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【長編小説】失学園―スクール・ロスト― ④

十二月 共感世界


       1


 木々は葉を落とし、生気のない幹をあらわにしていた。枯葉は寒風に舞い、霞ヶ原学園の敷地に迷い込んでくる。

 寂しい風景だった。

 最初の失踪から四ヵ月が経過した。

 四人の生徒が失踪したのだ。

 天羽純、佐冬真守、白戸恵夢、そして無量素子。

 残されたのは九人の生徒。

 真相に近づいている者もいる。だが、思考は解答とすれちがい、いまだ事件は解明されないままだ。

 今月もまた人が消えるのだろうか。

 生徒たちは不安や焦燥というよりも、無力感にさいなまれていた。

 毎月起こる不可解な失踪。逃げ場のない閉鎖された学園。

 だが、事件の全貌はやがて明らかになる。

 そのとき、生徒たちは知ることになるだろう。

 セカイを、そして世界を――。


       2


 朽木梓は黙考していた。図書室には古ぼけた紙のにおいが、充満している。はじめは不愉快に感じたが、今は心を落ちるかせるいいにおいだと思うようになった。鼠も気に入っているらしい。カリカリと本の背にかじりついている。

 亜桜亜美はあいかわらずの無表情で、こちらをまっすぐに見つめていた。まばたきさえも、ほとんどしない。

 もうすこし、自然な態度をとるように命令してみようか。いや、それが難しいから、ロボットのような挙動しかできないのだろう。

 朽木はもやもやとした頭の中を整理するために、無量の失踪のときの状況について、亜桜に説明を求めた。十一月二十七日、無量は失踪した。つい先週の出来事だ。

「私は梓さんの指示通りに、廊下で見張りをしていました。午後九時三十分、七海さんが部屋を出て、私の元に近寄ってきました。そのとき、無量さんが部屋を出ました。興奮した様子で、『リーマン予想を証明する方法がわかった』と無量さんはいいました」

 無量が取り組んでいた研究だそうだ。詳細は知らない。

「七海さんは無量さんに気づき、振り返りました。すると、無量さんは倒れました」

「七海が無量になにかしたわけじゃないんだな」

「はい。七海さんは手に杖を持っていましたが、無量さんに触れていません」亜桜は平坦な口調で続ける。「そして、七海さんもまたその場にうずくまりました。私は保健の森崎先生を早急に呼ぶ必要があると考え、保健室に向かいました」

「その場で見張りをするようにいったはずだが」

「しかし、ロボット工学の三原則の第一条は第二条よりも優先されます。つまり、人間の命令に従うことよりも、人間の危険を見過ごさないことが優先されるのです。私は第一条に従い、森崎先生を呼びに行きました」

「まあいい。問題はそのあとだ」

「私は森崎先生と三階に向かいました。七海さんはうずくまったままでしたが、無量さんの姿はありませんでした」

 そして、無量は失踪した。亜桜が保健室に向かった隙に、何者かが無量を消したのだ。

「森崎先生は七海さんを介抱し、個室にもどしました。私は無量さんの部屋に行き、無量さんがいないことを確認しました。そして、見張りを再開しました」

 すぐに自分を呼んでほしかったが、亜桜はそうしなかった。報告は午後九時五十五分にするという決まりだったからだ。融通のきかないロボット的な考え方だった。亜桜は入退室のチェックを忠実に行ったのち、午後九時五十五分きっかりに状況を報告した。あとの祭りだった。

 無量がどこに行ったのか七海に聞いてみたが、そのときは立ちくらみがして意識が朦朧としていたため、わからないということだった。

 七海がなんらかの方法で無量を消したのだろうか。

 しかし、七海は立ちくらみがしていたという。この症状は森崎に確認済みだが、七海が嘘をついている可能性は否定できない。また、無量が突然倒れた理由は謎のままだ。七海の立ちくらみと無量が倒れたことには、なにか関係性があるのだろうか。

 いずれにろ、七海がもっともあやしい。だが、ここで問題が出てくる。犯人が七海だとすると、白戸の失踪事件の説明がつかない。白戸が失踪したとき、七海にはアリバイがあるからだ。そのときアリバイがなかったのは猪爪だけだった。

 そして、無量の失踪事件のとき、猪爪にはアリバイがあった。朽木は猪爪の部屋の前で監視を続けていたから、よく知っている。猪爪は部屋から一歩も外に出ていない。しかし、無量は失踪した。

 ふたつの失踪事件の犯人は別々だったということか。白戸を消したのは猪爪で、無量を消したのは七海だった。

 猪爪と七海の共犯。これがもっとも合理的な結論だといえる。だが、ふたりの仲は険悪だった。それは俺たちの目をくらますポーズだったのか。

 疑いだせばきりがない。

 朽木の頭にこびりつくように、忌まわしい思考が続いた。


       *


 葛葉言乃もまた忌まわしい思考に憑りつかれていた。

 枕に顔をうずめ、延々と考え事をしている。

 なぜ朽木は返事をしてくれないのだろうか。

 返事をするのをためらっているのか。それとも、返事をするまでもなく、私のことを嫌っているのか。やはり亜桜が彼女で、その目を気にして、なにもいえないでいるのか。いや、読んでさえいないのかもしれない。もしかしたら、読める文字ではなかったのかもしれない。

 人がたて続けに消えてゆく。そんな状況にありながらも、葛葉はそんなことばかり考えていて、夜も眠れなかった。

 そんな自分の心情を打ち明けられる友人もいなかった。逆井は鼻で笑うだろうし、星川は話も聞かず、一方的に宇宙の話をしてくるにちがいない。

 自分から聞きに行けばいい。とても恥ずかしい行為だ。しかし、そうしようかと悩むほどに、葛葉は追い詰められていた。

 ため息をついてばかり。

 こんなことになるなら、手紙なんていう遠回りな手段をつかわなければよかった。

 しばらく枕に顔を押しつけていたが、なんだか苦しくなり、姿勢をあおむけに変えた。

窓には夜空に浮かぶ月が見えた。

 ぼんやりと外をながめていると、小さな光点が動いているのを発見した。流れ星だ。葛葉は手を組み、目を閉じた。はやく返事が来るように願い事をする。

 目を開けると、光点はいまだに動いていた。流れ星とは思えない複雑な動きで。

 テレビでよく見る未確認飛行物体の映像と似ていた。

 しかし、葛葉が見たかったのは、UFOではなく流れ星のほうだった。なんだか損をした気分になる。

 自然現象の類だろうと決め込み、葛葉は毛布をかけなおした。そういえば、前にもUFOを見たことがあった。もしかしたら私は星川に洗脳されてきたのかもしれない。そんな不安を抱いているうちに、葛葉は眠りについた。


       *


 亜桜亜美は起床すると、すぐにシャワーを浴び、制服に着替えた。そして、身体のメンテナンスを行う。腕を回したり、足を持ち上げたりして、身体が十分に動くかどうか確認する。

 メンテナンスが終わったあと、亜桜は机についた。先日から朽木に依頼されている手紙の解析作業をしなければならないからだ。

 手紙を広げる。一見すると、紙面は真っ黒である。

 だがよく見ると、文字化けしたような字が書き連ねられているのがわかる。手書きであるため、実際にパソコンで文字化けが起きたわけではないらしい。

 文字は画数が多く、複雑だった。そのため、紙面が黒く見えるのだ。

 世界中のどんな言語とも対応していないようだった。亜桜はさらに解析を進める。漢字に似ている文字や句読点に似ている文字を発見した。このテキストは日本語と関連があると、亜桜は推測し、考えを推し進めた。亜桜はある結論にたどりついた。

 このテキストは文字を何度も何度も重ねて書いたものなのだ。元の文字はおそらく日本語である。だが、その文章が重なってしまっているため、異様な文面になっているのだ。

 意味不明な文章の謎は解けた。しかし、判読は不能だ。上から文字をはがしてゆくことができない限りは。

 亜桜は手紙を元通りに折りたたみ、封筒に入れた。

 朽木によると、差出人は葛葉言乃という話だった。


       3


 朽木は校舎の裏で煙草をふかしていた。亜桜が咳き込まないように、風向きに気をつけて煙草を吸う。

 亜桜は手紙の解析が終わったことを告げ、手紙を朽木に手渡した。その口調はやはり人間味がなく、無機質だった。彼女が人間だと気づかせてやることはできないのだろうか。朽木の想いは紫煙とともに、むなしく漂う。

 葛葉から受け取った手紙は、何度も重ねて書いた文章だということだった。なぜ新しい便箋を使わずに、上から文字を書いたのだろうか。葛葉が罹っている失読症に関係しているのか。文字が読めないにしても、重ねて文字を書くことに違和感をおぼえそうなものだが。

 最初に手紙を読もうとしたとき、朽木は驚きを隠せなかった。インクで黒く塗りつぶしたような紙面。なにを書いてあるのかさっぱりわからない。いやがらせだろうか。だが、手紙を渡すときの葛葉の切実な態度からして、それは考えられなかった。

 朽木は煙草の灰を落とし、鼠にエサをあたえた。一瞥したあと、手紙をポケットにしまう。読めないのならしかたがない。

 葛葉にどういったらいいだろうか。読めないと正直にいえばいいのか。だが、葛葉を傷つけることになるかもしれない。

 朽木はこの問題を保留にした。別に急ぎの問題ではない。取り組まなければならないことは、他にもたくさんある。

「トイレに行きたいのですが」

 亜桜は突如、珍しい発言をした。

「ロボットもトイレに行くのか」

 朽木はからかった。

「人間とほとんど同じ構成要素で造られていますので」

 亜桜は答えた。


       *


 葛葉がトイレで手を洗っていると、亜桜がやってきた。葛葉の横の洗面台に、まっさきにかけこむ。

 亜桜は身をかがめ、嘔吐しはじめた。

 葛葉は手を洗うのをストップさせた。

「大丈夫?」

 声をかけると、亜桜は咳き込みながら答えた。

「大丈夫です。ただの動作不良です」

 口をゆすぐと、亜桜はすぐに立ち去った。

 体調が悪いのだろうか。たしか一昨日にトイレで会ったときも、同じように吐いていた。なにかの病気かもしれない。葛葉は急に心配になり、亜桜を追いかけようと、トイレのドアを開いた。

 葛葉がとらえたのは、歩み去る亜桜と朽木の後ろ姿だった。

 ため息をつく。

 周囲を見渡すと、待っているはずの逆井の姿はなかった。勝手に行ってしまったのだ。

 二重のショックに打ちのめされていると、背後から葛葉に抱きついてきたものがいた。

 星川詩織だった。

「今日はUFOが来る可能性大だよ」

 唐突な発表に、葛葉は苦笑いした。

「そ、そうなんだ……。天気予報みたいだね」

「だから呼びに行かないと。言乃ちゃんも協力してくれるよね?」

 任意ではなく強制だった。葛葉は星川にひきずられてゆく。最近、UFOを見たことを思い出したが、決して星川にいってはならない。

 同類だと思われるからだ。


       *


 二階に着くと、亜桜の耳に音楽が聴こえてきた。前衛音楽を思わせる複雑なメロディーだった。

「いい曲ですね」

 亜桜は人間ならそう感じると予想し、感想をいった。

「なんのことだよ」

 朽木は亜桜に問いかけた。

「音色が聴こえてくるのです。音楽室のほうからだと思われます」

「俺にはなにも聴こえないぞ」

 亜桜は自分の聴覚を確認した。動作には問題はない。だが、音楽は鳴り続けている。いくつもの楽器が、難解なハーモニーを奏でている。奏者が複数人いることを考えると、録音された曲が流されているのだろう。

 視線の先には逆井遥がいた。廊下にうずくまり、身体をわずかに揺らしている。その動きはリズムに合っており、逆井にも同じように音楽が聴こえていることが推測された。

 亜桜と逆井の様子を見ると、朽木はつぶやいた。

「なにか変だな」

 音楽室へと足を向ける。

 歩いてゆくと、逆井がにらみつけてきた。

「足音がうるさいんですが」

 逆井のまなざしを朽木は正面から受け止める。

「音楽鑑賞の邪魔をして悪かったな」

「そう思うんなら、はやく消えてください」

 朽木は今のやりとりで、逆井にも音楽が聴こえていることを確認したのだろう。首をかしげると、音楽室のドアを開いた。

 逆井は目をむいたが、朽木はすぐに音楽室に入ってしまった。亜桜は朽木に続き、音楽室のドアを閉めた。

 教壇には譜久原拓斗の姿があった。まぶたを閉じて、指揮棒を振っている。

他にはだれもいない。

 音楽を再生する機器もどこにもない。

 それでも、音楽は聴こえてくる。

 では、どこから音楽が流れてくるのか。

 亜桜は音の発生源を探したが、見当がつかなかった。距離が近すぎるのが原因だ。まるで、亜桜の耳元で音楽が奏でられているかのようだった。聴覚の異常としか考えられないが、エラーは確認されていない。

 理解不能だった。

 朽木には音楽が聴こえていない。逆井には音楽が聴こえている。そして、目の前にいる譜久原の指揮棒は、音楽のリズムに合っているというか、音楽を指揮しているように見える。

 亜桜は譜久原にたずねた。

「譜久原さんには音楽が聴こえているのですか」

 譜久原はうすくまぶたを開き、幸せそうに微笑んだ。

「君には聴こえるんだね」

「なんの話だ」

 朽木が割って入った。譜久原は指揮棒を振り続ける。

「いずれわかるさ」長髪がわずかにゆれる。「もうすぐ演奏会があるんだ。そのときは君も招待されることになると思うよ」

 朽木は次の言葉を見失った。譜久原は苦笑した。

「今は演奏会に向けて、練習をしているのさ。それにしても、とてもいい音色だね」

「意味のわからないことを」朽木は機嫌を損ねたらしい。「なんの音も聴こえてこないじゃないか」

 譜久原は残念そうに首を横に振った。

「君には聴こえない。この学園に響き渡る美しい旋律が。様々な個性をもった人物たちは、独特のメロディーを奏でる。そう、耳をかたむけてみるといい。人は音楽を発しているのさ。たとえ意識しないにしても」

 朽木は鼻を鳴らした。

「それがおまえのセカイってわけか。妄想の音楽に憑りつかれている」

 亜桜は異議を唱えた。

「しかし、私にも音楽が聴こえています」

「偶然さ。頭の中で音楽が聴こえることがある。たまたま、それが二階に来たときに聴こえたのさ」

 それでは、逆井についてはどう説明するのか。亜桜は質問しようとしたが、ドアを開けたとたんに、その逆井がすごい剣幕で押し寄せてきた。

 譜久原の邪魔をした朽木に、逆井は抗議の声をあげた。その大声こそが音楽の邪魔になっているように、亜桜には思えた。


       4


 朽木は逆井をなんとかやりすごしたあと、三階に到着した。亜桜とともに七海の部屋へと足を運ぶ。無量失踪の件について聞こうと思ったのだ。七海は無量が失踪した現場に居合わせていた。立ちくらみの状態であっても、なにか知っている可能性が高い。

 すでに何度か七海の話を聞こうと試みていたが、まったく取り合ってくれなかった。訊問するような朽木の口調にも問題はあったかもしれない。七海は授業が終わると、すぐに自分の部屋に行き、ひきこもるようになってしまった。

 無理だとはわかっていても、七海の証言を得るためには行くしかない。

 廊下の角を曲がると、猪爪の姿があった。こちら側に向かって歩いてくる。猪爪は朽木の視線にびくりと肩をふるわせると、だまってすれちがおうとした。

「どうしたんだよ。こっちは女子の個室がある廊下だぜ」

 朽木が呼び止めると、猪爪は肩越しに応えた。

「な、七海の部屋に、行ってた。おれ、心配だったから」

「七海の様子はどうだった?」

「話をしても、もらえない」

 その声は巨体に似合わずか細かった。

「そうか……」

 朽木がつぶやくと、猪爪はとぼとぼと去って行った。

 七海の部屋の前に着くと、朽木はノックしようとした手を止めた。

「亜桜が声をかけてみてくれないか」

 亜桜は機械的に首を縦に動かした。

「承知いたしました」

 亜桜はドアをノックし、七海を呼んだ。しかし、物音すらしない。亜桜がもう二回ノックしたあと、朽木はいった。

「しかたがない。引きあげよう」

 やましいことがなければ、話をしてもいいはずだ。七海は人と顔を合わせることすら、拒否している。犯行に関わっている可能性は濃厚だ。

 亜桜に七海の動向に注意するように促し、自室にもどった。


       *


 まるで風景のように授業は行われている。だれも関心を寄せていないことは明らかだ。葛葉は渡辺の様子を観察した。

 新しい数学の公式について、淡々と説明をしている。何事もなかったかのように。

 毎月、生徒が失踪している。消えた生徒たちはいまだに見つかっていない。教職員は学園外への逃亡としか考えていないようだ。外の世界については、教職員の手が及ばないため、警察が捜索活動を行っているらしい。

 本当のことなのだろうかと、葛葉はつい疑ってしまう。教職員はあまりにも平然としすぎている。もっと危機感を持ってもいいものだが――。

 チョークで描かれた数字が宙を舞っている。白と黄色の字が浮遊する光景は、まるで蝶が飛んでいるかのようだった。

 無論、授業に集中できるはずがない。

 葛葉は時計をながめた。黒板の上にかけられたアナログ時計。時刻を示す数字は飛び散ってしまっているが、長針と短針でだいたいの時刻はわかる。

 もうすぐで授業は終わりだ。

 渡辺は黒板を消しはじめた。チャイムはまだ鳴っていない。今日は早めに授業を切り上げるのだろうか。

「みんなに大切な連絡があります」

 葛葉の期待は裏切られ、渡辺は話を続けた。

「来週の月曜日に特別授業を行います」

 特別授業――? 聞きなれない言葉に葛葉は困惑した。

「月曜日に行われる数学の授業はお休みになり、代わりに特別授業を行います。文字通り特別な授業ということですが、内容は秘密にしておきましょう。そのほうがおもしろいですからね。準備は特に必要ありません。ただ、遅刻や欠席はしないように注意してくださいね」

 渡辺は自分の言葉が行き届いたかたしかめるように、教室を見やった。

 生徒たちは見事なまでに無反応だった。

 渡辺は同じ内容をもう一度くり返し、そこでチャイムが鳴った。

「きっと失踪事件の真相を話すのですよ」

 逆井は葛葉の耳もとでささやいた。


       *


 数学の授業が終了すると、亜桜はトイレに駆け込んだ。吐き気がして、気持ちが悪かった。洗面台についてえづいたが、いっこうに気持ち悪さは晴れない。

 そうしているうちに、女子トイレに人が入ってきた。

 七海美衣菜だった。

 カッと杖をつき、七海はいった。

「どうして亜桜さんは黙ってるのかな」

 亜桜は口もとをぬぐった。

「質問が具体性に欠け、答えることができません」

「見てたでしょ。私と無量さんのこと」

「いつのことでしょうか」

「無量さんが倒れたときだよ」

 七海の表情は笑顔だったが、唇をわなわなとふるわせていた。

「私のことバカにしてるんでしょ」

「バカにはしていません。私は七海さんのすぐそばで、無量さんが倒れるのを目撃しました。それがなにか問題があるのでしょうか」

「問題あるでしょ。だって、私の魔法で――」

 いいかけて、七海は口をつぐんだ。そして、小さく笑いはじめた。やがてその笑い声は大きくなってゆく。

「あははっ。そうだよね。亜桜さんに魔法なんてわかるわけないか。だって亜桜さんはロボットなんだから。人にも理解されないのに、ロボットにわかるわけないよね。あははははっ」

 七海の意味不明な発言に、亜桜は立ち尽くした。思い出したように吐き気がよみがえってくる。洗面台に咳き込むと、七海の笑い声は止んだ。

 ふと顔をあげると、鏡越しに七海と目が合った。

「亜桜さん、もしかしてさ――」

 いい終える前に、ドアが開いた。国語の栗原だった。教職員用のトイレは別にあるはずだが……。

 空間が固定されたかのように、みな動きを止めた。沈黙を破ったのは栗原だった。

「次の授業があるから、教室にもどりなさい」

 その表情は硬直しており、動揺を隠しているようでもあった。

「承知いたしました」

 亜桜は栗原の命令通りに、トイレを出て行く。

 栗原がこの場にやってきたのは、七海が新たな殺人を起こすのを防ぐためだった。これ以上生徒が減るのは、教職員側にとって問題があった。

 もちろん、栗原の思惑など亜桜は知るよしもない。


       5


 朽木の懸念もよそに、十二月は第二週目を迎えた。今日は渡辺が特別授業を行うといった月曜日だ。

 朽木には興味もなかった。

 気になるのは亜桜の体調だった。吐き気をおこすことが頻繁にある。明らかに体調不良か、なにかの病気だ。保健の森崎に見せようとしたが、亜桜は拒否した。人間と同じように造られてはいるが、決して人間ではない。だから、保健の森崎ではなく、専門の技師に見てもらう必要性があるということだった。

 そんな技師など、どこにもいはしない。亜桜の妄想だ。だが、それが亜桜のセカイなのだからしかたがない。朽木は亜桜を気遣いながら、事件について考えていた。

 犯人は猪爪か七海、あるいはその両方だ。しかし、ふたりを犯人だと指摘することは、はばかられた。状況証拠しかないからだ。

 確たる証拠が手に入れば、犯人を特定することができる。問題は証拠隠滅が徹底的に行われていることだった。証拠という証拠はいまだ得られていないのだ。

 あと一歩のところだった。

 授業そっちのけで、そんな思考にふけっていると、渡辺の特別授業の時間になった。興味がなかった朽木ではあったが、教室に入ってきた渡辺の様子に目をとめた。

 せわしのない動作で、授業の準備をしている。いつもの冷静さは感じられなかった。これからなにが行われるのか。朽木はいぶかしんだ。

 渡辺は宣言した。

「これから特別授業を開始します」


       *


 その声で葛葉は目を覚ました。最近、夜はなかなか寝つけないから、授業中に寝てしまうことが多い。それにしても大きい声だった。普段の渡辺からは想像もつかないような大きな声だ。

 特別授業だからはりきっているのだろうか。なにが特別なのかさっぱりわからないが、これからわかってくるのだろう。

 渡辺は黒板に文字を殴り書きしはじめた。授業を効率的に進めるために、板書しているのだろうが、葛葉には無効だ。言葉は飛散してしまうのだから。

 板書を終え、渡辺は生徒たちに振り返る。その目は赤く充血していた。

「私たちの体験している現実というのはいったいなんなのか、今日はそのことについて考えてみたいと思います」

 唐突に提示された哲学的なテーマに、葛葉は困惑を隠せなかった。なぜいきなりそんなテーマを取り上げるのだろう。しかも、渡辺は数学の教師であり、哲学とはかけはなれている。

 渡辺は教室中を見渡した。幸い、すべての生徒が授業に出席していた。といっても、生徒は九人しかいないのだが。

 渡辺は大きく手をひろげた。

「まず、現実がなにでつくられているのかを考えてみましょう。私たちは今、現実を生きています。しかし、もし死んでしまったら、私たちは現実を体験することはできません。したがって、まず現実に必要なのは、私たち自身ということになります」

 渡辺は黒板になにやら文字を書いたが、ひらひらと飛んでいってしまった。


       *


 亜桜は板書をしっかりとノートに書きとめた。〝視点〟の二文字だった。

「私たちがこの世界を見ているから、現実は存在する。その見ている立場を〝視点〟といいます。私たちは視点によって、この現実を認識しているのです」

 亜桜は適度にうなずきながら、渡辺の話に耳をかたむけた。

「したがって、現実をつくる要素のひとつとして、視点を挙げることができます。しかし、ここで考えてみてください。この教室には私を含めて十人の人間がいます。つまり、十の視点があるということですね。その視点はすべて同じものでしょうか」

 熱っぽい視線で生徒を見やる。反応はなかったが、渡辺は大げさにうなずいた。

「ちがいますよね。それぞれの視点によって、見ている世界は若干異なっています。そのため、体験している現実はちがうものになるはずです。つまり、ここにはすこしだけちがう十の現実が存在している。私たちは、現実はひとつだと思いがちだけれど、本当は人によって現実は異なるのです。しかし、複数の現実でも大部分の内容は共通しています。だから、私たちは現実がただひとつであると錯覚する」

 黒板には複数の円形が描かれている。ひとつの円はひとりの視点人物を示しているようだ。円はばらばらの場所に書かれているが、ある部分で重なり合っている。渡辺は重なり合っている部分を、チョークでぬりつぶした。

「それでは、共通している部分とはなんなのか。その共通の現実こそが、本当の現実といえるのではないのか」

 ひきつった笑顔で渡辺は語る。この表情にあてはまる言葉を、亜桜は検索した。〝恍惚〟だった。

 渡辺はチョークを持ち替えた。そして、つまんだチョークをみなに示す。

「たとえば、ここに赤いチョークがあります。しかし、色覚に異常がある人間には、赤に見えないかもしれません。それでも、ほとんどの人間には赤く見えるから、このチョークは赤いチョークと決定されます。大多数の視点によって、赤いチョークという現実が規定される。逆にいえば、ほとんどの視点によって了承されれば、それが現実ということになる」

 教壇を右往左往しながら、渡辺は熱弁する。

「それが現実とはなんなのかという答えになる。多くの視点によって同じように認識されているものが、現実といえるのです。逆に個人にしか認識されないものは、現実とはいいきれない。認識の異常であったり、妄想と片づけられてしまう可能性があります。だが、当の本人にしたら、それは現実だ。たとえそれがどんな異常な認識であっても――」

 この特別授業では、もしかしたら生徒たちのことを話しているのかもしれない。この学園にいるのは特異なセカイ観をもった生徒たちだ。生徒たちにとっては、そのセカイこそが現実である。渡辺はセカイが他者に認知されないことを暗に示しているのだろうか。

 だが、私にむけての授業ではないだろう。私は事実、ロボットなのだから。

 渡辺は教壇に手をつき、うつむいた。

「もし、そのような個人的な現実を、他者に見せる方法があったとしたら――、そんな技術があったとしたら――」顔をあげ、渡辺はいった。「妄想さえも現実にすることができる」

 その表情から推測される心情を、亜桜は検索した。〝狂気〟が最も関連する言葉だった。

 渡辺はその後も、『現実』について語り続けた。ある種の認識論に則っているようだったが、科学的とはいいがたい内容だった。

 亜桜はかまわずノートをとり続ける。

 それが生徒としてのタスクだった。


       6


 渡辺が特別授業を行ったのには理由があった。これから起きる出来事を暗示し、ショックをやわらげるためだ。

 これから起きる出来事――。

 〝その日〟は刻々とせまっていた。

 教職員たちは〝その日〟のために、入念に準備を重ねていた。

 〝その日〟は冬季休暇の前日に設定された。十二月二十四日、クリスマスイブである。

 生徒たちは教職員たちの思惑に気づくはずもなく、日常を過ごしていた。

 朽木は七海や猪爪を注意深く観察していた。そして、亜桜とともに十二月の終わりに起こるであろう事件に、どのように対抗するか議論した。見張りを行っていても、人は消えてしまう。朽木は方法の変更を余儀なくされた。

 今までは全員を監視の対象にしていた。だが、朽木はそれを絞り込むことにした。犯人である可能性が高い猪爪と七海をマークし、決定的な証拠を手に入れる方針に変更したのだ。朽木は猪爪を、亜桜は七海を監視することになった。

 開始するのは月末から一週間前。十二月二十四日からである。朽木たちはその日まで、細かなルールを設定していった。

 葛葉は朽木の返事を待ち続けた。無論、返事は来ない。

 他の生徒たちもまた、思い思いの行動をしていた。だが、それは時間の空費にすぎなかった。

 そして、〝その日〟はやってくる。

 前兆はあった。

 朽木は佐冬の妹が書いたようなメッセージを受け取っていた。

 葛葉は星川のようにUFOを目撃していた。

 亜桜は譜久原の語る音楽を耳にしていた。

 不可解な現象は気のせいだと捉えられ、前兆を知る者はなかった。

 よって、生徒たちは〝その日〟、すべてを知ることになる。

 事件の全貌も、なにもかも――。


       7


 十二月二十四日。

 その日は快晴だった。

 雲ひとつない青空が霞ヶ原学園を見下ろしている。

 無機質なコンクリートで固められた名ばかりの校庭に、チャイムが響き渡る。

 授業は午前中で終わり、教師は冬季休暇のはじまりを告げた。

 冬季休暇を喜ぶものは少なかった。この学園から出られるわけではないからだ。

 生徒たちはそんな複雑な思いを抱えながら、食堂に足を運んだ。


       *


 食事中、朽木は猪爪と七海を交互に観察していた。

 七海は早々に昼食を終え、席を立った。亜桜は朽木にちらと目をやった。

 朽木はうなずいた。

 亜桜は七海を追い、食堂をあとにした。

 監視がはじまったのだった。行動を把握するために、自由時間は常に張りつく予定だった。

 猪爪もまた七海を追おうとしたが、思いとどまった。罵声を浴びせられるのがわかっているから、躊躇したのだ。

 猪爪は食事を終えると、巨体を持ち上げた。朽木がついてゆくと、猪爪は近くのトイレに入って行った。

 中にまで行くと怪しまれると思い、廊下の隅で待機することにした。

 鼠が朽木の足元に近づいてくる。

 朽木は首をかしげた。

 鼠がふるえている。

 しばらく待っていると、朽木は強烈な頭痛に襲われた。

 朽木は叫び声をあげようとしたが、その前に意識を失った。


       *


 猪爪は洗面台の鏡を見ながら考えていた。

 こんな見た目だったら、嫌われるのも当然だ。

 鏡には獣が映っている。

 毛むくじゃらの化物。

 黒く硬い体毛が全身をおおっている。口からは鋭い牙がのぞいていた。

 もしもこんな姿に変えられることがなかったなら、七海に嫌われることもなかったし、朽木に怪しまれることもなかっただろう。

 猪爪はため息をついたが、それも獣の唸り声ように発声された。

 うつむいて考えていると、そのまま意識が飛んでいった。

 巨体が床にくずおれる。


       *


 亜桜は七海を追いかけた。七海は階段をのぼり、二階の教室に入った。

 その教室は音楽室とは反対側の廊下に位置していた。一度も利用したことのない教室だ。生徒数が極端に少ないため、そのような教室はいくつもある。

 なぜ七海はこんな教室に入ったのだろうか。

 亜桜は警戒心を高めた。教室の外から窓を通して、中の様子をうかがう。

 そうしているうちに、かん高い音が鳴り響いた。

 七海が杖で机の足を打ったのだった。

「亜桜さん、そこにいるんでしょ?」

 すぐに隠れる。教室の壁に背をあずけ、七海の次の行動を待つ。

「こっちに来なよ。私を疑ってるんだよね」

 朽木からは不用意に近づくなと命令されている。

「なにもしないよ。ただ話し合うだけだよ。だから来なよ」

 亜桜は思考する。七海は話し合いを要求している。また、声の調子は怒りとはほど遠いやさしげなものだった。

 現時点では危険はないと判断し、亜桜は教室に入ることにした。

 ドアを開くと、亜桜は数秒フリーズした。

 そこには倒れた七海の姿があった。

 駆け寄ろうとしたとき、亜桜もまた意識を失い、その場に倒れこむ。


       *


「なにもしないよ。ただ話し合うだけだよ。だから来なよ」

 七海はいった。

 教室の外でかすかに物音が聞こえた。

 やはり、亜桜がつけていたのだ。

 なぜなにもかも知っているのに、つけまわしてくるんだろう。

 七海には解せなかった。

 ドアの取っ手に手がかかり、わずかな振動音を発する。

 七海はその音を聞き逃さなかった。

 杖をかまえ、呪文を詠唱しはじめる。

 次の犠牲者は亜桜さんだね。

 待ち構えていると、唐突に、後頭部を殴られたかのような痛みが走った。

 七海は卒倒した。


       *


 葛葉は逆井とともに食事をしていたが、なんだか気持ちが悪くなってきた。学校が出す食べ物はいつもおいしいとはいえない。それにしても、今日はひどい。まずいというか、生理的に受けつけないというか……。

 それでも、他に食べるものがないため、無理して口に運ぶ。葛葉は「うっ」と嗚咽をもらしてしまった。

「下品ですね」と逆井は冷たくいい放った。

「ひ、ひどいよ。というか、逆井さんはよく食べれるね。こんな変な味のごはん」

「別に普通ですよ」逆井はハンカチで口をふいた。「変なのは葛葉さんの味覚のほうじゃないですか」

「さらにひどいよ」

「食べるのも遅いですしね」

 まわりを見渡すと、葛葉と逆井以外の生徒はもう食堂にはいなかった。葛葉の食事が進まず、遅れてしまったのだ。

「ごめんね……」

 葛葉は謝ったが、皿にはまだ食べ物が残っている。

 それを見つめているうちに、だんだん意識が遠のいてゆく。


       *


「葛葉さん、いかがしたのですか」

 葛葉は頭から皿につっこんで、動かなくなっていた。

 上下逆転した逆井のセカイでは、上方の出来事である。手を差しのべることはできない。天井に触れるのが難しいのと同じだ。

 逆井はいっこうに起きない葛葉を傍観し、眉をしかめた。そして、放っておくことに決めた。

 譜久原の演奏がはじまるかもしれない。こんなところで時間を無駄にしている場合ではない。

 逆井は席を立つと、ぐらりとよろめいた。

 頭部に弾丸が直撃したかのような痛み。

 苦痛にあえぐよりも前に、逆井は失神した。


       *


 星川はUFOを呼びに行くために、昇降口へと走った。

 だが、ふいに足を止めた。

 カチューシャに手をあてると、ほんのりと温かった。強力な電波を受信しているため、温度が上昇しているのだ。

 宇宙人がコンタクトを求めている。

 いつもはUFOに来てもらうために、自分から思念を送っていた。だが、今日はちがう。宇宙人のほうから私を呼んでくれているのだ。

 星川は徐々に電波が強くなっていくのを感じた。どんどん近づいてくる。

 今までもUFOが姿を見せることはあったが、とても遠い場所で、電波は微弱だった。ここまで近くに感じるのは、はじめてだ。

 宇宙人は私の呼びかけに応え、友達になろうとこちらにやってくるにちがいない。

 星川は興奮を抑えきれず、外に向かおうとしたが、思いとどまった。

 葛葉さんにも教えてあげなくちゃ。

 色々と協力してもらった友人に、このことを伝えないわけにはいかなった。

 星川は引き返した。

 葛葉さんはどこに行ったんだろう。まだ食堂かな。

 そのとき、どさりと音が響いた。

 驚いてその音がしたほうに行ってみると、廊下の角で朽木が倒れていた。

 声をかけようとするも、視界は暗転する。


       *


 音楽室は静寂に包まれていた。

 譜久原は教壇に立ち、その静けさを味わっていた。

 胸元から指揮棒をとる。

 だれもいない教室に、譜久原はたしかに聴衆の存在を感じた。

 みな息をのみ、演奏を心待ちにしている。

 だから、こんなにも静かなのだ。

 譜久原はほほ笑むと、聴衆に向けて一礼をした。

 もうすぐ演奏がはじまる。

 譜久原は微笑をくずさないまま、眠るように意識を喪失する。


       *


 時藤は放浪していた。

 自分がどこを歩いているのかさえ、わからなかった。

 そこは校舎二階の廊下だった。

 しかし、時藤にとってはなんの意味もなさない。

 時藤は激しい頭痛に襲われ、床に倒れ伏した。

 それもまた、時藤にとっては無意味である。


       *


 こうして九人の生徒は、ほぼ時を同じくして意識を失った。

 霞ヶ原学園にひとときのしじまが下りる。

 教職員もまた意識を失っていたので、事実、物音は存在しない。

 霞ヶ原学園にいるすべての人間が眠りについたのだ。

 時が凍りついたようであった。

 空から射す陽光が、ゆっくりと凍りついた時間を溶かしてゆく。

 やがて人々は眠りから醒めていった。

 目を開いた先にあるのは、もはやただのセカイではない。

 それは世界だった。


       8


 譜久原はゆっくりと起き上がった。

 音楽室を眺めると、満足げに微笑む。

 すべての椅子がひっくり返っていた。ピアノも同じだ。

 足を天井に向けている――いや、その表現は適切ではない。

 足を床に向けている、というのが正確な表現だった。

 椅子やピアノは天井に転がっているのだから。

 その間を黒い鼠が一匹、右往左往している。

「ようやくだね」

 譜久原はそうつぶやくと、指揮棒を振り上げた。


 朽木はその光景を目の当たりにして、自分は夢を見ているのではないか、と考えた。

 ここは学校の廊下だ。俺は猪爪を待ち伏せしていた。それはいい。

 しかし、なぜ俺は天井に寝転んでいるのだろうか。

 目を上げると、そこには見慣れた床があった。

 意味がわからない。

 ほおをつねらなくても、頭の痛みが夢でないと教えてくれた。駄目押しで、耳鳴りまでする。

 足元でなにかが動き、反射的に顔を向ける。

 星川だった。

 星川は天井に手をつき、上半身を持ち上げた。

 その方向には窓がある。朽木は外の風景を見てぞっとした。

 おそるおそる窓に近づく。

 眼下にはすみきった青空が広がっていた。

 そして、上方にはコンクリートの校庭が見える。

 枯葉が宙を舞い、青空にゆっくりと落ちてゆく。

 朽木はようやく悟った。

 天地が逆転している。


 葛葉は唖然としていた。

 食堂の机や椅子が、逆さまになって転がっていた。

 そればかりではない。

 食事を受け取るカウンターは上からぶら下がっている。

 入ってきたドアも、逆さまに壁に設置されていた。

 自分が気絶している間に、なにが起こったのだろうか。

 葛葉は腰を抜かして立てなかった。

 だが、逆井はしっかりと立ち、無感動な視線をあたりに向けている。

「なるほど」逆井はうなずいた。「やはり、私が正しかったのですね」

「逆井さん、なにいってるの?」

 葛葉は思わずたずねた。

「私には、みなさんとは逆方向の重力が働いていました。私はいらだちを覚えていたものです。みなさんからしたら私が逆ですが、私からしたらみなさんが逆なのです。私のほうの重力が正しいのに、みなさんはそれを認めようとしないのです。どちらの重力が正しいのか。今はっきりと答えが出ましたね」

 逆井は葛葉に顔を向けた。逆井は笑っていた。

「私のほうの重力が正しかったのですよ。みなさんにもようやく、正しい重力が働くようになったのです」

「それは逆井さんのセカイの話でしょ」

 葛葉は呆然と問い質す。

「見てみてください」逆井はあたりを示す。「重力は天井側に作用しています。したがって、机や椅子は床から天井に落ちました。私たちは天井に立ち、建物の中を正しい方向でながめています」

「正しくないよ。逆だよ。ドアが逆に見えてるよ」

「ですから、それが正しいのですよ」

 葛葉は激しく首を横に振った。

「ちがうよ。それは逆井さんのセカイだったはずだよ。私のセカイじゃないはずだよ」

「この状況でまだ否定するのですか」

「そもそもなんで重力が逆になっちゃってるの? 物理的にありえない。そんな現象、現実に起こるわけないよ」

「起きているんですよ、事実。重力が反転したのは、私のセカイ観が正しかったため、まちがっていた重力のほうが訂正されたのでしょう」

「ありえないよ!」

 葛葉が叫ぶと、逆井から表情が消えた。つまらなそうに、床――いや、天井の一点を指さす。

「あそこになにが見えますか」

 葛葉はようやく立ち上がり、逆井が示した場所に目を向けた。

 黒々とした鼠が一匹、床を這っている。ぞっとした。

「鼠が見えるけど」

「あれは朽木さんの鼠なのではないですか」

 そんなはずはない。朽木の鼠だったら、私には見えないはずだ。

「逆井さんはなにがいいたいの?」

「他者のセカイが見えているのではないですか。葛葉さんが私のセカイを体感しているのと、同じように」

「あの鼠は自然にいる鼠かもしれないじゃない」

「自然にいるどの鼠とも、似つかないように思えますが」

 たしかに、見たこともないような鼠だ。紅い瞳、黒々とした大きな身体。他にもいくつか、黒い影が視界にちらついている。何匹もの鼠が食堂に隠れているらしい。

 だからといって、他者のセカイが見えているという逆井の意見を受け入れることはできない。

 そんなこと起こるはずがないからだ。

 葛葉が黙っていると、追い打ちをかけるように逆井がいった。

「それに、耳をすませば聞こえてきませんか」

「なにが?」

「音楽ですよ。譜久原さんの音楽にちがいありません」


 亜桜のいる教室にも異変が起きていた。

 反転した重力によって、机や椅子が逆さまに落下している。

 亜桜は教室を観察し、世界が逆転していることを理解したが、なにが原因なのかはわからなかった。

 亜桜はロボットであるため、混乱という感情は持ち合わせていない。

 七海に目をやった。今まさに杖をついて立ち上がろうとしている。

不安定な動作だったが、案の定、七海はよろけた。持っていた杖が床に転がる。落下音はよく聞こえなかった。

 音楽が聴こえるためだ。

 以前、音楽室の近くで聴いた音楽に似ている。複雑で奇妙な音楽。しかし、今はそのときとはちがいノイズが混じっていた。美しいとはいい難い。

 亜桜は落ちた杖を凝視した。

 落下の衝撃のためか、先端が折れたようだ。杖はふたつに分かれ――。

 そこまで思考したところで、亜桜は思考を訂正した。

 杖は折れたのではなかった。先端部分はカバーのように杖に取り付けられていただけのようだ。そのカバーが落下の拍子に外れたらしい。

 問題はその隠されていた部分だった。

 刃渡り二十センチほどのナイフが、杖の先からのびている。

 その形状は槍のようだと亜桜は思った。

 七海は杖をひろいあげ、なにやらぶつぶつとつぶやきはじめた。

 杖が光り、炎が噴射されるのと、亜桜が身を動かしたのは、ほぼ同時だった。


       9


 森崎は窓際で煙草を吸っていた。

 保健室はひどい散らかりようだった。重力が逆転したことにより、床から天井に物が落ち、散乱しているのだ。

 しかし、森崎はそんな部屋には目もくれず、ただ外をながめていた。

 下方には憎たらしいほどに青い空が広がっていた。

 森崎は窓を開けようと、クレセント錠に手をかけた。錠を下げようとしたが、上下が逆だと気づき、錠を上げた。

 窓を開けると、冷たい空気が部屋に入ってきた。

 森崎は吸っていた煙草を外に投げてみた。

 青空に吸い込まれるようにして、煙草は落ちていった。

 森崎はひとつうなずくと、煙草を追いかけるようにして、窓の外に身を投げた。

 森崎は空に落ちた。


「UFOがきたよ」と星川は告げた。

 廊下がふいに暗くなった。雲がかかったのかと朽木は思ったが、ちがった。

 巨大なUFOが霞ヶ原学園の上空に飛来したため、陽をさえぎっているのだ。上空といっても、朽木にとっては下方ではあるが。

 窓の外には黒い円盤型のUFOの一部が見える。幾何学的な照明が点滅していた。

 その点滅に合わせて、星川のカチューシャが光っていた。

 朽木はあとずさった。

 自分が置かれている状況がまったくわからなかった。

 なぜこんなことに。なぜ俺にもUFOが見えるのか。

 突然の頭痛と気絶になんらかの関連があるのではと疑ったが、それについて考えている余裕はなかった。

 星川は窓を開け、下方に向かって手を振っている。星川は叫ぶ。

「宇宙人さーん!」

 星川は窓から身を乗り出さんばかりだった。朽木は注意を促そうとしたが、ここが一階であることに気づく。いや、今は天地が逆転しているから、一階が一番高い位置にあるのだ。

 混乱している。あたりまえだ。

 どさり、と背後で音がした。

 朽木は振り返る。

 男子トイレの前には異形の獣が横たわっていた。

 全身黒い毛に覆われた化物だ。身体は大きく、手には鋭い爪が生えている。

 なぜか自分と同じ制服を身につけている。その制服は巨大な身体には小さすぎ、今にもはちきれそうだった。

 身体中に戦慄が走る。

「猪爪なのか……」

 獣に気をとられたのが、いけなかった。

 朽木が星川に目をもどしたときにはもう、星川が窓から飛び出そうとする瞬間だった。

「星川!」

 朽木は叫んだ。しかし、遅すぎた。

 星川は窓の外に落ちた。

 朽木は窓に駆け寄り、顔をつきだした。

 落ちてゆく星川の姿が見えた。下方にたたずむUFOに向かってゆく。

 星川はUFOに接近し、そして激突した。

 星川の肉体が爆ぜた。

 UFOの一部が赤い血で染まる。

 そして、UFOはかき消えた。

 なにもなかったかのように。

 陽光が窓から射しはじめる。

 朽木は頭をかかえ、ふるえはじめた。

 こんな馬鹿なことはない。こんなことはありえない。

 ふと目を上げると、男子トイレの前には変わらず獣が横たわっていた。

 朽木はうめき声をもらした。


 葛葉の耳にも音楽は聴こえていた。儚げなしらべだった。

だが、不気味な声が同時に聴こえた。

 呪詛のようなその言葉は音楽の邪魔をするどころか、葛葉の気分を不安にさせた。

 そんな音に耳をかたむけているうちに、逆井がドアのほうに近づいていた。

「譜久原さん……」とつぶやきながら、逆井はゆらゆらと歩んでいる。

 葛葉は追いかけようとしたが、反転した世界に酔ってしまい、うまく進むことができなかった。

 逆井はドアの外に出て行ってしまった。

 すると、入れ替わるように食堂にやってきた者がいた。

 渡辺だった。渡辺は壁をまたいで、食堂に入った。ドアは床に接しているが、ドアと天井の間は壁による隔たりがあるのだ。

「すばらしい」腕をひろげて、大げさにいった。「かくして妄想は現実になった」

「なにをいってるんですか」

 葛葉は渡辺を見据えた。

「実験は成功したということですよ」

「実験?」

「個人的な現実を他者に共有する実験。いや、こういったほうがわかりやすいかもしれません。セカイを現実に変える実験と」

 葛葉の背筋に冷たいものが走った。渡辺は続けた。

「それが霞ヶ原学園がつくられた目的でした。普通の人間とは相容れない特殊なセカイ観をもった生徒を集め、そのセカイを現実化する。ここは巨大な実験場だったのです」

「俺たちはモルモットだったってわけか」

 朽木の声だった。ドアをくぐってきたところだった。顔には苦悩の表情を浮かべている。

「そのセリフは皮肉ですか。自分のセカイ観の」

「黙れ」

「まだ語るべきことはたくさんあるのに?」

 朽木は声を荒げた。

「星川が死んだ。おまえに殺されたも同然だ」

「ひょっとして空に落ちたかな?」

 朽木と渡辺はにらみあう。葛葉はただ呆然とつぶやいた。

「星川さんが死んだって……」

「UFOに向かって落ちたんだ。止められなかった」

 朽木はそういって、唇をかみしめた。

「意味わかんないよ」葛葉は頭を抱え、叫ぶようにいった。「空に落ちたとか、UFOとか、なんでみんな意味わかんないこというの。ありえないよ」

「そう、ありえないことです。その〝ありえない〟を〝ありえる〟にするのが、この実験なのです」

 渡辺は当然のことのように語った。朽木は渡辺に突き刺すような視線を向ける。

「おまえは何者なんだ。ただの教員じゃないんだろ」

「研究員ですよ。ここにいる教職員はすべて、国に雇われた研究員です。国は実験を行うために霞ヶ原学園を設立し、我々を派遣した」

 葛葉は我慢しきれずに、言葉をはさんだ。

「さっきからいってる実験ってなんなんですか。私たちはなにをされたんですか」

「具体的にいえば、薬物の投与です」

 葛葉は息をのんだ。朽木はふるえる声でいった。

「強烈な頭痛がして、意識を失った――食事のあとに」

「そう、食事ですよ。給食の味に違和感をおぼえませんでしたか。君たちが食べたものにはすべて、我々が開発したある薬物が混ぜられていました。入学した当初からね」

 葛葉は吐き気をおぼえた。身体の中が腐蝕したような感覚。

「混ぜる量は徐々に多くしていきました。薬の味がばれないようにする目的もありましたが、薬に慣れさせるのが大きな目的でした。この薬は強力で、いきなり多量を投与すると、精神を崩壊させる危険性があるためです」

「俺たちは毎日、薬物を投与されていた……」

 朽木は壁に身体をあずけ、そうつぶやいた。絶望的な事実だった。

「我々はこの薬物を共感物質と呼んでいます。私たちは他者の心を理解する共感能力をもっている――他者の喜びや悲しみを自分のもののように感じるような能力を。

 共感物質には共感能力を高める効果があります。その効果によって他者の心を本当に理解できるようなる。つまり、他者のセカイを自分のもののように感じることができるのです」

 薬物を投与されていたということに、葛葉と朽木はショックを隠せなかった。かまわず渡辺は語りかける。

「今日以前にも他者のセカイが見えた経験はなかったでしょうか。そのときの薬はわずかな量だったため、見えたセカイも限定されていたと思います」

 そういえば――、と葛葉は思い出す。私は何度かUFOを目撃した。あれは、星川のセカイが見えていたということだろうか。

「我々は薬の投与を続け、君たちが薬に十分に慣れたと判断を下しました。そして、今日の昼食に十分な量の共感物質を混ぜました。セカイは限定されることなく、君たちの前に顕現したというわけです」

「おかしいぞ」と朽木はいった。「百歩譲って、そんな薬があったとしよう。だがそれは、セカイが現実に影響をおよぼす説明にはなっていない。あくまでも、おまえのいう個人的な現実にしか作用しないはずだ。天地が逆転するなんてことは起こりえない」

 そう、セカイが変容しても、私たちの生きるこの世界は変容しないはずなのだ。

「特別授業を思い出してください。多数の視点によって認識されたものは、現実ということができる。もし、この学園にいるすべての人間が、朽木君の鼠を見ることができるのなら、その鼠は事実、この現実に存在するということができるのではないでしょうか」

「いや、それは全員に幻覚が見えているだけだ」

「全員に見える幻覚――それは、現実に他ならないのではないですか。重要なのは私たちの視点こそが、現実を認識しているということです。つまり、視点は現実に先立つ。よって、多数の視点人物によって認識された事物や現象は、現実側に訂正を加える。私が妄想が現実になったといったのは、そういう意味なのです」

「ちょっと待ってください」葛葉はたまらず疑問を唱えた。「渡辺先生はさきほど、この学園にいるすべての人間が鼠が見えると仮定しました。すべてということは――」

「そう」渡辺は満足そうにうなずいた。「我々、教職員も含めてです」

 葛葉と朽木は押し黙った。

「共感物質は我々、教職員も服用していました。仮定ではなく事実だったのです。つまり、我々もまた君たちのセカイを体感することができる。私はとても感動しているのですよ。君たちのセカイを知ることができて」

 渡辺は狂喜している。常人には理解しがたい感情だった。

 朽木はまだ納得していない様子だった。

「信じられない。すべての人間といったって、この学園の中だけの話だ。その数十人が認識したところで……」

 生徒をさとす教師の口調で、渡辺は語りはじめた。

「なぜ生徒、さらには教職員が学園に閉じ込められているのか。疑問に思いませんでしたか。もちろん、生徒を学園外に逃がさないため、また国が行う非人道的な実験を隠蔽するなどという目的もあります。ですが、本当の目的はちがいます。霞ヶ原学園という閉ざされた世界をつくり、視点人物を固定するのが本当の目的でした。つまり、我々は現実を切り取り、独立させたのです」

「現実の切り取り――」朽木は目を見開き、くり返した。

「朽木君は学園の中だけの話だといいましたが、まさにその通りです。この霞ヶ原学園という独立した現実の中だけならば、セカイが現実化するのではないか。我々はそう考え、霞ヶ原学園が設立されたのです」


 炎は亜桜の制服をかすめた。肩口がすこし焦げている。炎は幻覚ではなく、本物であることを示していた。

 あの杖には、超常的な力が秘められているらしい。

「よくよけられたね」

 七海は首をかしげ、にっこりとほほ笑んだ。しかし、ようやく世界の異変に気づいたらしく、しきりに教室を見回す。

 反転した世界に困惑しているようだ。亜桜は七海から目を離さないように気をつけた。特にあの杖――超常現象を引き起こすだけでなく、先端にはナイフがついている。ナイフにはわずかに血痕が付着していた。

「つかぬことをお伺いしますが、失踪事件の犯人は七海さんだったのですか」

 七海は亜桜に視線をもどした。

「そうだよ。みんな私が殺したの。というか亜桜さん、今さら気づいたの?」

 失踪事件は生徒による自発的なものではなく、殺人がからんでいた。朽木の推理は正しかったのだ。

「凶器はその杖だったのですね」

「そうだよ」七海は杖にほおずりしてみせる。「私の呪文でみんなを殺したんだよ」

「呪文? ナイフは使わなかったのですか」

「ナイフ? なんのこといってるの?」

「杖の先端に取りつけられているナイフです。ナイフの持ち込みは禁止されていますが、杖の中にナイフを隠すことにより、学園入学時の検査をすり抜けたのでしょう。まさか杖にそんな仕込みがあるとは、考えもしなかったと予想されます」

「亜桜さんはなにをいってるのかな。これは魔法の杖だよ。ナイフなんてどこにもないよ」

「ナイフはあります。そして、血痕が付着しています」

「意味わかんないよ!」

 七海は杖を振った。炎が射出されたが、亜桜はすばやくそれをかわした。さきほどと同じ攻撃だったので、回避は容易だった。机や椅子が散らばっていて足場は悪いが、すでに環境はインプットされているので問題はない。

「もしかして、ナイフを認知できないのですか?」

 亜桜の質問に七海は眉をしかめた。

「ちがうよ。私は呪文で人を殺せるの」

 たしかに杖は超常現象を引き起こせるようだ。亜桜の理解を超えた武器である。だが、ナイフに血痕があるということは、ナイフは用いられていなければならない。

 七海はナイフを使用したはずだが、それを認識できていない。代わりに呪文を使ったと主張している。

 七海はナイフの使用を呪文と取りちがえているのだろうか。

 つまり、七海はナイフを使い人を傷つけたが、そのことを呪文の使用と認識している。

 真相がどうあれ、七海はこの考えを決して受け入れないだろう。七海はナイフを認知できないのだから。

「〈死の呪文〉を使ったんだ」

 七海はぽつりといった。

「〈死の呪文〉? さきほどの炎とは別という意味ですか」

「今のは〈火の呪文〉だよ。〈死の呪文〉は強力な魔法なんだ。あらゆる生命を死に至らしめる禁断の魔法。使うには膨大な魔力がいる」

「魔力とはある種のエネルギーですか」

 七海はうなずく。

「魔力の回復には時間がいる。私はまだ見習いの魔法使いだから、完全に回復するには約三十日かかる」

 三十日――およそひと月程度だ。

「その期間は失踪事件発生の期間と一致しますね」

「本当はすぐにでもみんなを殺してやりたかった。でも、私の魔力は少なすぎたんだ。だから、私は魔力の回復を待たなくちゃいけなかった」

「それが、一ヵ月おきに人を消した理由ですか」

「そうだよ。あたりまえのことだよ。見習いの私に膨大な魔力があるはずがないもん」

「しかし、〈死の呪文〉は人を殺すことができても、消失させることはできないのではないですか。それとも、消失にも呪文を使ったのでしょうか」

 七海は大声で笑った。嘲笑に分類される笑いだ。

「〈消失の呪文〉は高位の、しかも限られた魔法使いだけが使える魔法だよ。私にできるわけがない。私は人を殺しただけ。その死体を先生が隠したんだよ」

「死体の移動は教員の仕業だった。それでは、その教員は殺人の事実を知っていたということですね」

「そんなことよりさ、〈死の呪文〉、実際に見てみない。亜桜さんは意外に好奇心旺盛みたいだからさ」

「興味はありますが」

 七海は杖をかまえ、ぶつぶつとなにかをいっている。どうやら日本語ではないらしい。やがて杖から黒い霧のようなものが発生しはじめた。

「それにさ、ここまで話しておいて、生かしておくわけにはいかないからね」

 いい終わると同時に、七海は杖を亜桜に向けた。杖から禍々しい黒い蛇のような物体が射出された。うねりながら、すばやく宙を進んでくる。

 亜桜は身をかわしたが、黒い蛇は軌道を変え、亜桜の胸に飛びこんできた。

 亜桜は目をあげた。

 七海は亜桜を凝視している。

 奇怪なしらべだけが、教室を満たしていた。

 亜桜の身体にはなんの変化もなかった。蛇が入ってきた部分に傷はないし、痛みもなかった。

「どうして」七海はいった。「どうして死なないの」

 映像を巻戻したように、亜桜の胸から蛇が這い出てきた。狂ったように宙をのたうち回る。七海が杖を掲げると、蛇は杖の中にもどっていった。

 七海は杖を見、そして亜桜を見た。

「七海さんは」と亜桜は切りだした。「〈死の呪文〉はあらゆる生命を死に至らしめる魔法である、と説明しました。つまり、呪文の対象は生命体であるということです」

 七海ははっと息をのむ。

「私はロボットです。よって、生命体ではありません。したがって、私は〈死の呪文〉の対象外です。また、ロボットには比喩的な意味を除いて、死は存在しません」

 七海は一歩あとずさる。

「私に〈死の呪文〉の効果がおよばなかったのは、そのためではないでしょうか」


       10


 逆井は引き寄せられるようにして、音楽室にやってきた。ドアに手をかける。なるべく音をたてないように、慎重にドアを開いた。

 譜久原は教壇の真下に立って、指揮を行っていた。譜久原が大きく指揮棒を振るうと、音楽に抑揚がついた。譜久原の音楽の魅力に、思わず身震いした。

 逆井は目頭が熱くなるのを感じた。涙だ。私は今、泣いている。

 音楽がすばらしいというだけではない。

 譜久原は天井に立ち、私も天井に立っている。

 私と譜久原は同じ重力を感じているのだ。

 これまでのように重力で引き裂かれることはなくなった。

 私は譜久原にふれることができるし、譜久原もまた私にふれることができる。

 だから、私は涙を流している。

 視界がかすんでしまう。

 逆井は涙をふき、目を開いた。

 譜久原はほほ笑んでいた。

 私もほほ笑む。

 そして、譜久原の胸に飛びこんだ。


「そんな実験になんの意味があるっていうんだ」

 朽木の低い声が、食堂に響き渡る。

「現実をも改変してしまう人間の能力――あらゆる産業、また軍事目的に利用が可能でしょう。これは全く新しい技術です。我々は他国をさしおき、想像を超えた力を手にすることができる」

 朽木はぎりっと歯がみした。葛葉はただ立ち尽くすばかりだった。

「特にこの重力反転現象はすばらしい。ここまでの結果になるとは、我々も予想していなかった」

「逆井遥のセカイなんだろ。だけど、あいつは視界が上下反転しているだけじゃないのか。どうして現実の世界のほうが反転するんだ」

 葛葉はおそるおそる口をはさんだ。

「逆井さんは上下が逆さまに見えることから、自分にだけ逆に重力が作用していると思い込んでた。そして、逆井さんはこうも考えてたんだ」葛葉は唾をのみこむ。「自分側に作用している重力のほうが正しいって」

 朽木の表情が歪んだ。渡辺はいやらしい笑みをはりつけたまま、語りはじめた。

「逆井さんだけが正しいと思っていた重力は、共感物質に効果により、すべての人間にとって正しいとされた。その認識によって現実側は訂正を迫られ、重力は逆転した」

「信じられない」と朽木はつぶやいた。

 渡辺は胸をはって問いかける。

「他に質問はありませんか。どんな質問でもかまいませんよ。仮にも君たちの教師ですからね」

「ふざけやがって」

 朽木は渡辺の胸ぐらをつかんだ。渡辺はにやけながら、朽木を見下ろす。

「君の復讐の対象は私ではないはずですよ」

「なにをいっている」

「君の推理はまちがっていなかった。生徒は逃げ出したのではなく、殺されていた」

 その言葉に葛葉と朽木は、声を失くした。

「……殺したのは、だれだ」

「犯人は七海美衣菜。彼女が四人の生徒を葬り去ったのです」


 朽木の筋肉は弛緩し、そのすきに渡辺は身をひいた。

 七海が犯人――朽木は反芻した。

 まずい。亜桜は七海にはりついている。

 亜桜の身があぶない。

「本当なんですか」葛葉は泣きそうな顔でいった。「七海さんがみんなを……」

 そのさきは言葉にならないようだった。

「殺人は七海さんの仕業ですよ。そのあとの死体の隠蔽および証拠の隠滅は、我々、教職員が行いました。殺人の事実を隠すためにね」

 朽木の意識は亜桜のほうに向かっていた。渡辺の告白を耳にしてはいたが、集中できなかった。朽木が口を開こうとしたとき、葛葉がいった。

「先生たちは殺人に加担したんですね」

「そうです。でも、しかたがなかった。私たちも実験台をむやみに減らされたくありません。私たちは罪人にならざるをえなかった」

 意味深なことをいう渡辺に、朽木はくってかかろうとした。

 そのとき、窓ガラスが割れる音が響いた。

 音は下方から聞こえた。

 朽木は混乱したが、なんとか頭を整理した。

 下方ということは音は二階から聞こえたのだ。

「いいんですか。こんなところにいて」

 七海の仕業だろうか。だとしたら、亜桜になにかあったのかもしれない。

 朽木は渡辺をにらみつけた。

「おまえらには必ず罪を償ってもらう。覚悟しておけ」

 そういい捨て、朽木は走った。二階に向かって。


 七海は怒り狂いながら、〈火の呪文〉を二度放った。亜桜は二度とも回避した。やけどを負ったり、服を焦がすことはなかった。〈火の呪文〉に関するデータを十分に得ていたので、九十五パーセント以上の確率で回避が可能だった。

 〈火の呪文〉による炎は、亜桜に杖を向けたあと約一秒後に噴出され、一瞬で亜桜のもとに到達する。直線的に向かってくるため、攻撃としては単純だ。杖で亜桜を指した瞬間に横に身をかわせばよい。一秒間で回避の動作をするのは容易である。

 教室に火の手があがらないかどうか心配だったが、炎の噴出はわずかな時間であるため、教室が焦げる程度ですんでいた。

 炎をかわしていくうちに、亜桜は教室の窓側に移動していた。追い込まれた形になるが、攻撃を回避しつつドアまで走ることはできるだろう。

 重要なのは亜桜が今、どのように行動するのが最適なのか、考えることだ。

 七海はまた小さな声でつぶやきはじめた。呪文を行使する前兆だ。

 亜桜はその間に思考を走らせた。緊急の場合は、朽木に助けを求めるように命令されていた。だが、朽木を呼ぶことはできない。命令にそむくことになるが、この状況では朽木に危険がおよぶ可能性が高い。

 大切なのは命令よりも、人間の命なのだ。ロボット工学の三原則は、人間に危害をおよぼさないことを第一に設計されている。

 したがって亜桜は、人間に対する危険を排除しなければならない。

 七海を取り押さえる、もしくは戦闘不能の状況にさせれば、危険を排除できる。

 そこまで考えたところで、七海は杖を真一文字にないだ。

 反射的に横に飛んだ。

 杖から炎はでてこなかった。

 ただ鋭い風の音がしただけだ。

 亜桜のほおになにかがかすめ、背後の窓ガラスは破砕した。

手をほおにあてた。

 血が流れている。

「〈風の呪文〉だよ」と七海はいった。

 杖から炎ではなく、風が放出されたということだろうか。杖の動作も異なっている。〈炎の呪文〉の際は杖を突きだしていたが、今度は横に大きく振っていた。

 攻撃範囲は〈炎の呪文〉より大きいし、風は目で見ることはできない。回避の難度は高い。亜桜は七海の危険度を上方に修正した。

 すると、自動的にシステムのロックが解除された。危険度がある一定の値を超えると、戦闘用のシステムの使用が許可されるのだ。

 最終的な手段だった。できれば使いたくはない。しかし、七海は攻撃をやめる気配すら見せない。亜桜は一秒の思考ののち、戦闘用システムの使用を決定した。

 亜桜は右腕のそでをまくった。

 七海は距離を詰めてくる。不敵な笑みをこぼしながら。

 それを制するように亜桜は右腕を前方に突き出す。

 ガチャッ、と無骨な機械音が教室に鳴り響いた。

 七海は足を止めた。

「は?」

 亜桜の右腕を見て、呆然とつぶやいた。正確にいえば、亜桜の前腕部から露出した銃を見て、七海は呆然とつぶやいた。

 前腕部の皮膚は跳ねあがり、腕に内蔵されていた銃が引き出されていた。スイッチを押すとカバーが開くように、亜桜の身体から銃が出現したのだった。

「おかしいよ。亜桜さんは人間だよ?」

「私の身体のほとんどは人間と同じ構成要素で造られています」亜桜は左手をそえ、七海にねらいを定めた。「しかし、残りは機械です」

「嘘だ。こんなのでたらめだ!」

 状況を拒絶する七海に対し、亜桜は機械的にいった。

「七海さん、杖を捨ててください。そうしなければ、私はこの武器を行使することになります。この銃は電波を射出し、あなたの脳波に干渉します。その結果、脳波の周波数が低下し、あなたは約一時間ほど意識を喪失します」

 銃は小さな稲妻を帯び、パチパチと電気がはぜている。

「身体に危害を加えるものではありませんが、私はあなたの降伏を希望します。すみやかに解答してください」


       11


 朽木は走った。

 廊下をぐるりと一回転させたような景色が、朽木の目前にひろがっていた。入れ替わったのは上下だけでなく左右もなのだ。朽木は戸惑いながらも進んでゆく。天井の真ん中には蛍光灯があるため、踏まないように端のほうを選んだ。

 階段を見つけた朽木は愕然とした。段差がなかったのだ。すべり台のようになめらかな白い壁が、下にのびている。

 階段の裏側だ。

 反転しているから、上り階段の裏側を降りなければならないのだ。

 冷静に考えると頭がおかしくなりそうなので、朽木は思い切って階段を滑り降りた。

 踊り場の天井に着地した。

 そして、折り返すようにして、階段を滑り降りると、二階の天井にたどりついた。

 着地の反動でポケットから手紙を落とす。だが、朽木は気づかなかった。

 あたりを見渡す。どの部屋で窓ガラスが割れたのか。

 なにかの手ちがいで窓ガラスが割れた可能性もあるが、朽木には亜桜の身に危険が迫っているとしか考えられなかった。

 かすかに亜桜の声が聞こえた気がした。

 足元にいた一匹の鼠が、朽木を導くように走り出す。

 朽木はうなずき、そのあとを追う。


 譜久原は逆井をそっとひき離した。

「ごめんね。僕は指揮を続けなくてはならないんだ」

 逆井はこくりと首を縦に振る。目には涙を浮かべている。

 譜久原が憐憫の情を抱くことはなかった。むしろ怒りを感じている。

 わずかでも指揮の邪魔をされたからだ。

「よく聴いていてほしい。最高の音楽を奏でるから」と譜久原は釘をさした。

 うっとりとした顔をして、逆井は胸の前で手を組んだ。

 音楽はもはや自分にだけ、聞こえるわけではなかった。この学園中に音楽が鳴り響いている。なぜこんな状況になったかはわからないが、譜久原は感謝した。聴衆がいてはじめて、音楽は完成するからだ。

 譜久原は指揮を再開した。

 至高の芸術作品の創造。幾多の芸術家が、生涯を通じて挑んできた課題だ。成功した人間はごくわずかだろう。志半ばで死んでいった者は数知れない。

 芸術家はどんなに代償を払ってでも、どんなに犠牲を増やしてでも、至高の芸術作品を創作しなくてはならない。それこそが芸術家の生きがいであり、使命だ。

 今、自分はそんな作品を創りあげている。どんな快楽にもまさる悦びが、心を支配している。

 身体が勝手に動く。なんて美しい音楽なんだ。これぞ至高の芸術作品と呼ぶにふさわし――。

 譜久原は動きを止めた。

 至高ではない。なぜ今になって気づいたのだろうか。

 雑音が混じっている。

 譜久原はいつものように平静な顔をしていたが、額には血管が浮き出ていた。

 雑音だ。しかもふたりも。

 このふたりは音の調和を崩し、音楽の邪魔をしている。今まで野放しにしていたのがいけなかった。

 即刻、排除しなければならない。ろくでもない音を奏でる人間は必要ない。

 譜久原はぐっと指揮棒をにぎりしめた。


 食堂には葛葉と渡辺だけがいた。朽木のあとを追いかけてもよかったが、葛葉は食堂に残った。渡辺に聞きたいことが、たくさんあったためだ。

「どうして渡辺先生は見てきたかのように、話をするんですか。七海さんが殺人を犯したところを実際に見ていたとでもいうんですか。そんな都合のいいタイミングで、先生は現場にいたんですか」

 葛葉は渡辺を問い詰めた。奔流のように言葉が出てきた。

「見ていましたよ。監視カメラでね」

 さも当然というように、渡辺は答える。あるいは、これが渡辺のセカイ観なのかもしれない。

「監視カメラなんて、どこにもないはずです」

「この学園にはあらゆる場所に火災報知器が設置されています。ほら、ここにも」

 渡辺は食堂の中央を指さした。丸型の火災報知器が、倒れた机の間にのぞいている。天井についているものだが、反転しているので下方に見える。

「喫煙者である朽木君は、この環境にさぞいらだちを覚えたでしょうね」

「その話がどう監視カメラと関係するんですか」

「火災報知機が監視カメラだったのです。カメラの存在を隠すために、火災報知器に見せかけていました。実際には火災を検知する機能はありません」

「それじゃ……私たちはずっと監視されていたんですか」

「監視ではなく、観察といってほしいですね。我々は研究者です。実験の模様を観察するのは、重要な仕事です。我々は学園中の監視カメラを使い、みなさんの様子を観察していたのです」

 身体中の力が抜けた気がした。私たちの行動は筒抜けだったのだ。すべて。

「我々は七海さんの殺人を監視カメラで目撃すると、すぐさま現場に向かいました。そして、殺人の隠蔽工作を行いました。殺人がばれたら学園生活どころではなくなり、実験は中止されてしまいますから、隠蔽はやむをえませんでした」

 その様子からは罪悪感は微塵も感じられなかった。渡辺は続けた。

「隠蔽の手法は単純なものです。現場にあった血痕や毛髪などを回収し、現場を元通りにしておきました。死体は袋につつんで、教職員の居住スペースの一室に隠したあと、ころあいを見計らって、物資を輸送するトラックに載せて外部の研究施設に送りました」

 耳をふさぎたい気分だった。あまりにも残酷な仕打ちだ。

「といっても、作業は容易ではありませんでした。そもそも、七海さんは突発的に事件を起こすので、対処の準備が十分にできなかった」

 七海――。葛葉は思わず渡辺をさえぎった。

「七海さんが犯人だという証拠がありません。七海さんが人を殺したなんて、私には信じられない」

 葛葉の主張は幼稚ではあったが、確信をついていた。

「証拠は隠滅してしまいましたからね。監視カメラの映像を見せることも、今はできませんし。七海さんの杖を見れば、すこしは信憑性が出てくると思うんですが」

 渡辺は七海の杖にナイフが仕込まれていたことを説明した。七海はそのナイフで心臓を一突きして、人を殺したらしい。自分では人間を即死させる〈死の呪文〉を行使したと思い込んでおり、ナイフの存在を認知できないそうだ。

 葛葉は余計に渡辺の話を信じることができなくなった。だが、続けて渡辺は犯行の動機について説明した。その理由が妙にふに落ちた。渡辺のいっていることは本当なのかもしれない、と葛葉は思った。

 いたたまれない気持ちになり、葛葉は心の中で七海に謝罪した。

 渡辺はなおも話し続けた。はやく七海の元に行きたかったが、渡辺の話は葛葉を食堂にとどまらせた。

「人を殺しても、教職員が隠蔽することを知った七海さんは、犯行を重ねました。その犯行は衝動的であったため、大きな欠陥がありました。すべての事件に目撃者がいたことです」

「え?」呆けたように、葛葉は声をもらした。

「第一の事件では、天羽君が七海さんの部屋に入ったところを、白戸さんが見ていました。我々が駆けつけたとき、白戸さんは部屋にもどっていましたが、犯人が七海さんであることは予想がついたと思います」

「なんで白戸さんは、そのことをいわなかったんですか」

「白戸恵夢は発話が困難だった。それ以前に、白戸さんはすべてを嗤いに還元します。殺人だと思ったとしても、それは嗤いの対象に他ならない。白戸さんにとっては深刻な問題ではないのです。また目撃情報を他者に伝えないほうが、おもしろくなると考えたのかもしれません」

 マスクに描かれた嗤いのマークが目に浮かんだ。

「第二の事件では、佐冬君殺害の一部始終を、猪爪君が目撃していた。七海さんは階段の踊り場で偶然会った佐冬君を殺しました。佐冬君が事件をかぎまわっていたことも要因として考えられますが、真実はわかりません。とにかく、その現場に猪爪君は居あわせた。しかし、猪爪君は七海さんに好意をよせていたため、人にはいわなかった。それどころか嘘の証言をして、七海さんをかばおうとしました。七海さんは猪爪君に見られていたことは知らなかったようです」

 猪爪君も犯人を知っていた。しかも、七海さんをかばった。

「第三の事件では、白戸さんが七海さんの部屋に入ったのち、死体となって運ばれてゆくのを、亜桜さんが目撃していた。死体運搬を見られた我々は、亜桜さんに命令をして、口止めをしました。ロボットは人間の命令に従わなくてはなりません。これには条件があるのですが、我々はなんとかその条件をクリアしました。白戸さんが犯人を知っていながら部屋に入ったのは、ふざけ半分だったようです」

 亜桜さんまで犯人を知っていた。

「第四の事件の目撃者も亜桜さんです。しかも、無量さんの殺害は亜桜さんの目の前で行われた。ただ、この事件はすこし状況が異なります。七海さんの魔法は本当に発動したのです」

 渡辺は目を見開いた。

「七海さんの最初のねらいは亜桜さんでした。しかし、無量さんが部屋から出てきてしまいます。反射的に七海さんは無量さんにねらいを変更しました。そのとき無量さんは共感物質の効果で、七海さんのセカイを知ることができたようです。そのため、運悪く〈死の呪文〉によって即死した。一方、亜桜さんは七海さんのセカイに共感している状態ではなかったため、〈死の呪文〉が見えなかった。その結果、杖を振ったのちに、無量さんがただ倒れたように見えた。亜桜さんは殺人現場に居あわせながらも、殺人を認識できなった」

 渡辺は滔々と語り続ける。

「亜桜さんは森崎先生を呼びに、保健室に走りました。私は森崎先生の連絡を受け、亜桜さんがもどる前に現場を片づけました。もどってきた亜桜さんの目には、倒れていた無量さんがいなくなったと映ったはずです」

 葛葉にはもう、弱々しくうなずくことしかできなかった。

「すべての事件に目撃者がいた。しかし、目撃者のセカイ観が情報を隠蔽してしまった。ずさんな犯行は、目撃者によって救われたというわけです。無論、我々もね」

 みんな真相を知っていたのだ。それなのに、どうしてこうもすれちがってしまったのだろう。

 いいようもない疲労感が、葛葉を支配していた。渡辺から話を聞いたのはまちがいだったのかもしれない。

 出口に足を向けた。わずかな距離だったが、とても長い道のりのように感じた。この場所から逃れたい。そして、七海のもとに行かなくてはならない。

 葛葉には七海に伝えなければならないことがある。

 黒い影が葛葉の横を、驚くべきはやさで通り過ぎた。葛葉はうつむき、耳には不可解なな旋律が聴こえていたため、気づくことはなかった。

 七海のもとへ――。考えているのはそれだけだった。


 猪爪はトイレから出ようとしたときに、ドアの下の壁につまずいて倒れた。世界が反転し、ドアが設置されている壁も逆さまになっていることに、気をつけられなかったのだ。

 自分自身のすさまじい重量が、胸を圧迫した。

 猪爪はしばらくの間、まどろみの中にいたが、窓ガラスが割れる音がして目を覚ました。 

 すると、食堂で渡辺と葛葉が話す声が聞こえた。獣である猪爪の聴力は人間を超えていた。 

 たえまなく聴こえる音楽に邪魔はされたが、会話を聞き取ることはできた。

 渡辺の話した内容に猪爪は憤慨した。

 やはり悪いのは七海ではなかった。やつらはすべてを見過ごした。原因はそこにある。

 猪爪は天井をのしのしと歩んでいった。憤怒で燃えさかる猪爪が考えることはひとつだけだった。どんなに世界が異様でも関係はない。

 気づくと猪爪は駆けていた。

 食堂に入ると、猪爪は渡辺を屠った。

 人間はもろいと猪爪は思った。

 渡辺は死ぬ前に葛葉に声をかけていた。

「なぜすべて話したかわかりますか。『みんな死ぬ』からですよ」

 葛葉は呆然自失としていたが、聞いていたのだろうか。

 その姿はもうない。

 猪爪は渡辺がただの肉塊に変わるまで、爪をたて続けた。


「その変な銃をしまえ! これは命令だ!」

 七海は杖を振り回しながら叫んだ。亜桜は照準をはずさない。

「命令に従うことはできません」

「ロボットだったら、人間の命令に従え!」

「ロボット工学の三原則第二条――ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、命令に従うことによって、人間への危険を看過してしまう場合においては、その限りではありません。したがって、今の命令を承服することはできません」

 唇をかみしめ、七海はわなわなとふるえた。怒りやいらだちの表現だ。

 亜桜は武器を行使するために、エネルギーの充填をはじめた。銃がまとう稲妻が激しくなってゆく。

 七海の表情が唐突に変わった。コピー&ペーストしたような笑顔。

「亜桜さん、すこしだけお話していいかな」

「杖を捨ててください」

 七海は杖を足元に置き、手をあげた。

「これでいい?」

「杖との距離が近すぎます。私のほうへ杖を放ってください」

「私はただお話がしたいだけだよ」

「それでは、手短にお願いします。現段階では銃を降ろすことはできませんが、ご了承ください」

「かわいそうに。亜桜さんは人間なのに、ロボットだと思い込んでいるんだね」

「私はロボットです。人間ではありません」

「その思い込みが亜桜さんをロボットにしてるんだよ。理由はわからないけど、今はそんな思い込みが本当になっちゃってるんだね。世界がひっくりかえってるのも、きっと逆井さんのせいだよ」

 セカイが顕現しているということだろうか。七海の主張には一定の妥当性が認められた。

「でもね、亜桜さんは頭のおかしい連中とちがって、救いようがあるんだ。だって、私は亜桜さんがロボットじゃないってことをよく知ってるから」

「私のなにを知っているというのですか」

「今月に入ってから、よくトイレでえずくようになったよね」

「吐き気がするためです。消化器系の動作不良でしょう」

「それにしても頻繁だよね」

「長期間メンテナンスをしていないのが、原因だと思われます」

「ちがうと思うよ」

 七海はにやっと口の端をつりあげた。

「〝つわり〟なんじゃないかな」

 亜桜は数秒間、フリーズした。

「ロボットである私には、つわりは起こりえません」

「でも、あの症状は明らかにつわりだよ。中学生のころ、早熟な子がいてね。同じ症状に悩まされてたから、わかるんだ。亜桜さんはつわりになっている。ということは――」

 七海はいった。

「亜桜さんは妊娠してるんだよ」

「そんなはずはありません」亜桜は即座に否定した。「私はロボットです。ロボットには妊娠する機能はありません」

「じゃあさ、生理はきてるの?」

「生理は人間に起こる現象です」

「似たような症状になるときが、月に一度はあるでしょ?」

「OSのアップデートなら、月に一度は行われます」

「先月、そのOSのアップデートっていうのは、行われたのかな」

「先月は――」亜桜は記憶を検索した。「行われていません」

「どうして? おかしくない?」

「おかしいです。原因は不明です」

「生理が止まったってことだよ。やっぱり亜桜さんは妊娠してるんだよ。だれかと関係をもったんでしょ。想像はつくけど」

 ほおの筋肉が緊張していた。どうして動揺しているのか。私はロボットだ。人間ではないはずだ。それなのに――。

 七海は心底、楽しそうにいった。

「亜桜さんは妊娠してる。でも、ロボットは妊娠できない。ということは、亜桜さんはロボットじゃない。じゃあ、亜桜さんはなんなのかな?」

 身体が小刻みに振動する。亜桜はふるえる声でいった。

「私は人間――?」

 その瞬間、右腕から露出していた銃が、粉々に砕け散った。

 破片は宙に消え、右腕は人間の腕にもどってゆく。

 セカイ観がくつがえされ、セカイが崩壊したのだった。

 亜桜はくずおれる。

 七海は杖を拾い、すばやくかまえた。

「これで〈死の呪文〉が使えるね」

 杖が突き出される直前、小さな円筒型の物体が七海の肩にあたった。

 中に入っていた煙草と灰が身体にかかる。

 ふたが開かれた携帯灰皿が、ぶつかったのだった。

 亜桜は飛んできた方向に首を回した。

 朽木梓が教室の入口に、息を切らして立っていた。

 灰に鼠が群がるのは、一瞬の出来事だった。


       12


 朽木は亜桜のもとにかけよった。

「大丈夫か?」

「大きな外傷はありません。ただ……」

 七海は悲鳴をあげていた。身体をおおうほどに、大量の鼠がまとわりついている。ひきはがそうとしているようだが、新しい鼠がどこからともなくやってくるので、きりがなかった。

 朽木は手をさしだし、亜桜を起こした。亜桜は疲弊し、動揺していた。なにが起きたのか、今着いたばかりの朽木にはわからなかった。ひとつだけ、亜桜に聞いた。

「犯人は七海なんだな」

「そうです。一連の事件の犯人は七海さんです。凶器はあの杖のようです」

 先端にナイフがついた奇妙な木の棒を、七海は手にしていた。鼠を振り払おうと、がむしゃらに身体を動かしている。体勢を崩しそうになり、七海はカッと杖をついた。意地でも立っていようとしているのだ。

 七海の姿はほとんど見えなかった。黒々とした鼠たちが、身体を埋め尽くしているからだ。鼠はそれぞれ蠢いている。不気味に波打つ人影のようだった。いや、この姿はまるで――悪魔のようだ。

 頭からのびたツインテールは、二本の角に似ている。

 その姿は黒い皮膚をもつ、悪魔そのものではないか。

 血走った赤い眼をのぞかせ、そいつはいった。

「殺してやる」

 杖から炎がほとばしった。だが、腕に鼠がからみついているためか、狙いははずれた。朽木の頭上を炎が通り過ぎる。火の粉が舞い落ちてきた。

 七海のセカイ観も現実化しているのだ。だから魔法は事実、発動する。

 畏怖の念を感じたが、朽木はそれを押しのけるように、声を張り上げた。

「なぜ天羽を、佐冬を、みんなを殺したんだ」

「私をバカにするからだよ。みんな私をバカにしてる。だから、皆殺しにしてやるんだ」

 予想外の答えに、朽木は当惑した。

「なにをいっている。だれもおまえをバカにしてなんかいない」

「バカにしてるよ。今も聞こえる。私の悪口をいって、嘲笑する声が」

 いやな汗が朽木の身体からにじみだした。

 朽木の耳には、不可解な音楽が聴こえていた。きっと譜久原のセカイ観なのだろう。しかし、その旋律を邪魔するように、人の声のような音も聞こえてくる。不明瞭な低いつぶやき。まるで呪詛のようでもある。

「音楽に混じって聞こえてくる人の声――もしかして、これはおまえのセカイ観なのか」

 苦々しく、七海はつぶやいた。

「私をバカにしやがって……。私は本当に魔法が使えるのに……」

「ちがう。おまえがバカにされてると思い込んでいるだけだ。だから、そんな声が聞こえる気がするんだ。これはただの――」

「だから私は人を殺した。みんな嫌いだから、みんな殺そうと思った。だれでもよかった。順番とかもどうでもよかった。殺せさえすればよかった」

「ただの被害妄想じゃないか」

 七海は杖を高く掲げた。禍々しい黒いオーラが杖をつつんでゆく。

 朽木はあとずさったが、背後は窓だった。逃げ場はない。

 亜桜に目をやったが、立っているのがやっとといった様子だ。

 杖が暗黒の輝きを放ち、振り下ろされようとしたそのとき、朽木は自分自身の鼠と目が合った。

 すべての鼠がうらめしそうに、朽木を見ていた。

 朽木は鼠がなにを望んでいるか悟った。鼠は灰を食べることで、その衝動を我慢していたのだ。朽木が煙草を吸っていたのと同じように。

 鼠は朽木の影だった。世界に対する暗い憎しみの影。

 自分も七海と同類なのだろう。ただ、俺は七海ほど振り切れなかった。

 父が病死し、母が狂った。その運命を呪ってはいる。

 だけど、すべての人間を敵に回すことはなかった。

 だから、衝動を我慢できた。

 だが、それももう限界だ。

 朽木は自分自身の鼠にいった。

「ああ。喰っていい」

 七海は金切り声をあげた。身体に無数の歯がくい込む。

もだえ、苦しむが、鼠は容赦しなかった。

 血が飛び散り、七海はくずおれる。

 その様子を朽木は冷たいまなざしで、見つめていた。

 自分の破壊衝動から目をそらさないように。


 葛葉は階段を転げ落ちた。段差がないことに気がつかなかったのだ。

 すぐそばに手紙が落ちていた。葛葉はそれを手に取る。

 どうしてこんなところに――?

 ぽつぽつと、手紙に水滴が落ちた。

 涙が流れるのを止めることはできなかった。

 その手紙は、葛葉が朽木に送ったものだった。


 うずくまる葛葉を尻目に、猪爪は走った。七海の叫び声が聞こえたからだ。

 途中で国語の担任の栗原と出会った。こっちに向かって、ふらふらと歩いている。別の階段でやってきたのだろうか。

 猪爪は栗原を屠ると、そのまま死体をひきずりながら、七海の声がした教室をのぞきこんだ。

 まず、朽木と亜桜が立ちすくんでいるのが目に入った。そして、視界の下方には、おびただしい数の鼠が山をなしていた。

 鼠が方々に散ってゆくと、覆い隠されたものが露わになった。

 血まみれになった七海美衣菜の身体。

 猪爪は栗原の死体を取り落とした。


 その獣は這いつくばり、七海の様子をたしかめていた。七海は動かず、声もあげなかった。鼠がのどを喰いやぶり、絶命したのかもしれない。

 獣は咆哮した。学園中に響き渡るほどの叫び声だった。

「猪爪……」

 朽木は思わずつぶやいた。

 教室の入口には栗原の死体が転がっていた。獣の爪や口元はぬらぬらとした血が付着している。この獣が殺したのだ。

 獣は腰を上げた。圧倒的な黒き巨体。

 殺される、と朽木は思った。

 鼠では到底立ち向かえそうもない。携帯灰皿も持っていない。

 そのとき、獣の身体が傾いだ。

 校舎がゆれたのだ。ガタガタと不穏な音が響く。地震だろうか。

 一瞬だが時間がかせげた。朽木は亜桜の手を引き、窓辺に寄る。とっさの判断だった。ここは二階であり、地上に飛び降りて逃げるのも不可能ではないと考えたのだ。

 朽木はひどく混乱していた。ついさきほど七海に追いつめられて、窓からは逃げられないと考えたばかりだった。にもかかわらず、窓に向かってしまった。

 窓は割れていたので、開ける必要はなかった。下をのぞくと、うんざりするくらいに青い空がひろがっていた。地上は上方にあった。コンクリートでできた空が天上を覆っている。

 ここから飛び降りたら、空に落ちてしまう。果てしない落下――。

 獣の荒い息づかいと、重たい足音が近づいてくる。

 亜桜をちらと見やった。

 悲しそうな顔で、こちらをながめていた。

 いつからそんな顔ができるようになったのだろう。

 天羽も最期にこんな顔をしていた気がする。

 俺はあいつにひどいことをいったんだ。

 天羽はこうたずねた。

『ライ麦畑から落ちたら、人はどこに行くんだろう』

 俺は答えた。

『ただ、落ち続けるだけなんだろうな』

『どこまでも?』

『そう、どこまでも』

 今ならわかる。俺のいったのが、どんなに残酷なことなのか。

 落ちた先には地はなく、もちろんキャッチャーもいない。

 どこまでも落ち続けてゆく。

 まるで、青い空に向かって落ちてゆくように。

 そこには一切の救いがない。

 俺は亜桜の手をにぎりしめた。

 選択肢はふたつにひとつだ。

 このまま猪爪に殺されるか、空に落ちるか。

 俺は窓枠に足をかけた。

 亜桜とすこしでもいっしょにいられるほうを、俺は選んだ。

 朽木と亜桜は空に落ちた。


 譜久原は雑音の元凶のひとりにたどり着いた。そいつは二階の廊下のすみをうろついていた。

「こんにちは、時藤君」

 時藤が止まらなかったので、強引に壁に押しつけた。目の焦点が合っていない。時藤には目があるが、なにも見てはいないのだ。他者とのコミュニケーションが断絶している。だから、音の調和を壊してしまうのだ。

 逆井は後ろで、時藤に侮蔑の視線を投げている。

「こいつが雑音なのですか」

「その通りだよ。逆井さん」

 雑音を排除することは逆井に伝えてあった。いっしょに探すと逆井は答えた。

「もうひとりは?」

「もうひとりはね、音が徐々に弱くなってきている。たぶん、そう長くはない。放っておいてもよさそうだ」

 もうひとりは七海美衣菜だった。七海の音には憎しみがこもりすぎていて、全体のバランスを崩してしまう。おもしろい音ではあったが、排除せざるをえない。だが、その手間も省けた。理由はわからないが、七海のセカイは終わろうとしている。

「それでは、こいつを始末すればいいだけですね」

「物騒なことをいうもんじゃないよ」

 時藤は無反応だった。自分の生死すら、興味がないのだろうか。

 そのとき、校舎が大きくゆれた。

 地震かと思ったが、ゆれはいつまでもおさまらない。

 逆井はなにかに気づいたようで、廊下の窓を指さした。コンクリート片がいくつか上から落ちてくる。

 譜久原は時藤から手を離すと、窓を開いて地上を見上げた。

 校舎の根元のコンクリートにひびが入っている。地上の欠けたコンクリート片が、空に落ちているのだ。

「きっと校舎が自重にたえきれないのです。長くはもたないでしょう」

 逆井はいつのまにか、かたわらに来ていた。

「なんだって?」

「基礎の部分が、校舎の重力によって壊されているのです。このままだと校舎ごと空に落ちます」

 譜久原は鼻を鳴らした。

「なるほどな。『みんな死ぬ』っていうのは、そういう意味か」

 外に出れば空に落ちてしまうから、逃げ場はどこにもない。信じられないが、僕らは校舎ごと空行きになりそうだ。

 まあ、そんな音も悪くないと譜久原は思った。

 目を離していた隙に、時藤はどこかへ向かおうとしていた。すぐに追いつき、時藤の肩に手をかける。そして、強引に振り返らせた。

「悪いが君には永遠に沈黙してもらおう」

 譜久原は指揮棒で、時藤の右眼をつらぬいた。

 即座に引き抜き、血を払う。

 時藤は右眼を抑えてその場に倒れこんだ。

 眼窩から血液があふれ出し、天井にひろがってゆく。

 そのとき、譜久原ははじめて時藤の声を聞いた。

 時藤は絶叫した。

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