【長編小説】失学園―スクール・ロスト― ⑥ END
- 弑谷 和哉
- 6月8日
- 読了時間: 17分
十二月 失われたセカイ
1
ひきもどされた時藤の意識は、右眼の痛覚によって覚醒する。涙のように眼から血が流れ、天井に落ちる。時藤は天井に、ひっかき傷があるのを認めた。
それはただの傷ではなかった。刻み込まれた文字だった。
「て本開をい」
天羽が残した魔法の言葉。
時藤の記憶の入れ替えに法則性があることに、天羽は気づいた。ランダムではなかったのだ。
時藤が入れ替えた時間は八月から十二月の五ヵ月間である。この五ヵ月は次の順序に入れ替えられた。
九月、十一月、十月、十二月、八月。
また、時藤は「みんな死ぬ」という五文字のメッセージを残そうとしたが、順番は次のように入れ替えられた。
ん死なぬみ。
時間の入れ替えもメッセージの入れ替えも、五つの要素という共通項がある。そして、それぞれは同じ法則にそって、入れ替えられていたのだ。
①八月 ②九月 ③十月 ④十一月 ⑤十二月
②九月 ④十一月 ③十月 ⑤十二月 ①八月
①み ②ん ③な ④死 ⑤ぬ
②ん ④死 ③な ⑤ぬ ①み
入れ替えられると、最初に元の要素の二番目が来て、次に四番目、その次は三番目、そして五番目、一番目と続く。
天羽は五つの要素の入れ替えについては、法則性を見抜いたのだ。時藤に『The Catcher in the Rye』を渡すとき、天羽はこういった。
「に本大を切」
この言葉は、さきほどの法則にそって、時藤の中でこう入れ替えられる。
①に ②本 ③大 ④を ⑤切
②本 ④を ③大 ⑤切 ①に
天羽は自分で文字を入れ替えることにより、時藤に意思を伝える試みをしたのだ。時藤は本を大切にしまいこんだ。天羽の言葉はきちんと時藤の胸に届いたのだ。法則は正しいと、天羽は確信をもった。
そして、天羽は天井に文字を刻み込んだ。最悪の事態を免れるために。
①て ②本 ③開 ④を ⑤い
②本 ④を ③開 ⑤い ①て
その言葉は時藤の心に伝わった。ふところから本を取り出す。
『The Catcher in the Rye』。
本を開いた瞬間、大量の文字が時藤の眼に飛び込んできた――文字通りの意味で。
紙面に付着していた英字は、羽虫がわきだすように飛び立った。無数の文字の群れが時藤の顔を襲う。驚いた時藤はページを止めていた指をはずしてしまう。パラパラとめくれるページ。そのページに印刷された文字も時藤の視界に入り、飛散してゆく。
葛葉言乃のセカイだった。
本からあふれ出た文字たちは瞬時に、周囲の空間を満たしてゆく。
羽虫の大群が突如として現れたのだった。
譜久原は反射的に顔をおおった。そして、短い悲鳴が廊下に響き渡る。
逆井だった。天井に膝をつき、そのまま倒れ込む。
逆井は虫に驚き、気絶したのだ。
虫が苦手な逆井が、こんな大量の羽虫に耐えられるはずもなかった。
譜久原は指揮棒をふるい、虫を追い払おうとやっきになる。そうしているうちに、自分の体重が軽くなるような感覚をおぼえた。
時藤をにらみつける。
そういうことか。でも、なぜおまえが――。
意識を失ったことにより、逆井のセカイは閉じられる。
したがって、重力は反転する。
2
青い空に落ちてゆく。朽木は亜桜の手を離さない。そうすれば、ずっといっしょにいられるから。
落ちていくが、落ちるべき場所はない。どこまで落ちても空の青にたどり着くことはない。ふれることさえもできない。
おそろしい喪失感だった。
落下する速度が徐々におちてゆく気がした。空気の流れのせいだろう。
だんだんと遅くなり、そして止まった。
空中で静止したとき、亜桜と目があった。
なにが起きているのかわからず、きょとんとしている。
朽木も同じだった。
地表に向かって、ゆっくりと降下しはじめる。
重力がもとにもどっているのだ。
地表が迫ってくる。
なにが起きているのか。朽木は思考を巡らせる。逆井のセカイが失われたということか。星川のときと同じように。
霞ヶ原学園を通過するとき、重力は徐々に強まっていった。
落下の衝撃をすこしでもやわらげてやるため、朽木は亜桜を抱きしめた。
ふたりは地上に落下した。
思っていたよりも衝撃は強くなかった。重力の変化がゆるやかだったためだ。
「大丈夫か?」
声をかけると、亜桜はうなずいた。
立ち上がると、重力がたしかに作用してるのを感じだ。もとどおりの重力だ。
亜桜がなにかをいおうと、口を開きかけたが、朽木は即座にいった。
「猪爪が追ってくるかもしれない。走れるか?」
亜桜は口を閉じ、うなずく。
手をひき、校門に向かって走りはじめた。
息を切らしながら亜桜はたずねる。
「校舎に逃げなくても、よいのですか」
「それじゃあ、あいつにやられる。俺の鼠で校門の鍵をなんとかする」
亜桜はふりかえった。朽木を追いかけるようにして、一匹の鼠が地を這っていた。
世界は反転し、重力がもとにもどる。
猪爪は床に着地すると、すぐさま窓の外を見やる。考えているのは獲物のことだけだった。逃げてゆくふたりの姿を猪爪はとらえた。
追いかけようと、窓の外に飛び出そうとした。だが、七海が咳き込む声が聞こえ、後ろを見やった。
七海は血を吐きながら、もだえ苦しんでいた。猪爪は机や椅子がぐちゃぐちゃになった教室を、かきわけるようにして七海に近づいた。
「な、七海……」
血まみれの身体にふれようとすると、七海は声を張りあげた。
「来るな、化物!」
猪爪はのばした手をひっこめた。
「七海……。俺、化物だけど、七海のこと、心配で」
「私はおまえを人間にもどせない。そんな魔法はない」
七海はあとずさりながら、そういった。床についた血のあとが生々しい。
「俺、そんなこと、望んでない。それ、七海の思い込み」
「私につきまといやがって――殺してやる!」
杖が突きつけられる。
「俺、ただ、七海のことが――」
その先をいうことはできなかった。杖の先端から解き放たれた蛇は、猪爪の命を喰らった。
獣が倒れてゆく。黒い体毛が抜け、宙に舞い、あとかたもなく消える。猪爪は死に、彼のセカイは終わる。自分が獣だと考えていたセカイ観は崩壊し、猪爪は人間の姿にもどってゆく。
七海におおいかぶさるように、猪爪は倒れた。
七海は身をよじったが、もう力は残されていなかった。
喀血し、七海は絶命した。
ふたりの肉体は血液とともにからみあっていた。
まるでふたりが愛しあっていたかのように。
反転した重力によって、葛葉はしたたかに床に頭を打ちつけた。
身体も心もぼろぼろだ。自分がどこに向かっているかも、よくわからない。手には朽木に送った手紙がにぎりしめられている。
廊下に人影があったが、近づいてゆくと、それが死体であることに気づいた。栗原の死体だった。
その近くの教室から、七海と猪爪の話し声が聞こえた。
そうだ、七海さんだ。私は七海さんに謝ろうと思って……。
教室に入ると、血だらけの身体がふたつあった。七海と猪爪。
「ごめんね……」
と葛葉はいった。涙があふれてくる。
「七海さんのこと、わかってあげられなくて」
七海は答えない。開いた目は天井を向いたままだ。
「七海さんの気持ち、考えてあげられなくて。友達なのにさ」
声がかすれる。それでも、葛葉は言葉をつむぐ。
「私は見捨てたんだよ。七海さんのことを。私は他の友達とつきあうようにした。それで、七海さんはひとりになった。だれも七海さんを助けてあげることができなかった」
葛葉は七海の亡骸に向かっていった。
「助けてあげられなくて、本当にごめんね……」
譜久原は世界の逆転を予想していたため、なんなく着地した。
問題は宙を舞う無数の文字たちだ。いったいだれのセカイ観なんだ。
譜久原は窓を開いた。忌々しい羽虫を追い払う。憤りをおぼえながら、落ちていた本を目の届かないところまで蹴り飛ばした。
時藤のえり首をとらえて、ひき起こす。片目がつぶれた顔は醜悪だった。
「よけいなことをしてくれたね」
逆手にもった指揮棒で、もう片方の目を突き刺した。時藤は小さくうめいた。指揮棒を引き抜き、時藤を床に転がす。
身体を痙攣させながら、本を探すような動作をしていたが、やがて動かなくなった。時藤の音楽はもうやんでいる。今度こそ、時藤の息の根をとめることができた。
時藤と七海、ふたつの雑音は排除された。
譜久原はハンカチを取り出し、手についた血をふきとった。ため息をひとつつく。譜久原の耳には、ようやく納得のいく音楽が聴こえていた。だが、これで満足することはできない。逆井の音が足りないのだ。ダイナミックで前衛的なあの音が。
気を失っている逆井に、そっと寄り添う。
「必要なんだ。君の音が」
指揮棒で軽くほおをたたいた。まぶたがわずかに動いた。小さな音が響きはじめる。
譜久原は指揮を再開した。大きく強く指揮棒をふる。逆井の音はやがて大きくなっていき、それにしたがい意識も明瞭になってゆく。
そして、逆井は目を見開く。
重力はまたも反転する。
3
朽木は校門を目前にして、変化を読み取った。
「身体が軽くなってる気がしないか」
「私もそう感じます」
理由はわからないが、逆井のセカイがまた発動するようだ。このままここにいてはまずい。空に落ちてしまうからだ。
校舎までは距離がある。だが、走ればまだ間に合うかもしれない。しかし、中には猪爪がいるはずだ。
校門を見る。距離は近いが、鍵をすぐに開くことはできるだろうか。鍵は頑丈な鉄製で、開錠の方法も知らない。
そもそも、学園の外に逃げたところで、逆井のセカイから逃れられるのだろうか。世界中が反転しているのか。いや、渡辺は霞ヶ原学園という独立した現実を創り、セカイを現実化させようと目論んだ。だとするなら――。
朽木は鉄扉の格子から、学園の外をかいま見た。
外の枯葉は落ちたままだった。
最初に重力が逆転したとき、学園内の枯葉は空に落ちていった。そして、重力がもとにもどったが、枯葉はまだ校庭に返ってきていない。きっと落ちるのに時間がかかるためだろう。
したがって、学園外の枯葉は最初から落ちていないことになる。つまり、重力の逆転は学園外には影響しない。
逃げるのは外だ。それしかない。
「梓さん」
亜桜が手をひく。考えている間にも、重力は減少しているのだ。心臓をそっと持ち上げられるような感覚。
朽木は亜桜とともに校門へ走る。身体が軽い。月面の宇宙飛行士のようだ。
もう、時間がない。
走ってゆく中、朽木に妙案が思いついたのは偶然ではなかった。この状況だからこそ、学園外に脱出する方法がある。
「いけるかもしれない」
重要なのはタイミングだ。朽木はそう自分にいい聞かせた。
葛葉は天井に落ちてゆく。そばには折り重なった七海と猪爪の肉体があった。血液が玉になり、空中を漂っている。机や椅子は教室にばらまかれたように、空間に配置されていた。まぶたを瞬く。涙の結晶が宙に舞い散る。
葛葉はあおむけに天井に落ちた。七海と猪爪も落ちてくる。身体の位置が入れ替わり、猪爪が先に天井にふれた。抱き合うようにして、七海が落ちてくる。
譜久原は落ちながらも指揮を続けた。至高の音楽を、最高の芸術を、心の底から楽しんでいた。この感覚を味わいたかった。たとえなにを犠牲にしてでも。
逆井は長い髪を空中にゆらしていた。うすく目を開き、わずかに口元をほころばせている。譜久原の音楽に感動しているのだ。
ふたりは天井に落ちてゆく。美しい音楽を背景にして。
朽木は地を強く蹴った。重力がゼロになる直前だった。そのあとは、ゆるやかに反転した重力が働いてゆくはずだ。
タイミングはもうしぶんない。しかし、強さがたりないかもしれない。
朽木は宙を飛んでいた。その手につかまえられて、亜桜も宙を舞う。空に向かう重力が、ふたりを浮上させる。
鍵の開錠が困難だと考えた朽木は、反転する重力に賭けることにした。空に落ちる力を利用し、学園を取り囲む四メートルの壁を跳躍する。校門の外にはコンクリートの道路があるため、落ちたときに危険だ。角度をつけて壁のほうにジャンプした。そちらのほうは、地面を土がおおっている。
重力が反転してゆく。身体が空にもっていかれる。前へ。朽木は心の中で叫ぶ。はやく壁を越えないと、空に落ちてしまう。
徐々に浮上する。壁の向こうの景色が見えてくる。しかし、なかなか壁に近づかない。空に引っ張られる力のほうが強い。
身体は壁の高さを越えようとしている。前へ。
背中になにかがふれた感触があった。朽木をそっと押すように。わずかだが、横への推進力を得た。
ふりかえる前に、朽木は学園の壁を越えていた。亜桜とともに地に落ちる。正常な重力が、ふたりに作用したのだ。
落葉がしかれたやわらかい地面は、朽木と亜桜をキャッチした。
朽木は反射的に上を見やる。一匹の鼠が空に吸い込まれてゆく。壁を越えることができなかったのだ。俺の背中を押したのは――。
地響きが聞こえたのはすぐあとだった。
4
霞ヶ原学園の老朽化した基礎は、自重に耐えるにはあまりにも脆すぎた。そもそも建物は重力が逆に働くことを想定していない。
校舎の根元のコンクリートには無数のひびが入ってゆく。割れたコンクリート片は空に落ちてゆく。
校舎は大きくゆれる。
葛葉は割れた窓にむかって、ふらふらと進んだ。
終焉を悟った譜久原は、音楽室に足を踏み入れた。逆井はそのあとに続いた。
時藤が身を起こすことはもうなかった。
ゆれはしだいに大きくなってゆく。
地鳴りが響き渡る。
校舎周辺のコンクリートは破砕し、学園は地から離れた。
そして、霞ヶ原学園は空に落ちる。
逆井は一脚の椅子を立て直し、腰を下ろした。
「夢だったのです。この音楽室で譜久原さんの音楽を聴くのが」
「入ってくればよかったじゃないか」
「練習の邪魔になると思いまして」
「そうか……。それじゃあ、改めてコンサートを開始するよ」
逆井は拍手する。学園が落ちてゆくことなど、彼女にとってはどうでもいいのかもしれない。ただ、譜久原の音楽を聴きたいだけなのだ。
最高の観客だ、と譜久原は思った。朽木や亜桜の音はなくなり、音楽はさびしくなってしまったけれど、それだけにやりがいはある。
僕は指揮者なんだ。
落ちゆく学園の中で、譜久原は指揮をとり続けた。悲しいメロディーが学園に響き渡る。逆井は耳をかたむける。恍惚の表情だ。
譜久原は自分の置かれた状況を想い、涙を流す。
芸術のために死ねるなんて、僕はなんて幸せなんだろう。
割れた窓の先が気になり、葛葉は外をうかがった。眼下には青空。上方にはふたりの人間の姿があった。反転した人間の像。学園の外の地表にさがるようにして立つ朽木と亜桜。
やっぱり、朽木君は――。
もし、亜桜さんに気持ちがないにしても、朽木君はわからない。亜桜さんを好きでいるかもしれないのだ。一方通行であっても。
私はその可能性に気づいていた。それでも、私はその考えを無視していた。ふたりに関係はないと、妄信していた。
それが、私のセカイ観。
地表がどんどん遠ざかる。この学園自体が落ちているのだ。私はどうなるのだろう。たぶん生きてはいられないのだろう。恐怖心が私を支配する。
近づいてゆく私の死。ここではたくさんの人が死んだ。私の大切な友達も死んだ。
きっと逆井さんは生きているのだろう。彼女の重力が学園に作用しているのだから。譜久原君といっしょにいるにちがいない。音楽が聴こえるから、譜久原君も生きている。
さびしいな、私は――。
朽木君の姿が見えなくなるまで、私は地表をながめていた。
私は私の気持ちを理解する。間近にせまった死にそぐわない言葉を、私は口にする。
「これが、失恋か……」
空に落ちていきながら、自分の手ににぎられた封筒に気づく。私は目を閉じる。手紙を取り出し、眼前に開いて掲げる。
私は目を開く。
愛の言葉は紙面から飛び立ち、宙に散っていった。
*
朽木と亜桜はその様子をながめた。もう、なにをすることもできなかった。
霞ヶ原学園が昇天してゆくさまを、ふたりは見つめ続けた。
校舎が空に消えてなくなるまで。
5
「行こう」と朽木はいった。
もう、ここにいる意味はない。校庭の真ん中にできた巨大な穴。いまだに土くれが空に吸い寄せられている。霞ヶ原学園は失われたのだ。
「みんな死んでしまったのでしょうか」
亜桜は空の彼方に視線を送る。
「それでも、俺たちは生き残った」朽木は力強く語る。「だから行かなきゃ。学園は国家による巨大な実験場だった。その関係者がここに駆けつけてくるかもしれない。俺たちは、はやく逃げなくちゃならない」
「でも、どこへ?」
「山のふもとには街がある。とりあえず、そこまで下りてみよう」
「あの」歩きはじめた朽木を亜桜が引きとめた。
「どうした、亜桜」
「私は嘘をついていました」
「嘘?」
ためらいながらも亜桜はいった。
「私はロボットではありませんでした。私は人間でした」
その表情があまりにも真剣で、朽木は思わず笑しだした。
「知ってたよ」
「え?」
「亜桜が人間だって、最初から知ってたよ」
意外な答えだったのか、亜桜はすこしかたまってしまう。
「それでも、私は梓さんをだましていました。だから、謝らなくてはいけません」
「謝る必要なんてないさ」朽木は煙草を取り出し、火をつけた。「それが亜桜のセカイだったんだから」
吐いた煙は空気に溶け込んでゆく。
「でも、どうして気づいたの? だれがいっても信じなかったのに」
「七海さんが指摘したのです。私が妊娠していると」
くわえていた煙草を落としそうになった。
「妊娠? 亜桜が?」
「はい。自分が妊娠していることを知り、私は人間なのだと気づいたのです」
朽木は混乱を落ちつけようと、煙草を深く吸ったが、すぐに捨てて踏み消した。
「ごめん。知らなかったから」
お腹に子供がいる人間の前で、煙草を吸ってはならない。それぐらい朽木も学んでいた。――子供?
「私と梓さんの子供ですよ」
はっと亜桜の顔を見る。亜桜はほほ笑んでいた。朽木は亜桜が笑っているのをはじめて見た。とても幸せそうな表情。
心があたたかくなった気がした。これがきっと幸福というものなのだろう。
「失うばかりじゃないんだな」と朽木はつぶやいた。
亜桜が朽木の手をひいた。
「行きましょう。時間がありません」
走ろうとする亜桜に、朽木はいった。
「大丈夫か? 身体に悪いだろ」
「大丈夫ですよ。梓さんといっしょなら」
楽しげに亜桜はいう。この先になにがあるかもわからないのに。いや、亜桜のいう通りなのかもしれない。
「そうだな。ふたりいっしょなら――」
「いいえ、三人です」
すかさず訂正する亜桜に、朽木は苦笑する。
そういうところは変わっていない。
落葉を踏みしめながら、朽木と亜桜は山のふもとに向かって駆けて行く。その途中で、朽木は自分の周りに一匹の鼠もいないことに気がついた。
朽木のセカイは終わったのだ。鼠は朽木の背中を押し、朽木を学園の外にいざなった。もうあそこにいてはいけないから。
亜桜のセカイも、とうに終わっていた。心はあらゆる感情で満ち溢れている。その瞳には生きてゆく力が宿っていた。もうロボットなどではない。
ふたりのセカイは終わった。しかし、すぐに新しいセカイがはじまる。そのセカイがどのようなセカイになるかは、まだわからない。
ふたりはそんなセカイに希望を感じていた。
だから、セカイはきっと明るいものになるだろう。
それがふたりの新しいセカイ観なのだ。
6
事件は隠蔽された。
国家が計画した非人道的な実験は、明るみに出ることはなかった。そして、奇妙な事実だけが残った。
十二月二十四日、霞ヶ原学園の校舎が忽然と姿を消した。校舎内にいたと思われる学生、教職員もろとも。
この不可解な現象は大々的に報道され、消失の原因は様々な説がささやかれた。しかしもはや、真相を究明することは不可能だった。
学園が空に落ちたあと、逆井のセカイは失われ、重力はもとにもどった。したがって、重力の反転を知ることはできない。
消失した生徒は計十三名。学園で暮らしていたすべての生徒とされた。
学園内で起きた失踪事件は、校舎の消失とあわせて隠蔽されたのだった。失踪した生徒の捜索活動は実際には行われておらず、教員による虚言にすぎなかった。
人々は疑問に思った。
校舎はどこに消えたのか? 学生、教職員はどこに消えたのか?
*
*
*
*
*
霞ヶ原学園の校舎は大気圏に突入すると、そのほとんどが燃え尽きた。無論、中にいた人間が助かるはずもなかった。
反転した重力が完全に失われるその前に、学園のかけらは宇宙空間に解き放たれた。
そのかけらは慣性によって、地球から遠く離れてゆく。
寂寥とした暗黒の空間を音もなく進む。
十三人の生徒たちの想いでを乗せて。
霞ヶ原学園は永劫の落下を続ける。
そして、この星を見守っている。
ライ麦畑の遥か下方から――。
了
・引用文献および主な参考文献
『失楽園(上)』ミルトン 平井正穂訳 岩波文庫
『失楽園(下)』ミルトン 平井正穂訳 岩波文庫
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
J・D・サリンジャー 村上春樹訳 白水社
『われはロボット〔決定版〕』アイザック・アシモフ 小尾芙佐訳
『広辞苑 第六版』新村出編 岩波書店
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