し指だけでポチポチとキーを押し、ようやくログインした。パソコンの操作が不得意のようだ。カメラにコードを接続したが、パソコンのどの部分につなげるかわからないでいる。

「これつかまされたんじゃない? 不良品でしょ」

「いやUSB端子は本体の正面に……」

「UFO?」

「どうしてこのタイミングで未確認飛行物体が飛来するんだよ」

「ああ、もう自分でやろうとしたけどわっかんない! 腹立ってきた!」

 ビデオカメラを投げ出して叫んだ。

「やっぱ替わろっと。じゃあ誠はあの男の死体をちゃんと片づけておいてね」

「え? ちょっと待って。何言ってんだよ」

「裏庭に埋めておけばいいのよ。スコップは倉庫にあるし。あと、穴は深めに掘ってよね。においでばれるとやばいから。ついでに地下室の床も掃除しておいて。それじゃ」

 那月は椅子の背にうなだれた。呼び止めようと肩をつかまえると、はっと目を覚まし、僕の手を払った。

「ちょ、ちょちょちょ触らないでください。な、那月さんもひどいなぁ。人前に出るのは嫌だってあれほど言ったのに」

 頭を両手でかきむしっている。僕の知らない人格だった。

「君の名前は?」

「あ、あた、あたしの名前ですか? き、桐絵です。本名は桐絵なんですけど、ハンドルネームはキリィです。あ、聞いてないか。あはっ、あはははは」

 かなりエキセントリックな性格らしい。桐絵はカメラを接続すると、猛烈ないきおいでキーボードを叩きはじめた。那月とは大違いだ。

「桐絵は……」

「キリィで! どちらかといえばキリィの方で!」

 パソコン画面から目を離さずに、桐絵いやキリィは叫んだ。会話をしはじめてまだ一度も目が合っていない。

「キリィはいつ目覚めたの?」

「ま、前の日曜日です。ひたすらパソコンをいじってただけですけど。そ、そしたら那月さんが現れて、いっしょにおもしろいことをしようって」

「おもしろいこと?」

「ハッキングです。他人の情報を盗むんです。セキュリティをかいくぐり、サーバーに侵入! 情報という名の宝を盗め! 証拠を残さず、ずらかるんだ! はー、このスリル素人にはわっかんないんだろうなー。と言いつつも一仕事終わり。おつかれ、キリィちゃん!」

 パソコンには某大手掲示板サイトが表示されていた。

 あまりの操作の速さに、何をしたのかよくわからなかった。すぐにウィンドウを切り替え、今度はプログラミング言語を記述しはじめた。超高速のタイピングで、白いページがたちまちに文字で埋め尽くされてゆく。

「さっき撮った動画を投稿したってことだよね」

「そうです。五つのサイトに同様の動画を投稿。二十の掲示板にリンクを書き込みました」

 画面には、動画投稿サイトが表示された。

 動画のタイトルは『冨松市ノ殺人鬼カラノ脅迫状』。キリィは再生ボタンをクリックした。

 黒い背景に白い文字で「第一ノ犠牲者」と表示された。佐野茜の死体の写真が映った。血まみれの胸に、ナイフが突き刺さっている。

 次に「第二第三ノ犠牲者」と表示される。中学生のカップルの死体の写真が映る。那月に見せられた画像と同じだった。首にナイフが刺さって死んでいる。

 さらに「第四ノ犠牲者」と表示される。さきほど撮影した動画が再生される。男性が一瞬にして切り刻まれ、血みどろの死体に変貌する。そこで動画は終わった。

 こんな動画が一般公開されたというのか。

「すぐに削除される。それに警察が捜査すれば、投稿者の住所とかも調べられるはずだ」

「匿名通信システムを利用しているから問題ありません。複数のサーバーを経由してアクセスしています。発信元の情報はわかりません。投稿の際に必要となるアカウントも全てハッキングで盗んだ他人のものを使用。捕まるとしたらこの人たちですね。

 違法動画として報告され、削除されることは確実ですが、ユーザーの中には動画をダウンロードし、何らかの加工を施したのちに、再度動画をアップロードする者がいるはずです。その動画も削除されるでしょうがまたアップされる。いたちごっこで動画は視聴され続けます」

 次にキリィは掲示板サイトを開いた。「衝撃映像!」などと言葉を添えて、動画サイトへのリンクが貼られている。すでに動画を見たのだろう。賛否両論のコメントが書き込まれている。

「す、すすすすごい。レスがハンパない。と、止まんない」

 食い入るように画面に顔を近づけ、ページをスクロールさせている。話しかけても返答せず、ただただパソコンに夢中になっている。僕はあきらめ、死体を埋めに部屋を出た。


       4


 小降りの雨に打たれながら地面を掘った。庭にある倉庫から、軍手とスコップを拝借した。頭の中がごちゃごちゃしているときは、単純作業が一番だ。何も考えずにすむ。そもそも、悩む必要などないのだ。僕は利用されているだけだ。僕は悪くない。

 淡々と土をかいてゆく。雨で地面がぬかるんでいるため、スコップを地中に刺し込むのは容易だった。人間がひとりすっぽり入るほどの穴をつくらなければならない。道のりは遠そうだ。

 時間がかかっても人に見られる心配はなかった。庭は家の裏手に位置していた。そして周囲は林に囲まれている。近くに他の家もない。ずいぶん辺鄙なところに家を建てたものだ。

 しばらく作業していると、後ろから腰を小突かれた。

「手伝うぜ」

 表情や雰囲気から恭子だとわかった。要領よくがつがつと掘り進めてゆく。

「キリィがあまりにも浮かれてるから、隙を見て交替してやったぜ。那月のやつ、またやっかいなことしやがってさ」

「ありがとう。助かるよ」

「おまえのためにやってんだからな。あたしは那月の犯罪に加担したくないんだ」

「僕だってそうなんだ。だけど脅迫されてるから……」

「ぶっとばしてやれよ、那月なんて。おまえ男なんだから女より力あるだろ」

「無理だよ。那月は強いし武器ももってるし」

「情けねぇやつだな、ホントに。あたしは那月が許せねえと思ってる。脅迫にも屈服しねえ。あいつから綾子を守ってやる。ついでに情けないおまえもな」

「そんなこと言っていいのか。那月に殺されるよ」

「そしたら那月も死ぬだろ。身体はひとつなんだからさ。あいつの脅迫はハッタリにすぎない。こっちが強気に出たらあいつもひるむはずさ」

「そんなに簡単にいかないと思う。那月は何をしでかすか予想がつかない」

「ひよってんじゃねーよ。とにかく、あいつに人格は渡さねえ。あたしと玲子で協力して身体をコントロールする」

「綾子はどうなるんだ?」

「綾子はしばらく休んどいたほうがいい。あいつは混乱しているし、最悪の場合は栞を呼んじまう」

「でも元々は綾子だったのに、当人を出さないようにするっていうのは……」

「やべーよ。だけど現状はそうするしかねえ。あと言っておくけど、これからもっとやばいことになっていくと思うぜ」

「どういう意味だよ」

「人格の増加が止まらない。あたしが心の中にいるとき、まだ出会ったことのない人格の気配を感じた。しかも、ひとりやふたりじゃねえ。もっとたくさんだ」

「綾子に聞いたよ。現実に現れていない人格もいるらしいね」

「日を追うごとに増えていく。やばい状況だけどその中には、あたしたちの仲間になるようなやつもいるかもしれねえ。とにかく、やるしかねえんだ」

 ふたりで土をかいていると、大人ひとりが十分おさまる穴が完成した。

 僕らはびしょ濡れで泥だらけだった。恭子のシャツは身体にぴったりと張り付いている。透けて見える下着に目がいくのは不可抗力だ。

「カッパ着ときゃよかったよ。バカみてえ」

 恭子は快活に笑った。しかし僕の視線に気づくと、

「見てんじゃねえよ!」と前蹴りをくらわせた。

 僕はその場に踏みとどまろうと、腕を必死に回した。その努力も空しく結局穴に落ちてしまった。

 恭子はおなかを押さえて笑いころげた。

 全身が泥で汚れてしまったけれど、恭子の心の底からの笑顔に僕は満足だった。


 その後はあまり愉快じゃなかった。血液が付着するのを防ぐため、遅まきながらカッパを着て死体を運んだ。死体に刺さったナイフは抜かずにおいた。抜けば大量の血液が流れてしまうからだ。

 ふたりで死体を穴に放り込む。証拠品となるカッパと軍手も穴に捨て、元通りに土をかぶせた。あまった土は庭のすみに適当に散らした。

 これで証拠は残らない。警察の捜査の手は及ばないはずだ。

 恭子もさすがに疲労しているようだった。まだ仕事は残っている。死体を移動させた際に、流出した血液で家は血だらけだ。さらに僕らに付着した泥が落ちて、泥だらけでもある。きれいにふかなければならない。

 僕らは肉体的も精神的にも疲弊していた。休憩が必要だった。

 恭子はシャワーを浴びると言って浴室に向かった。僕はリビングのソファーに泥だらけの身体をあずけた。リモコンでテレビをつける。中学生のカップル殺害に関するニュースが流れていた。夕方はどのチャンネルもワイドショーばかりで、冨松市の殺人事件の特集を放送している。僕はテレビの電源を消した。

 しばらくすると、ドアが開く音が聞こえた。目を向けると、バスタオルをまいた恭子の姿があった。

「まーくん、いっしょにおふろ入ろーよ」

 違った。このとろけるような表情はちーちゃんだった。疲労した恭子の人格を奪ったのだ。ちーちゃんは濡れた足でぺたぺたと近づいてくる。

「からだあらってふたりともきれいになって、それからセックスしよ」

「オブラートに包むとかそういう……」

「つつむ? ちーちゃんはねー、つつまれるのが好き」

「もう今日は色々あって頭がごちゃごちゃだよ」

「じゃあちーちゃんもまーくんといっしょにごちゃごちゃになる」

「そういうことじゃなくて……」

「わかってるよ。えっちな気分なんだよね。彼女の家でするってこーふんするもんね」

「とにかく早くシャワー浴びてきてよ」

「うわー、男らしい。けだものだー。えろえろだー。わかりましたよ。早くシャワー浴びてくればいいんでしょ。頭洗ってるときとかに、後ろからおそってこないでよ」

 ちーちゃんは「けだものー。えろえろー」と繰り返しながら浴室に向かった。身体を洗い帰ってくると、

「千佳がふしだらなことを……。私がお詫び申し上げます」と玲子が深く頭を下げた。


       5


「カウンセリングをはじめます。ああ、緊張しないで。ただすこし話を聞くだけですから。まずはあなたの名前を教えて」

「環玲子です」

「環玲子さん……。あなたの戸籍上の名前は環綾子になっていますが」

「はい。綾子さんは別の人格です。元々この身体は綾子さんのものでした」

「あなたは綾子さんの別人格で綾子さんが基本人格である。そして、自らが多重人格であると自覚している」

「その通りです」

「私は今、多重人格と言いました。しかしこれは通称で、正式には解離性同一性障害と呼ばれる精神疾患です」

「なんだか難しい名前ですね」

「事前に回答してもらったアンケートによると、時間がたつにつれて人格が増加してゆく点をお悩みのようですね」

「はい、そうです。症状が悪化していると思うのです。綾子を元の状態に戻してあげたいんですが……」

「安心してください。過去にも解離性同一性障害になった人々がいて、治療法は確立されています」

「どうすれば治るのですか?」

「人格を統合することです。つまり基本人格の綾子さんに他の人格を統合するのです」

「そうですか……。じゃあ私は……」

「玲子さん、あなたが死ぬわけではありません。割れたお皿を想像してください。その破片をひとつひとつ動かして、元のお皿になるようにくっつける。人格を統合するというのはこういうことです」

「私たちは元々の綾子さんが、ばらばらになった存在だということですか」

「そうです。解離性同一性障害にかかる前の綾子さんはあなたたちの総体です。だから玲子さんが死ぬことはないのですよ」

「でも……、おかしくはありませんか? アンケートにもお書きしたんですけれど、皆様には色々な特徴があります。たとえば、私は絵が描けます。恭子はスポーツが得意です。桐絵はコンピューターの知識に優れています。元々の綾子さんがそれらすべての能力と知識をもっているというのは不可能に近いと思うんですが……」

「実は私も同じ疑念で頭を悩ませています。元の綾子が天才的な頭脳をもっていたのならまだうなずけますが、記録によると知能も運動能力も平均的だった。ここから様々な才知をもった人格たちが現出したとは考えにくい。疑問点は他にもあります。人格たちが相互に別人格を認知している点です」

「それはつまり私たちがそれぞれ、他の人格のことを知っているという意味ですか?」

「その通り。このケースは非常に稀です。患者の多くは他の人格に交代したら、そのときのことを覚えていないんです。基本人格が他の人格に代わりまた元に戻った場合、あいだの記憶が抜けているから、突然知らない場所にいて知らない相手が目の前にいるといった状況になるわけです」

「そんな状況は今まで一度もありません」

「そもそも解離性同一性障害には記憶障害がつきものなのです。しかし、あなたたちにはそれがない。私は疑問に思っています。この症状は本当に解離性同一性障害なのだろうかと。歯切れが悪いですが、今回のカウンセリングはそろそろ終了しましょう。人格の増加がまだ続いているから、ストレスに気をつけてリラックスして過ごすようにしてください。今後もカウンセリングを継続し、症状の把握及び回復に努めることを強くおすすめします。それでは」

「先生、ありがとうございました」

「感謝しているのは私もです。私もまた志保という環の一人格に過ぎないのですから」


 綾子の部屋は、玲子が掃除をしてきれいに片付いていた。

 玲子は鏡台に座り、鏡に向かって延々としゃべり続けた。何も事情を知らない人が見れば、ただの奇行だが、僕には人格の変化がわかる。玲子が話すと鏡に映った志保が話すといった形で、カウンセリングが行われた。

 今朝、玲子が自室で化粧をしていたときに現れた人格だそうだ。必ず鏡の中に現れる。放課後、僕は環の家に行った。先生こと志保と出会い、アンケート用紙の作成などのカウンセリングの準備を手伝った。

 他人の記憶もわかるんだから、アンケートなんて必要ないんじゃないかと問うと、形式が大切なのだと志保は鏡の中から返した。本当のカウンセラーがカウンセリングを行ったという形に、なるべく近づけたほうが効果があると志保は考えたのだ。

 僕は綾子のベッドに腰掛け、紅茶を飲みながらその様子を見物していた。カウンセリングが終わると、鏡台に腰かけた玲子はぐっと背をのばした。振り返り、僕の存在に気づくとすぐに姿勢を正した。

「付き合って頂いてありがとうございました」

 礼を言うと、ポットに紅茶を淹れにいった。

 今日は五月十七日金曜日だ。なので、明日あさっては休日だ。とてもおだやかな気分だった。

 死体を埋めたあの日から、恭子と玲子は交代しつつ日常を送った。学校では綾子のふるまいをまねしたので、誰にも疑われなかった。この対処をして三日間、那月は現れていない。恭子と玲子のおかげだ。自らをカウンセラーと語る人格も現れ、状況は好転しそうだ。

 冨松市の名は日本全国に知れ渡った。『冨松市ノ殺人鬼カラノ脅迫状』の効果だった。動画は削除されたが、匿名の投稿者たちによってコピーがアップされ続け、今だに大量の視聴者を獲得している。キリィの推測は正しかったのだ。

 ネットはその話題でもちきりだ。いくつものスレッドがたてられ、推理や憶測が飛び交っている。犯人像や犯行の動機なども、熱心に議論されている。

 動画に何のメッセージもないことが、視聴者に想像の余地を与えるため、議論が盛り上がっているようだった。那月は狙ってやったのだろうか。もしかしたらキリィが助言したのかもしれない。

 警察は大きく動いた。DNAからバラバラ殺人の被害者を佐野茜と特定。人間関係を捜査した。学校にも聞き込みを行った。そのときは冷や汗ものだったが、佐野茜とは学年が違ったため、質問される機会はなかった。

 そして、今朝のニュースに僕は驚かされた。動画を投稿したと見られる五人の容疑者が逮捕されたと報じられたのだ。警察は五つのサイトに投稿したアカウントそれぞれから住所を割り出し、逮捕に踏み切ったそうだ。

 五人もの人間が関与しているわけがないし、容疑者たちは全て県外に在住していた。明らかに誤認逮捕だ。もしかして、警察は誤認逮捕を覚悟で容疑者を捕え、真犯人との関連を捜査するつもりかもしれない。

 あらゆるメディアがこぞって一連の事件を取り上げていた。

 しかし、犯人が女子高生であるとは夢にも思わないだろう。

 紅茶を飲みながら、玲子と他愛もないことをしゃべりあった。このまま平和が続けばいいと思った。でも、そうはいかないことも感じていた。那月は必ずやってくるだろう。そして凶行を繰り返すだろう。

 僕は妙なさびしさを感じていた。それを否定するように大げさに笑ってみる。


 帰り際、玲子はすこし言いにくそうに悩みを打ち明けた。

 ひとりきりになるが恐いそうだ。

 学校など人に囲まれた場所では、人目があるから那月は出てきにくい。しかし、ひとりきりになると人格を交代される危険性がある。なので、玲子が学校の授業を終えると、恭子が交代して身体の乗っ取りを防いでいるそうだ。那月の精神力に勝てるのは恭子だけだ。ただ、家事などは恭子にはできないので、その都度玲子に交代する。

 問題は土日だった。ひとりでいる時間が長いと、さすがに恭子でも耐えられないのではないか。

「だからあの、宜しかったらでいいんですが……」

 玲子は口ごもった。恭子は堂々と言った。

「誠、遊びに行こうぜ。どうせ暇だろ?」


    6


 学校前のバス停で待ち合わせをして、冨松駅まで十五分バスに揺られた。

 目的地は駅のすぐ近くにある、北武百貨店というデパートだった。八階建てのデパートには、何でもそろっている。週末にはたくさんの客が訪れ、かなり繁盛している。たぶん行き場が他に見当たらないのだと思う。

 バスの窓から北武デパートが見えてきた。田舎は一戸建てが多い。駅前にはマンションもあるが、やはり北武デパートが目立つ。街にある高い建物がデパートなんて、情けない話だ。

 玲子はふりふりしたスカートをはいていた。はじめて見る服だった。髪もいつもよりふわっとしていた。

「恭子さんが誘ったのに、私に一方的におしつけて……」

 玲子はぶつぶつと独り言をもらしていたが、昼ご飯を食べるためにとりあえずデパート内のレストランに入った。

 注文をすると、ほどなしくてドリンクが運ばれた。テーブルには沈黙が降りた。玲子が何もしゃべろうとしないのだ。綾子の家ではそんな感じではなかったのだが……。

「そういえば絵ってどうなったの?」

 僕は会話を切り出してみた。

「あ、私の描いている絵ですよね。順調ですよ」

「色づかいが上手だなって思った。いや、全然素人なんだけどさ」

「ありがとうございます。うれしいです」

 そう早口で言って、玲子はストローでジュースを吸った。

「機嫌が悪いの? 何かいやなことでもしちゃってたかな」

「そ、そんなことはないです。その、具合が悪いというか……」

「大丈夫? 家で休んでたほうが……」

「いや、治りました。今、治りました。すみません」

「もう治ったの?」

 玲子は急に席を立った。

「あ、あのお手洗いに行ってきても宜しいですか? あっちでしょうか?」

「逆だよ」

「逆ですね? なるほど。行って参ります」

 トイレに行くぐらい、恥ずかしがらなくてもいいのにな……。そう思っていると、料理が運ばれてきた。ふたりともハンバーグランチを頼んだ。

「うまそうじゃん。外食なんてひさしぶりだなー」

 恭子は席につくと、ハンバーグをぱくぱくと食べはじめた。

「あれ、玲子は?」

「恥ずかしいんだってさ。かわいいやつだよな」

「トイレぐらい問題ないと思うけどな」

「そっちじゃねえよ。どんだけ鈍感なんだよ。うん、このソースは悪くないな」

 恭子は料理をあっという間に食べた。

「すみませーん。バナナチョコパフェひとつ追加で!」


 僕らは、六階のゲームコーナーで遊ぶことにした。恭子はアイスホッケーのゲームで遊ぼうと僕を誘った。僕は屈辱を味わっただけだった。一点も取れなかったのだ。恭子は角度をつけてパックを打ちこんでくる。僕は翻弄されっぱなしだった。

 ゲームは三回も続いた。全て敗北した。手が出なかった。

「うん。いい運動になった。ありがとな」

「楽しかったんならよかったよ」

「次はどこに行くつもりなんだよ」

「えーと、洋服を見るとか……」

「じゃあ、パス。あたし服とか興味ないんだ。玲子に代わるわ」

 玲子は、ほおをかきながら言った。

「お、お久しぶりです」

 玲子もまた洋服を見るのを嫌がった。服は家にあるからいいそうだ。今日の玲子はいつもと様子が違う。そわそわしていて落ち着きがない。どこに行くべきだろうか。フロア案内とにらめっこする。喫茶店に行ってすこし休もうと提案しようとしたが、その前に玲子が口を開いた。

「八階に行きましょう。探し物があるんです」

 八階は本のフロアだ。探している本があるのかと思っていたが、本屋には行かなかった。玲子はフロアの片隅にある文房具ショップに向かった。

 画材のコーナーに足を運ぶ。

「絵の具が切れてたんですよ。えーと……、ありました」

 油絵の具のホワイトを手に取って、にっこりとほほ笑んだ。

「白はすぐに切れてしまうんですよ」

 玲子は興味深そうに絵筆を眺めはじめた。僕には違いがよくわからなかった。悩んだあげくとても細い絵筆に決めた。制作している絵画で、細かい描写がしたいらしい。

 となりにある漫画の画材コーナーに目を止めると、玲子はつぶやいた。

「に買ってあげましょうか……」

 聞きなれない名前だった。玲子は人目がないことを確認すると小声で言った。

「申し訳ありません。誠さんには言っていなかったんですが、また新しい人格が現れたんです」

「それが寧々っていうの?」

「はい。寧々は悪い子ではないので、私たちの味方だと判断しました。少々変わっていますが、私と同じでとても絵が好きなのです。ちょうどいい機会なので交代してみますね」

 僕が制止するよりもはやく人格が交代された。

「カゴ! カゴもってこい!」

 寧々はいきなり叫んだ。カゴを持ってくると、漫画の画材と原稿用紙を、大量につっこみはじめた。

「オッケーだよ。誠、お会計」

 僕は重たい袋を両手にさげて文房具ショップをあとにした。

 寧々はエレベーターに歩んでいく。

「どこに行くつもりなの?」

「家」

「帰るの? まだ夕方だよ?」

「バカ野郎。ボクには時間がないんだ。誠、走って帰るよ」

 エレベーターが開くと、僕らはバス停まで走った。周囲の視線を痛いほど感じた。一人称に〝ボク〟って使うタイプか、と複雑な思いを抱いていた。


 寧々の家まで荷物を運んだ。バスに乗っている間、延々と知らない漫画の話をされたため、非常に疲れた。帰ろうとすると、猫を扱うように襟首をつかまれた。

「逃げるなよ。那月のこともあるし、何より仕事だろ」

 ――仕事?

 自室まで連れて行かれた。寧々はさきほど買ってきた漫画の画材と、原稿用紙を机にセットした。

「さっき仕事って言ってたのって……」

「漫画の制作に決まってるじゃん。さー、描くぞ! 白紙の原稿を見たら燃えてきた! あ、資料を忘れてた」

 寧々は駆け出した。ついて行くと、環の父の部屋だった。

 たくさんの本が並んでいる。

 寧々は骨格について書かれた本を取り出した。また、多重人格についての本も取り出した。

「あとは風景かな」

 写真集を取り出し、寧々は満足のようだった。

「これから漫画を描くの」

「漫画?」

「そうだよ。うっ……。急に頭痛がしてきた。玲子に代わるね」

 玲子は本を持ったまま、複雑な表情をした。

「この本棚を見て、思い出しました。父の実験を」

「実験?」

「はい。父は知能科学の研究者でした。父は天才を作り出そうとしていました。その実験の対象が私です」

「どんな実験なの?」

「脳に電気刺激を与えながら、色んな本やネットを閲覧するんです。もしかしたら、多数の人格を内包しているのは、実験のせいかもしれません」

「きっとそれだよ。他に思い出せることはないの?」

「駄目です。頭が痛くって……。もう、寧々に代わります」

 寧々に人格交代すると、急に笑顔になった。

「さあ、漫画を描くぞ!」

 そして、環の部屋に戻るのだった。


 寧々は机に、原稿用紙を置いた。

 すごい速度でシャーペンで、下書きを描きはじめた。

「誠はボクのアシスタントに任命。よかったね。そこにあるちっちゃいテーブル使っていいよ」

「アシスタント?」

「そうだよ。簡単な作業だけだから心配するなよ。まずは原稿さわっても汚れないように手袋つけてね。買い物袋に入ってるからさ」

 白くて薄い手袋を装着して、示された座卓についた。

「寧々はどうして漫画を描いているの?」

「決まってるじゃん。投稿だよ。ストーリー漫画を描いて、新人賞を獲得! 華々しく漫画家としてデビューするのがボク夢だ。人格が交代しちゃうかもしれないから、ガンガン描かなきゃ!」

「すごいね。いきなり下書きから描くんだね」

「さすがボクのアシスタント、いいとこに気づくね。通常はノートとかにさらっと鉛筆で、漫画のラフを描くネームって工程のあとに下書きに入る。でもでも、ボクの頭には完全にイメージができあがっているから、ネームは必要ないのだ。まいったか!」

 下書きを終えた原稿に、高速でペン入れをしながらしゃべっている。

「はい、一ページ完成! 取りに来いアシスタント!」

 僕は原稿を受け取った。同時に消しゴムも渡された。

「新米アシスタントの仕事は、消しゴムかけだよ。原稿の鉛筆の線をきれいに消すこと。絶対に紙を破っちゃダメだよ。マジに怒るからね。と、そのまえにドライヤーでインクをきっちり乾かすこと。そうしないと、消しゴムかけたときにインクがにじむからね。にじんだら最悪だからマジに怒るからね」

「ドライヤーがないけど」

「洗面所にあるから取って来い! 走れー!」

 ドライヤーで丹念に原稿を乾かした。

 そのページは寧々の描く漫画の表紙だった。背景は街の風景だった。その中に十人ほどの人々が描かれている。道を歩んでいる者、喫茶店のテラスでお茶をしている者、犬の散歩をしている者、スマホをいじっている者――。様々な動作をしているが、おかしな点があった。全員が同じ女の子なのだ。同じ制服。同じ顔。表情は若干異なっていた。ものの数分で描いた原稿とは信じられない出来だ。

 原稿の上部にタイトルが鉛筆で殴り書きされていた。『無限人格少女』だった。

「いいタイトルだろ。インパクトがあってさ」

 寧々は描きながら言った。

「これってもしかして君のこと?」

「そうだよ。ボクの体験を元にフィクションとして再構成したんだ。表紙はそのイメージ。実際に登場する女の子はひとりだ。人格はたくさんあるけど」

 寧々は『無限人格少女』のストーリーを語った。

「際限なく人格が増加していく女の子に出会った少年の物語なんだ。なぜ人格が増加しちゃうかっていうと、悪い魔法使いに呪いをかけられちゃったんだよね。呪いを解く方法はただひとつ。少年が好きな人格を決めてキスすること。だけど少年はどの人格がいいか迷って選べない。結局、ラストシーンで最後の決断をするんだけど、いったい少年は誰を選ぶのか? そんな話さ」

「おもしろそうだね。結末も決まってるんだ」

「いや、少年が誰を選択するかは決めてないよ。それは描きながら決める。ストーリーはね、キャラが勝手に動いて創るものなんだ。ボクはその姿をトレースするだけさ」

 僕は原稿に消しゴムをかけはじめた。しっかりした紙だが、きちんと手をそえないと破けてしまいそうだった。

「無限っていうのは、ずいぶん突飛なアイディアだね」

「実際、どんどん人格が増えていってるしね。中には表に出ない者もいるみたいだから、誠が知る数よりもっと多いんだ。ほんと無限にいるんじゃないかってぐらい。だから『無限人格少女』ってタイトルにしてみた。単に『多重人格少女』じゃつまらないしさ」

 僕は消しゴムのかすを払った。強弱のついた美しい線があらわになった。

「原稿に×印ついてるとこあるでしょ。そこ黒く塗りつぶして」

「え、それもやるの?」

「トーンのカットもやってもらうからね。がんばれ、新人アシスタント!」


 僕はまぶたをこすった。居眠りをしてしまったらしい。時計を見て驚いた。午後一時だった。窓から差し込む日差しがまぶしい。

 徹夜で作業をしていたが、途中でテーブルに突っ伏し眠ってしまった。おそらく午前五時ぐらいに力尽きたと思う。約十時間ぶっ続けで漫画を描く手伝いをした計算だ。おかげで右腕が筋肉痛になった。

 ふたりで分担して効率的に作業を進めた。僕の目の前にある、トーンのカット途中の原稿は四十ページ目だった。ストーリーはまだ中盤で、主人公が色々な人格と出会い、トラブルに巻き込まれているところだった。完結まで相当なページ数が必要になるだろう。どこの出版社が投稿を受け付けてくれるのだろうか。

 僕は立ち上がり、寝ぼけた顔をはたく。

 寧々がいない。


       7


 とりあえず二階のトイレを調べたが、寧々の姿はなかった。一階を駆け回るが、どこにもいない。

 僕の過失だった。那月に身体を乗っ取られたに違いない。

 僕が眠ったあと、眠気で注意力を失った寧々は強制的に、人格交代されてしまったのだ。

 地下室に向かうが姿はない。外に行ったのだろうか。だとしたら、新たな犠牲者が……。

玄関扉に手をかけたところで、二階から声が聞こえた。

「やけに想像しいじゃないか。静かにしてくれたまえよ」

 環の部屋以外、二階は調べていなかった。パニックに陥っていたのだ。

 恥ずかしさを感じながら階段を上がると、環は父の書斎にいた。玲子が絵を描いている部屋だ。イーゼルとキャンバスはそのままになっている。

 環は煙草を吸っていた。すこし気持ちが落ち込んだ。

「君は新しい人格かい?」

 環は書斎の机の席を立った。本を読んでいたらしい。

「なぜそう思ったんだい、君は」

 紫煙を吐ながら、透き通った視線を向けた。

「口調とか声色が、今までに出会ったことのない感じだったから。あと煙草を吸う姿もはじめて見た」

「なかなかの推理だね。君には資質があるかもしれないよ」

「やっぱり新しい人格なんだね」

「ご明察だよ」

 環は部屋をぐるぐると回りはじめた。

「君は不安だろうね。この人格は良い人格なのか、それとも那月のように悪い人格なのか判断できずにいる。君には不安なときに左手でふとももをかく癖があるから一目瞭然だ」

 言われた通りだった。僕は無意識にふとももをかいていた。

「僕の名前はルナ。決して悪い人格ではないさ。なぜなら僕は探偵だからね」

 立ち止ると、ルナは自信たっぷりにそう言った。〝探偵〟という非現実的な響きに、僕はたじろいだ。一人称に〝僕〟を使うことにも。

「探偵なんて言った者勝ちみたいなものさ。それ相応の推理力と犯罪に関する知識が必要になるがね」

 ルナは机に乗った灰皿で煙草を消すと、読みかけの本をしおりもはさまずに本棚に戻した。推理小説のようだった。

「もう読まないの?」

「読む必要がないからね。五十ページ読んだところで犯人もトリックもわかった」

「まだ十分な証拠とかが提示されていない段階だと思うけど」

「著者の意図を推理したのさ。今読んだ段階で考えられうる犯人及びトリックのうち最も著者が好みそうなものを選べばいい。推理小説は著者の創造した世界だからね。明示された証拠から帰納的に推理するより、著者の意図から演繹的に推理するほうが、よほどはやいのさ」

「誰が犯人か確認したの?」

「しないよ。僕が探偵なんだから、僕が推理した真相が正しいに決まってるじゃないか」

 決めつけにすぎないような気がしたが、つっこまないことにした。

「頭の体操はこのぐらいにして、目下の謎に取り組まなくちゃならない。環に関する謎のことだがね。現実は小説と違い不合理かつ不確定な要素が多い。さすがの僕も解決までの道筋がぼんやりと見える程度だ」

「那月の事件を解決してくれるのか。綾子を助けてくれるんだね」

「違うよ。那月の事件はまだ終わっていないから、推理は保留だ。問題は他にある」

「え? だって今一番の問題は那月の犯罪のはずじゃあ……」

「誠君。君は推理小説を読んだことがあるかい?」

「まあ、すこしぐらいは……」

「よし。では、探偵が事件を解決するのはいつだい?」

「そりゃ、ストーリーのラストだけど」

「わかっているじゃないか。探偵が事件を解決するのは犯罪が終わってからなんだ。したがって、探偵は犯罪の経過を看過しなければならない」

「那月の犯罪を見過ごすってこと?」

「そうさ。だから警察にも通報しない。事件が終わればきちんと解決する。そもそも、犯人は那月と決まっているわけだからね」

 愉快そうに言うと、二本目の煙草を取り出し、火をつけた。

 僕は不満を隠せなかった。

「じゃあ何を解決するっていうんだよ」

「問題は二点ある。人格が増殖する症状の謎とココロという人格の謎だ」

「それは探偵が解決するような謎じゃないんじゃないか」

「何を言ってるんだい、誠君。探偵は犯罪に限らずあらゆる謎を解決しなくちゃならないんだ。論理と飛躍をもってね。それに謎が解ければ、綾子の助けになるじゃないか」

「人格の増殖の原因がわかったら、適切な対処ができるかもしれない……か。だけど、ココロに関しては超常現象としか言いようがないと思うけど」

「たとえ超常現象でも、論理的な解決はありうるさ。僕は二つの謎が関連していると考えている。どちらかの謎がもう一方の謎を解く鍵になっている、そう思えるんだ。そして、これらの謎を解く端緒を僕はつかんでいる」

「もうすでに何らかの手がかりをつかんでるってこと?」

「君には注意力が足りなかったのだよ。綾子が交通事故で亡くした両親のことを話したのを覚えているかい?」

「えーと、あまり悲しくなかったって言ってたな。葬式でも泣かなかった。両親は教育熱心で、綾子は好きじゃなかったって」

「そこだよ」

 ルナは目を光らせ、僕を指差した。

「そこが最も奇妙な点なんだ。接点があったはずなのに、実の両親が死んだことがあまり悲しくないなんてありえるだろうか。おかしいと思わないかい?」

 興奮した様子で、身振り手振りを加えて語り出した。煙草の灰が落ちそうだが、気にもとめない。

「たしかに、改めて説明されるとおかしいように思う」

「綾子が何らかの虐待を受け、両親を憎んでいたことを隠すためについた嘘であると考えることもできる。しかし、その可能性は否定できる」

 ルナは本棚に歩み、一冊のアルバムを手にした。

「君がここに来る前にこの部屋は一通り調べた」目当てのページをめくり、僕の前に突き出した。「これを見たまえ」

 中学生ぐらいの綾子が両親といっしょに、ケーキを囲んで食卓についている写真だった。綾子の誕生日パーティの写真だ。場所はこの家のダイニングだった。

「虐待をする親に見えるだろうか。しかも、この写真の前には綾子が母親といっしょに、ケーキをつくる姿が映されている。他にもこの家で撮られた仲睦まじい家族の写真が、このアルバムには収められている。したがって、両親が死んで悲しまないのは、違和感があるんだ」

 ルナの着眼点に瞠目した。探偵を自称するだけのことはある。

「綾子は嘘をついたのだろうか。本人に問い質すのは現状では難しいが、綾子の記憶は僕の記憶でもある。思い返してみると、両親は教育熱心だが、憎むほどではなかった。だが、記憶に欠落があることに気づいた。交通事故、前後の記憶だ」

「記憶喪失か……」

「おそらく交通事故がきっかけで記憶喪失が起きた、と僕は推理する」


 ルナの提案で、カウンセリングが行われることになった。記憶喪失の詳細を調べるためだ。前回、カウンセリングを受けた玲子が適任だということで、人格交代が行われた。

 玲子が鏡台で目覚めると、僕はたずねた。

「玲子はルナを仲間に入れるつもりなの?」

「はい。問題を解決すると言ってくださってますから。恭子さんも異論はないでしょう。誠さんはどうお考えですか」

「僕もその意見に賛成だ。本当に良い人間かどうかは疑問だけど、謎を解決するのに熱心みたいだからね」

 玲子はうなずいた。

「誠さんは見守っていてくださいね」

 と言うと、鏡に対峙し、カウンセリングを開始した。

「玲子です。先生、宜しくお願いします」

「ひさしぶりですね、玲子さん。経過はどうですか?」

「良いとは言えません。人格がまた増えてしまいました」

「なるほど。それでは、今回のカウンセリングは趣向を変えましょう。前回は現状の理解が主でした。しかし、今回は問題の起点に立ち返り、病気の本質を見極めるように努めましょう」

「宜しくお願いします」

「多重人格となったきっかけは交通事故でしたね。ここが問題の起点です。あなたは両親を失い、ひとり生き残った。今でも両親のことを思い出し、嘆くことはありますか」

「いいえ、ありません。ルナという新しい人格に指摘されたのですが、私の記憶がおかしいということがわかりました」

「記憶がおかしいとは具体的にどんな状況ですか」

「交通事故付近の記憶がないんです」

「部分的な記憶喪失があったということですね。事故で外傷が見られなかったことから、内因性だと判断できます。両親の死というトラウマを回避するために、記憶喪失という防衛反応が働いたのでしょう。楽しい思い出がなければ、悲しむ必要もありませんからね。問題を掘り下げましょう。あなたは両親の名前と顔を覚えていますか。ここに写真があります」

「覚えています。たしかに両親です。名前は直樹と美奈です」

「正解です。完全に記憶がないというわけではないようですね。それでは、交通事故以前のあなたの記憶に問題はありませんか?」

「学校のお友達や先生のことはよく覚えています。幼稚園から高校まで素敵な思い出がたくさんあります」

「家では何をしていましたか?」

「家族で食事をしていたと思います」

「では、あなたがひとりでいたときは何をしていましたか? あなたには自分の部屋がありましたよね。ひとりで何かをする時間はあったんじゃないですか」

「スマホをいじるとか、勉強するとか、その程度だったと思います」

「玲子さん、あなたは油絵が得意だそうですね。絵を描く技術はどこで習得したんですか?」

「おそらく、父の実験のせいです。あらゆる科目の教科書を読み流しましたから」

「実験の詳細を覚えていますか?」

「知能を上げるための実験だったと思います。事実、私のテストの点は上がりました」

「様々な知識を得た結果、多重人格になったと? もっと勉強熱心な人間は他にいると思いますが、多重人格にはなりませんよね。なにかきっかけがあったんじゃないですか?」

「たしか、なにか衝撃的な音が聞こえたような……。でも、頭痛がして……」

「あまり無理をしないで下さい、玲子さん。あなたは一部の記憶を失くした。これが単なる健忘症なのか、解離性同一性障害の症状なのか、さだかではありません。カウンセリングを重ねて、問題を明らかにしていきましょう。今回はここまでにしますね。疲労されているようですから、休息を忘れずにとってください。それでは」

「先生、どうもありがとうございました」

 玲子はふらふらと鏡台を立った。

「大丈夫かい?」

「だ、大丈夫です。少し疲れただけですよ。徹夜もありましたから」

 ベッドにぐったりと横になる。僕は眠ってしまったが、寧々とルナは一晩中起きていたらしい。

「二日間もお付き合いして頂いて、ありがとうございました。誠さんにご迷惑をおかけするばかりで、本当にすみませんでした」

「そんなことないよ。すごく楽しかったよ。今度はまた別のところに行ってみようよ」

 まぶたをうすく開き、玲子は笑った。

「誠さんが誘ってくれるのですね。うれしい……」

 そう言いながら、玲子は眠ってしまった。静かな寝息だけが聞こえる。僕は玲子に毛布をかぶせた。漫画制作で散らかった部屋を元に戻し、原稿や画材は机の引き出しに入れておいた。ぐっすり眠っている玲子の寝顔を確かめると、電気を消し、部屋をあとにした。

 時刻はまだ午後三時ぐらいだが、一睡もしていないことを考えると、寝るのにはやいとは言えない。あそこまでの熟睡なら那月もやってこないだろう。

 僕は家に帰ることにした。疲労と眠気が今さらのように襲ってくる。そして、げんきんなことに、ひどく空腹感を感じた。思い返してみると、ご飯を食べたのは昨日の昼のレストランが最後だった。

 親が心配しているかもしれない。そもそも、泊まるなんて言っていなかった。バッグに入ったスマホには着信履歴がおそろしいほど残っていた。マナーモードにしていたから気付かなかったのだ。まあ、男友達と遊んで家に泊まったとでも嘘をついておこう。

 環の家を出ると、日光が僕を照らした。

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