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【長編小説】失学園―スクール・ロスト― ⑥ END

十二月 失われたセカイ


       1


 ひきもどされた時藤の意識は、右眼の痛覚によって覚醒する。涙のように眼から血が流れ、天井に落ちる。時藤は天井に、ひっかき傷があるのを認めた。

 それはただの傷ではなかった。刻み込まれた文字だった。

「て本開をい」

 天羽が残した魔法の言葉。

 時藤の記憶の入れ替えに法則性があることに、天羽は気づいた。ランダムではなかったのだ。

 時藤が入れ替えた時間は八月から十二月の五ヵ月間である。この五ヵ月は次の順序に入れ替えられた。

 九月、十一月、十月、十二月、八月。

 また、時藤は「みんな死ぬ」という五文字のメッセージを残そうとしたが、順番は次のように入れ替えられた。

 ん死なぬみ。

 時間の入れ替えもメッセージの入れ替えも、五つの要素という共通項がある。そして、それぞれは同じ法則にそって、入れ替えられていたのだ。



 ①八月 ②九月 ③十月 ④十一月 ⑤十二月


 ②九月 ④十一月 ③十月 ⑤十二月 ①八月



 ①み ②ん ③な ④死 ⑤ぬ


 ②ん ④死 ③な ⑤ぬ ①み



 入れ替えられると、最初に元の要素の二番目が来て、次に四番目、その次は三番目、そして五番目、一番目と続く。

 天羽は五つの要素の入れ替えについては、法則性を見抜いたのだ。時藤に『The Catcher in the Rye』を渡すとき、天羽はこういった。

「に本大を切」

 この言葉は、さきほどの法則にそって、時藤の中でこう入れ替えられる。


 ①に ②本 ③大 ④を ⑤切


 ②本 ④を ③大 ⑤切 ①に


 天羽は自分で文字を入れ替えることにより、時藤に意思を伝える試みをしたのだ。時藤は本を大切にしまいこんだ。天羽の言葉はきちんと時藤の胸に届いたのだ。法則は正しいと、天羽は確信をもった。

 そして、天羽は天井に文字を刻み込んだ。最悪の事態を免れるために。


 ①て ②本 ③開 ④を ⑤い


 ②本 ④を ③開 ⑤い ①て


 その言葉は時藤の心に伝わった。ふところから本を取り出す。

『The Catcher in the Rye』。

 本を開いた瞬間、大量の文字が時藤の眼に飛び込んできた――文字通りの意味で。

 紙面に付着していた英字は、羽虫がわきだすように飛び立った。無数の文字の群れが時藤の顔を襲う。驚いた時藤はページを止めていた指をはずしてしまう。パラパラとめくれるページ。そのページに印刷された文字も時藤の視界に入り、飛散してゆく。

 葛葉言乃のセカイだった。

 本からあふれ出た文字たちは瞬時に、周囲の空間を満たしてゆく。

 羽虫の大群が突如として現れたのだった。

 譜久原は反射的に顔をおおった。そして、短い悲鳴が廊下に響き渡る。

 逆井だった。天井に膝をつき、そのまま倒れ込む。

 逆井は虫に驚き、気絶したのだ。

 虫が苦手な逆井が、こんな大量の羽虫に耐えられるはずもなかった。

 譜久原は指揮棒をふるい、虫を追い払おうとやっきになる。そうしているうちに、自分の体重が軽くなるような感覚をおぼえた。

 時藤をにらみつける。

 そういうことか。でも、なぜおまえが――。

 意識を失ったことにより、逆井のセカイは閉じられる。

 したがって、重力は反転する。


       2


 青い空に落ちてゆく。朽木は亜桜の手を離さない。そうすれば、ずっといっしょにいられるから。

 落ちていくが、落ちるべき場所はない。どこまで落ちても空の青にたどり着くことはない。ふれることさえもできない。

 おそろしい喪失感だった。

 落下する速度が徐々におちてゆく気がした。空気の流れのせいだろう。

 だんだんと遅くなり、そして止まった。

 空中で静止したとき、亜桜と目があった。

 なにが起きているのかわからず、きょとんとしている。

 朽木も同じだった。

 地表に向かって、ゆっくりと降下しはじめる。

 重力がもとにもどっているのだ。

 地表が迫ってくる。

 なにが起きているのか。朽木は思考を巡らせる。逆井のセカイが失われたということか。星川のときと同じように。

 霞ヶ原学園を通過するとき、重力は徐々に強まっていった。

 落下の衝撃をすこしでもやわらげてやるため、朽木は亜桜を抱きしめた。

 ふたりは地上に落下した。

 思っていたよりも衝撃は強くなかった。重力の変化がゆるやかだったためだ。

「大丈夫か?」

 声をかけると、亜桜はうなずいた。

 立ち上がると、重力がたしかに作用してるのを感じだ。もとどおりの重力だ。

 亜桜がなにかをいおうと、口を開きかけたが、朽木は即座にいった。

「猪爪が追ってくるかもしれない。走れるか?」

 亜桜は口を閉じ、うなずく。

 手をひき、校門に向かって走りはじめた。

 息を切らしながら亜桜はたずねる。

「校舎に逃げなくても、よいのですか」

「それじゃあ、あいつにやられる。俺の鼠で校門の鍵をなんとかする」

 亜桜はふりかえった。朽木を追いかけるようにして、一匹の鼠が地を這っていた。


 世界は反転し、重力がもとにもどる。

 猪爪は床に着地すると、すぐさま窓の外を見やる。考えているのは獲物のことだけだった。逃げてゆくふたりの姿を猪爪はとらえた。

 追いかけようと、窓の外に飛び出そうとした。だが、七海が咳き込む声が聞こえ、後ろを見やった。

 七海は血を吐きながら、もだえ苦しんでいた。猪爪は机や椅子がぐちゃぐちゃになった教室を、かきわけるようにして七海に近づいた。

「な、七海……」

 血まみれの身体にふれようとすると、七海は声を張りあげた。

「来るな、化物!」

 猪爪はのばした手をひっこめた。

「七海……。俺、化物だけど、七海のこと、心配で」

「私はおまえを人間にもどせない。そんな魔法はない」

 七海はあとずさりながら、そういった。床についた血のあとが生々しい。

「俺、そんなこと、望んでない。それ、七海の思い込み」

「私につきまといやがって――殺してやる!」

 杖が突きつけられる。

「俺、ただ、七海のことが――」

 その先をいうことはできなかった。杖の先端から解き放たれた蛇は、猪爪の命を喰らった。

 獣が倒れてゆく。黒い体毛が抜け、宙に舞い、あとかたもなく消える。猪爪は死に、彼のセカイは終わる。自分が獣だと考えていたセカイ観は崩壊し、猪爪は人間の姿にもどってゆく。

 七海におおいかぶさるように、猪爪は倒れた。

 七海は身をよじったが、もう力は残されていなかった。

 喀血し、七海は絶命した。

 ふたりの肉体は血液とともにからみあっていた。

 まるでふたりが愛しあっていたかのように。


 反転した重力によって、葛葉はしたたかに床に頭を打ちつけた。

 身体も心もぼろぼろだ。自分がどこに向かっているかも、よくわからない。手には朽木に送った手紙がにぎりしめられている。

 廊下に人影があったが、近づいてゆくと、それが死体であることに気づいた。栗原の死体だった。

 その近くの教室から、七海と猪爪の話し声が聞こえた。

 そうだ、七海さんだ。私は七海さんに謝ろうと思って……。

 教室に入ると、血だらけの身体がふたつあった。七海と猪爪。

「ごめんね……」

 と葛葉はいった。涙があふれてくる。

「七海さんのこと、わかってあげられなくて」

 七海は答えない。開いた目は天井を向いたままだ。

「七海さんの気持ち、考えてあげられなくて。友達なのにさ」

 声がかすれる。それでも、葛葉は言葉をつむぐ。

「私は見捨てたんだよ。七海さんのことを。私は他の友達とつきあうようにした。それで、七海さんはひとりになった。だれも七海さんを助けてあげることができなかった」

 葛葉は七海の亡骸に向かっていった。

「助けてあげられなくて、本当にごめんね……」


 譜久原は世界の逆転を予想していたため、なんなく着地した。

 問題は宙を舞う無数の文字たちだ。いったいだれのセカイ観なんだ。

 譜久原は窓を開いた。忌々しい羽虫を追い払う。憤りをおぼえながら、落ちていた本を目の届かないところまで蹴り飛ばした。

 時藤のえり首をとらえて、ひき起こす。片目がつぶれた顔は醜悪だった。

「よけいなことをしてくれたね」

 逆手にもった指揮棒で、もう片方の目を突き刺した。時藤は小さくうめいた。指揮棒を引き抜き、時藤を床に転がす。

 身体を痙攣させながら、本を探すような動作をしていたが、やがて動かなくなった。時藤の音楽はもうやんでいる。今度こそ、時藤の息の根をとめることができた。

 時藤と七海、ふたつの雑音は排除された。

 譜久原はハンカチを取り出し、手についた血をふきとった。ため息をひとつつく。譜久原の耳には、ようやく納得のいく音楽が聴こえていた。だが、これで満足することはできない。逆井の音が足りないのだ。ダイナミックで前衛的なあの音が。

 気を失っている逆井に、そっと寄り添う。

「必要なんだ。君の音が」

 指揮棒で軽くほおをたたいた。まぶたがわずかに動いた。小さな音が響きはじめる。

 譜久原は指揮を再開した。大きく強く指揮棒をふる。逆井の音はやがて大きくなっていき、それにしたがい意識も明瞭になってゆく。

 そして、逆井は目を見開く。

 重力はまたも反転する。


       3


 朽木は校門を目前にして、変化を読み取った。

「身体が軽くなってる気がしないか」

「私もそう感じます」

 理由はわからないが、逆井のセカイがまた発動するようだ。このままここにいてはまずい。空に落ちてしまうからだ。

 校舎までは距離がある。だが、走ればまだ間に合うかもしれない。しかし、中には猪爪がいるはずだ。

 校門を見る。距離は近いが、鍵をすぐに開くことはできるだろうか。鍵は頑丈な鉄製で、開錠の方法も知らない。

 そもそも、学園の外に逃げたところで、逆井のセカイから逃れられるのだろうか。世界中が反転しているのか。いや、渡辺は霞ヶ原学園という独立した現実を創り、セカイを現実化させようと目論んだ。だとするなら――。

 朽木は鉄扉の格子から、学園の外をかいま見た。

 外の枯葉は落ちたままだった。

 最初に重力が逆転したとき、学園内の枯葉は空に落ちていった。そして、重力がもとにもどったが、枯葉はまだ校庭に返ってきていない。きっと落ちるのに時間がかかるためだろう。

 したがって、学園外の枯葉は最初から落ちていないことになる。つまり、重力の逆転は学園外には影響しない。

 逃げるのは外だ。それしかない。

「梓さん」

 亜桜が手をひく。考えている間にも、重力は減少しているのだ。心臓をそっと持ち上げられるような感覚。

 朽木は亜桜とともに校門へ走る。身体が軽い。月面の宇宙飛行士のようだ。

 もう、時間がない。

 走ってゆく中、朽木に妙案が思いついたのは偶然ではなかった。この状況だからこそ、学園外に脱出する方法がある。

「いけるかもしれない」

 重要なのはタイミングだ。朽木はそう自分にいい聞かせた。


 葛葉は天井に落ちてゆく。そばには折り重なった七海と猪爪の肉体があった。血液が玉になり、空中を漂っている。机や椅子は教室にばらまかれたように、空間に配置されていた。まぶたを瞬く。涙の結晶が宙に舞い散る。

 葛葉はあおむけに天井に落ちた。七海と猪爪も落ちてくる。身体の位置が入れ替わり、猪爪が先に天井にふれた。抱き合うようにして、七海が落ちてくる。


 譜久原は落ちながらも指揮を続けた。至高の音楽を、最高の芸術を、心の底から楽しんでいた。この感覚を味わいたかった。たとえなにを犠牲にしてでも。

 逆井は長い髪を空中にゆらしていた。うすく目を開き、わずかに口元をほころばせている。譜久原の音楽に感動しているのだ。

 ふたりは天井に落ちてゆく。美しい音楽を背景にして。


 朽木は地を強く蹴った。重力がゼロになる直前だった。そのあとは、ゆるやかに反転した重力が働いてゆくはずだ。

 タイミングはもうしぶんない。しかし、強さがたりないかもしれない。

 朽木は宙を飛んでいた。その手につかまえられて、亜桜も宙を舞う。空に向かう重力が、ふたりを浮上させる。

 鍵の開錠が困難だと考えた朽木は、反転する重力に賭けることにした。空に落ちる力を利用し、学園を取り囲む四メートルの壁を跳躍する。校門の外にはコンクリートの道路があるため、落ちたときに危険だ。角度をつけて壁のほうにジャンプした。そちらのほうは、地面を土がおおっている。

 重力が反転してゆく。身体が空にもっていかれる。前へ。朽木は心の中で叫ぶ。はやく壁を越えないと、空に落ちてしまう。

 徐々に浮上する。壁の向こうの景色が見えてくる。しかし、なかなか壁に近づかない。空に引っ張られる力のほうが強い。

 身体は壁の高さを越えようとしている。前へ。

 背中になにかがふれた感触があった。朽木をそっと押すように。わずかだが、横への推進力を得た。

 ふりかえる前に、朽木は学園の壁を越えていた。亜桜とともに地に落ちる。正常な重力が、ふたりに作用したのだ。

 落葉がしかれたやわらかい地面は、朽木と亜桜をキャッチした。

 朽木は反射的に上を見やる。一匹の鼠が空に吸い込まれてゆく。壁を越えることができなかったのだ。俺の背中を押したのは――。

 地響きが聞こえたのはすぐあとだった。


       4


 霞ヶ原学園の老朽化した基礎は、自重に耐えるにはあまりにも脆すぎた。そもそも建物は重力が逆に働くことを想定していない。

 校舎の根元のコンクリートには無数のひびが入ってゆく。割れたコンクリート片は空に落ちてゆく。

 校舎は大きくゆれる。

 葛葉は割れた窓にむかって、ふらふらと進んだ。

 終焉を悟った譜久原は、音楽室に足を踏み入れた。逆井はそのあとに続いた。

 時藤が身を起こすことはもうなかった。

 ゆれはしだいに大きくなってゆく。

 地鳴りが響き渡る。

 校舎周辺のコンクリートは破砕し、学園は地から離れた。

 そして、霞ヶ原学園は空に落ちる。


 逆井は一脚の椅子を立て直し、腰を下ろした。

「夢だったのです。この音楽室で譜久原さんの音楽を聴くのが」

「入ってくればよかったじゃないか」

「練習の邪魔になると思いまして」

「そうか……。それじゃあ、改めてコンサートを開始するよ」

 逆井は拍手する。学園が落ちてゆくことなど、彼女にとってはどうでもいいのかもしれない。ただ、譜久原の音楽を聴きたいだけなのだ。

 最高の観客だ、と譜久原は思った。朽木や亜桜の音はなくなり、音楽はさびしくなってしまったけれど、それだけにやりがいはある。

 僕は指揮者なんだ。

 落ちゆく学園の中で、譜久原は指揮をとり続けた。悲しいメロディーが学園に響き渡る。逆井は耳をかたむける。恍惚の表情だ。

 譜久原は自分の置かれた状況を想い、涙を流す。

 芸術のために死ねるなんて、僕はなんて幸せなんだろう。


 割れた窓の先が気になり、葛葉は外をうかがった。眼下には青空。上方にはふたりの人間の姿があった。反転した人間の像。学園の外の地表にさがるようにして立つ朽木と亜桜。

 やっぱり、朽木君は――。

 もし、亜桜さんに気持ちがないにしても、朽木君はわからない。亜桜さんを好きでいるかもしれないのだ。一方通行であっても。

 私はその可能性に気づいていた。それでも、私はその考えを無視していた。ふたりに関係はないと、妄信していた。

 それが、私のセカイ観。

 地表がどんどん遠ざかる。この学園自体が落ちているのだ。私はどうなるのだろう。たぶん生きてはいられないのだろう。恐怖心が私を支配する。

 近づいてゆく私の死。ここではたくさんの人が死んだ。私の大切な友達も死んだ。

 きっと逆井さんは生きているのだろう。彼女の重力が学園に作用しているのだから。譜久原君といっしょにいるにちがいない。音楽が聴こえるから、譜久原君も生きている。

 さびしいな、私は――。

 朽木君の姿が見えなくなるまで、私は地表をながめていた。

 私は私の気持ちを理解する。間近にせまった死にそぐわない言葉を、私は口にする。

「これが、失恋か……」

 空に落ちていきながら、自分の手ににぎられた封筒に気づく。私は目を閉じる。手紙を取り出し、眼前に開いて掲げる。

 私は目を開く。

 愛の言葉は紙面から飛び立ち、宙に散っていった。


       *


 朽木と亜桜はその様子をながめた。もう、なにをすることもできなかった。

 霞ヶ原学園が昇天してゆくさまを、ふたりは見つめ続けた。

 校舎が空に消えてなくなるまで。


       5


「行こう」と朽木はいった。

 もう、ここにいる意味はない。校庭の真ん中にできた巨大な穴。いまだに土くれが空に吸い寄せられている。霞ヶ原学園は失われたのだ。

「みんな死んでしまったのでしょうか」

 亜桜は空の彼方に視線を送る。

「それでも、俺たちは生き残った」朽木は力強く語る。「だから行かなきゃ。学園は国家による巨大な実験場だった。その関係者がここに駆けつけてくるかもしれない。俺たちは、はやく逃げなくちゃならない」

「でも、どこへ?」

「山のふもとには街がある。とりあえず、そこまで下りてみよう」

「あの」歩きはじめた朽木を亜桜が引きとめた。

「どうした、亜桜」

「私は嘘をついていました」

「嘘?」

 ためらいながらも亜桜はいった。

「私はロボットではありませんでした。私は人間でした」

 その表情があまりにも真剣で、朽木は思わず笑しだした。

「知ってたよ」

「え?」

「亜桜が人間だって、最初から知ってたよ」

 意外な答えだったのか、亜桜はすこしかたまってしまう。

「それでも、私は梓さんをだましていました。だから、謝らなくてはいけません」

「謝る必要なんてないさ」朽木は煙草を取り出し、火をつけた。「それが亜桜のセカイだったんだから」

 吐いた煙は空気に溶け込んでゆく。

「でも、どうして気づいたの? だれがいっても信じなかったのに」

「七海さんが指摘したのです。私が妊娠していると」

 くわえていた煙草を落としそうになった。

「妊娠? 亜桜が?」

「はい。自分が妊娠していることを知り、私は人間なのだと気づいたのです」

 朽木は混乱を落ちつけようと、煙草を深く吸ったが、すぐに捨てて踏み消した。

「ごめん。知らなかったから」

 お腹に子供がいる人間の前で、煙草を吸ってはならない。それぐらい朽木も学んでいた。――子供?

「私と梓さんの子供ですよ」

 はっと亜桜の顔を見る。亜桜はほほ笑んでいた。朽木は亜桜が笑っているのをはじめて見た。とても幸せそうな表情。

 心があたたかくなった気がした。これがきっと幸福というものなのだろう。

「失うばかりじゃないんだな」と朽木はつぶやいた。

 亜桜が朽木の手をひいた。

「行きましょう。時間がありません」

 走ろうとする亜桜に、朽木はいった。

「大丈夫か? 身体に悪いだろ」

「大丈夫ですよ。梓さんといっしょなら」

 楽しげに亜桜はいう。この先になにがあるかもわからないのに。いや、亜桜のいう通りなのかもしれない。

「そうだな。ふたりいっしょなら――」

「いいえ、三人です」

 すかさず訂正する亜桜に、朽木は苦笑する。

 そういうところは変わっていない。


 落葉を踏みしめながら、朽木と亜桜は山のふもとに向かって駆けて行く。その途中で、朽木は自分の周りに一匹の鼠もいないことに気がついた。

 朽木のセカイは終わったのだ。鼠は朽木の背中を押し、朽木を学園の外にいざなった。もうあそこにいてはいけないから。

 亜桜のセカイも、とうに終わっていた。心はあらゆる感情で満ち溢れている。その瞳には生きてゆく力が宿っていた。もうロボットなどではない。

 ふたりのセカイは終わった。しかし、すぐに新しいセカイがはじまる。そのセカイがどのようなセカイになるかは、まだわからない。

 ふたりはそんなセカイに希望を感じていた。

 だから、セカイはきっと明るいものになるだろう。

 それがふたりの新しいセカイ観なのだ。


       6


 事件は隠蔽された。

 国家が計画した非人道的な実験は、明るみに出ることはなかった。そして、奇妙な事実だけが残った。

 十二月二十四日、霞ヶ原学園の校舎が忽然と姿を消した。校舎内にいたと思われる学生、教職員もろとも。

 この不可解な現象は大々的に報道され、消失の原因は様々な説がささやかれた。しかしもはや、真相を究明することは不可能だった。

 学園が空に落ちたあと、逆井のセカイは失われ、重力はもとにもどった。したがって、重力の反転を知ることはできない。

 消失した生徒は計十三名。学園で暮らしていたすべての生徒とされた。

 学園内で起きた失踪事件は、校舎の消失とあわせて隠蔽されたのだった。失踪した生徒の捜索活動は実際には行われておらず、教員による虚言にすぎなかった。

 人々は疑問に思った。

 校舎はどこに消えたのか? 学生、教職員はどこに消えたのか?

       *

       *

       *

       *

       *

 霞ヶ原学園の校舎は大気圏に突入すると、そのほとんどが燃え尽きた。無論、中にいた人間が助かるはずもなかった。

 反転した重力が完全に失われるその前に、学園のかけらは宇宙空間に解き放たれた。

 そのかけらは慣性によって、地球から遠く離れてゆく。

 寂寥とした暗黒の空間を音もなく進む。

 十三人の生徒たちの想いでを乗せて。

 霞ヶ原学園は永劫の落下を続ける。

 そして、この星を見守っている。

 ライ麦畑の遥か下方から――。




・引用文献および主な参考文献


『失楽園(上)』ミルトン 平井正穂訳 岩波文庫

『失楽園(下)』ミルトン 平井正穂訳 岩波文庫

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

J・D・サリンジャー 村上春樹訳 白水社

『われはロボット〔決定版〕』アイザック・アシモフ 小尾芙佐訳

『広辞苑 第六版』新村出編 岩波書店

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