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【長編小説】失学園―スクール・ロスト― ⑤

八月 時藤実散のセカイ


       1


 時藤実散は目を覚ました。いやな汗が全身にまとわりついている。心の中にはあらゆる種類の恐怖がうずまき、起き上がるのさえ困難なほどだった。右眼に手を乗せてみたが、出血も痛みもなかった。

 明るい陽ざしが、窓からそそいでいる。時計を確認すると、すでに十時を過ぎていた。重い身体をひきずるようにして、時藤は動き出した。

 制服に着替え、教室に向かう。

 階段の手前で白戸恵夢と出くわすと、時藤は立ち止った。まじまじと見つめる。身体にふれようとすると、白戸はひょいとかわし、嗤いながら去って行った。

 時藤は首をかしげると、階段を降りはじめた。すると、上ってくる無量素子が目に入った。すれちがいざま、時藤は食い入るような視線を無量に送った。無量はさも不快だといった様子で、目をそらした。

 時藤はまたも首をかしげると、教室に急いだ。廊下を歩いていると、肩をたたかれた。ふりかえると、佐冬真守の姿があった。

「どうしたの? こんなところで」

 佐冬の問いかけに、時藤は答えなかった。ただ呆然と佐冬を見つめるばかりだった。佐冬も不思議そうに時藤を見つめていたが、やがてその場をあとにした。

 時藤は肩に頭がつきそうなほど、首をかしげた。教室に入ると、まっさきに黒板に向かった。

 うずまく恐怖は、時藤に白いチョークを持たせ、黒板いっぱいに言葉を書かせた。

『みんな死ぬ』

 時藤はたしかにそう書いたつもりだったが、実際には文字の順番が入れ替わっていた。

『ん死なぬみ』

 それが、時藤実散のセカイだった。

「不思議な言葉を書くんだね」

 背後から声。教室にはひとりの生徒が着席していた。

 天羽純だった。

「そんなに驚いた顔をしないでおくれよ。まるで幽霊でも見ているようじゃないか」

 天羽はほほ笑みかけるが、時藤は全身をこわばらせる。

「共感するよ、君の気持ちに。消えたはずの人間が出現したんだからね」

 組んだ手にあごを乗せて、天羽はいった。

 窓の外から騒々しい虫の声が聞こえる。これは蝉の声だ。蝉――。

「今日は八月一日で、夏季休暇中だよ。こんなときに、教室に来ようなんていう奇特な人間は君と僕ぐらいだね。それにしても、その服は暑くないかい」

 時藤は冬服を着ていた。ブレザーにネクタイ。汗がほおを伝う。

「今は十二月じゃないんだ」

 その言葉にはとても深い意味があるように思えた。

「君はすべてを見てきた。だから、すべての惨劇を知っている。君は意識せずとも警告しようと思ったんだ。『みんな死ぬ』ってね」

 蝉が鳴いている。まるでなにかの呪いのように。

「すべてを知っているのは、君にとっては当然だ。なぜなら、君と僕らでは時間の流れ方がちがうんだから」

 天羽はすこし目を細めた。

「君は時間を入れ替えたんだね」


       2


 時藤は生まれつき、奇妙な病を患っていた。その症状は成長してゆくにつれ、だんだんと悪化していった。中学生のころになると、他者とのコミュニケーションが一切とれなくなるほど病状は悪化した。

 記憶の順序が入れ替わる――それが時藤の病であり、セカイ観だった。

 学んだ教科書の内容が、頭の中で入れ替わってしまい、意味がわからなくなる。友達と話していても、話題の順序が入れ替わってしまい、話についてゆけなくなる。時間割で決められたスケジュールが入れ替わり、授業を休み時間だと勘ちがいして、外で遊んでしまったこともある。

 症状が進行すると、記憶の入れ替わりは細かくなっていった。教科書は章単位の入れ替わりから、節単位、文単位の入れ替わりになり、最後には文字単位の入れ替わりになった。同様に会話の入れ替わりも細分化されてゆき、文字単位で入れ替わりが起こるようになってしまった。

 たとえば、「こんにちは、時藤君」と声をかけられたとしよう。この言葉は時藤の中で、「ん藤に時ち、は君こ」に変換され、意味がわからなくなる。書き言葉でも話し言葉でも入れ替わりが起こり、自分で文章を書いたり話したりするときも、文字が入れ替わった。時藤は他者とコミュニケーションがとれないようになった。

 また、外因性のショックを受けたとき、記憶の大きな入れ替わりが起きた。一週間分の記憶が日単位で入れ替わる。ひと月分の記憶が、週単位で入れ替わる。ひどいときには、一年分の記憶が月単位で入れ替わった。

 記憶の連続性が失われ、アイデンティティーは崩壊した。時藤はなんの意味もなさないセカイを、彷徨するように生きるようになった。つきあう友人はいなくなり、廃人と蔑まれるようになった。だが、このころ時藤は思考さえも文字単位で入れ替わっていたため、どんな目にあっても無意味だった。

 時藤実散は記憶が入れ替わり、あらゆる意味が喪失するセカイに生きている。

 高校への進学は難しいと両親は考えた。だが、時藤のような特異なセカイ観をもった生徒を受け入れる学校ができるらしい。時藤は霞ヶ原学園に入ることになった。


 天羽は空調をつけると、時藤のブレザーを脱がした。そして、自分のとなりの席に座らせた。ブレザーはその机の上に置いておき、自席に横向きに腰をかけた。天羽はいった。

「十二月二十四日、君は譜久原君に右眼を刺された。そのショックによって、広範囲における記憶の入れ替わりが起きた。――いや、起こるはずだった」

 むし暑い教室に、天羽の涼しげな声が響きわたる。

「というのも、実際に入れ替わったのは時間そのものだった。あのとき、共感物質の効果によって、セカイは世界に影響をおよぼしていた。逆井さんのセカイが世界を改変したように、君のセカイもまた世界を改変した」

 その言葉はすぐさま入れ替わり、意味を失くした。それでも時藤は、すべてを知っているような天羽の口ぶりに疑問を感じた。だが、その疑問も入れ替わり、意味を失くす。

「それでは、君のセカイが世界に影響をあたえるとはどういうことなのか。みんなの記憶が入れ替わるということだろうか。でも、そうはならなかった。記憶の入れ替わりを超えて、特異な現象が起きた」

 天羽は唇をすこし湿らすと、言葉を続けた。

「記憶とは個人的な時間の経験にすぎない。君はそれを超越した。個人的な時間の経験を超え、霞ヶ原学園に流れている時間そのものに影響をあたえた。セカイつまりは記憶ではなく、世界つまりは時間そのものを改変したというわけだね。君は記憶ではなく、時間を入れ替えたんだよ。通常の流れとは異なる時間を、回想ではなく本当に体験した。タイムスリップするように、ランダムに時間を行き来したんだ」

 言葉の奔流は分解され、意味は喪失する。しかし、天羽が重要なことをいっているのはわかった。その理解もすぐにバラバラになる。

「右眼を刺された直後、入れ替えは起こった。範囲は八月から十二月までで、月単位で入れ替えられた。これは失踪事件に関連しているのだろう。失踪は八月から、ひと月ごとに起きていたからね」

 時藤は口をはさまない。天羽は語り続けた。

「君ははじめに九月を体験した。きっと君は八月が飛ばされていて、不思議に思っただろう。おまけに僕は知らないうちに失踪していた。君はなにが起きたのかわからなくて困惑したにちがいない。この時点では十二月に起きることを、君は知らないんだから。

 次に、君は十月を飛ばして十一月を体験した。時をジャンプしたんだね。いきなり冬になって、君は衣替えを忘れてしまった。今度は白戸さんが知らないうちに失踪していただろう。

 そうして君は十月を体験することになる。時を遡り、失われた十月が補完される。君は白戸さんがいることに疑問を感じていたね。あと、十一月末に失踪したはずの無量さんがいたことにも。忠告することもできたかもしれなかったけど、君はそうしなかった。あらゆる意味が喪失してしまうから、しかたがないんだけれど。

 君はついに十二月を体験する。共感物質によって、セカイは世界になる。逆井さんのセカイ観が世界を反転させ、学園が空に落ちるという危機がおとずれる。そのとき、君は譜久原君に襲われ、時の入れ替えが起きるわけだけど、不思議なことにもうすでに入れ替えは起きているんだよね。君は時間の流れを超越している。前に流れてゆくはずの時間は、君にとっては意味をなさない。時間はすでに入れ替えられていて、ふたたび九月にもどることはない。次に君をまっているのは失われた八月だった。

 君は惨劇を知っている状態で、八月にやってきた。いなくなったはずのみんなが、学園で暮らしている。君は十二月の恐ろしい体験から、みんなに警告をあたえようと、黒板に文字を書いた。『みんな死ぬ』。君からの精一杯のメッセージだった」

 そこまで語り終えると、天羽は小さく息をはいた。空調が効いてきて、教室は適温になっていた。それでも、時藤の汗は止まらない。冷や汗だった。自分のすべてが暴かれてゆく。こんな感覚ははじめてだった。

「注意すべきなのは、この現象はタイムスリップではないということだ。肉体は通常の時間の経過にしたがっている。だから今、刺された右眼はもとどおりになっている。いうなれば君の意識だけが、入れ替えられた時間を経験した。肉体は世界に結びついているから、時を行き来することはできない。回想と同じように意識は時を旅できるけれど、その時の肉体はその時のままだ。

 また、入れ替えられた時間は、君にしか経験されなかった。他の人間には通常通りに時が流れた。君のメッセージは犯人のメッセージだと、邪推されることになる。なぜなら、これから起きる犯行を知っているのは、犯人だけなはずだからね」

 天羽はあごに手をあて、考え込むようにいった。

「でも、なぜ君だけの体験だったんだろう。共感物質があるのだから、他の人間にも効果が現れてもおかしくないはずだ。そもそも、文字の入れ替わりもみんなに影響していなかった」

 長考ののち、天羽は重い口を開いた。

「コミュニケーションの問題かもしれないな。君と他者との間には大きなへだたりがあった。共感が不十分だったために、君のセカイ観は他者に顕現しなかった。不十分な共感は、君だけが体験する時間というねじれた応えをあたえた。文字の入れ替わりも同様に、他者には現れなかった」

 天羽は首を横にふった。

「でも、勘ちがいしないでほしい。だれも君に共感できないわけじゃないんだ。そうでなければ、時間の入れ替わりは起きなかった。それに、君の書いたメッセージはみんなに危険を知らせる役目を果たしている。

 こういうこともできるな。君はメッセージによって世界を改変した。だから、この世界は君のセカイなんだ、って。みんなは君が変えた世界を生きている。これは共感よりも、すごいことなんじゃないかな」

 天羽はほほ笑んだ。時藤は心があたたまるのを感じたが、その感覚さえも分解され、意味は喪失した。


       3


「僕がなぜ君の体験を知っているのか、疑問に感じていると思う。だからそろそろ、僕の話をしようか。退屈かもしれないけれど、もうすこしだけ我慢してほしい」

 天羽はまっすぐに時藤を見つめる。

「僕は君と同じように、すこしだけ変わったセカイ観をもっているんだ。他者のセカイに共感するセカイ、とでもいったらいいのかな」

 自分のセカイ観を天羽は切々と語った。

 天羽は共感することによって、他者のセカイをまるで自分のことのように感じることができた。

 顔を合わせたとき、共感は強く作用した。どのような考え方をもっているのか、どのような過去を送ってきたのか――。天羽はその人間の人生をかいま見る。時藤の体験が語れたのも、そのセカイ観のおかげだった。

 他者のセカイに対応するセカイ――そのセカイは相互関係によって変化する複雑なものだ。

「生まれつきなんだ。読心能力だとかいって、政府の研究所に連れて行かれたよ。学校と研究所の往復。あのころはつらかったね。結局のところ、僕はすこし感じやすいっていうだけだと思うんだけど、大人たちはそうは思わなかった」

 研究は進められ、天羽の特殊な能力は解明された。

 人間には感情に関わる脳の領域がある。天羽の場合、この領域の活動が非常に強いことがわかった。他者に共感する能力が高いのは、そのためだろうと考えられた。

 また、研究を重ねる中で、興味深いデータがあがってきた。天羽にはホルモンの分泌に異常があった。あるホルモンが過剰に分泌していたのだ。ホルモンとは身体の中で生成される化学物質であり、特定の器官に作用する。

 研究者たちはこのホルモンが、天羽の脳活動に影響をあたえていると推測した。様々な実験を行い、その効果は証明された。

「僕のセカイ観は解き明かされた。この結果をもとに、研究者たちは新薬を作ったんだ。それは共感物質と名付けられた」

 天羽が過剰分泌していたホルモンを製剤化したのが、共感物質だった。研究者たちは共感物質を投与することで、天羽のように人の心が読める能力をもった人間をつくれると考えたが、うまくはいかなかった。

 共感物質では天羽ほどの力に達することはできなかったのだ。薬物は不完全だった。だが、共感能力が高まることは確認された。

 研究者たちは当初の目的とは別の、大規模な実験を計画することになる。

 天羽は他者のセカイを知ることができるが、相手は天羽のセカイを知ることはできない。だが、共感物質を複数の人間に投与すれば、人と人のセカイを結ぶことができる。その考えを押し進めて、セカイを現実化させることはできないだろうか。

 以前から報告されていた特異なセカイ観をもった生徒たちが、計画の対象になった。政府は霞ヶ原学園を設立し、実験は実行されることになる。

「すべての元凶は僕なんだよ」

 天羽は説明を終えると、そうつぶやいた。しかし、時藤の中で言葉は変換され、意味は喪失する。

「これから起きる惨劇は、僕のせいなんだ。しかも、僕は計画の全容を知っている。先生たちに共感して、彼らのセカイを知っているからだ。そう、僕にはやらなくちゃいけないことがある。僕は惨劇を止めなければいけない」

 天羽は天井をあおいだ。

「ここには監視カメラが仕掛けられている。今の僕らの会話は先生たちにつつぬけだ。つまり、先生たちは事件の結末を知ったことになる。『みんな死ぬ』ことを。それでも、実験は続けられる。なぜなら、君が時をさかのぼったことは実験の成功を意味するからだ。みんな死んでしまったら、実験を観測する人間も死んでしまうわけだけれど、おそらく監視カメラの映像は外部に送信されているんだろう。研究データも同様だろうね。先生たちは自らの命よりも実験を優先している。その熱意には共感するよ」

 視線を時藤にもどし、天羽は悲しそうな顔をする。

「だけど、僕はあんな結末を望んじゃいない。だって、あんまりじゃないか。共感は人の痛みを感じる能力だ。それなのに、なんであんな悲劇を招いてしまうんだ? セカイ観の特異な部分だけが共有されてしまった。共感物質が完璧じゃなかったことが主な原因なんだろうけれど、僕には納得できない。あれはまちがった結末なんだ」

 天羽の柔和な表情に決意の色がやどった。

「僕は事件を未然にふせごうと思っている。彼女はそんなに悪い人間じゃない。ただ、すこしだけ勘ちがいしているだけなんだ。運命が変われば、結末も変わるだろう。僕には彼女を止める義務がある」

 そうして、天羽はやわらかな笑みを浮かべる。

「長くなったね。僕ばかり話してごめんよ。君から僕に伝えたいことはあるかい?」

 時藤の中では様々な言葉がうずまいていた。言葉は濁流のように乱れ、藻屑となって消えてゆく。

「そうか。それじゃ僕は行くね」

 天羽は席を立った。時藤はしばらくの間、動かなかった。空調の音だけが響いている。時藤は汗でぬれた制服に不快感をおぼえた。シャワーを浴び、着替えをしなければならない。

 順番は入れ替わり、着替えをしたあとに、シャワーを浴びた。


       4


 天羽は逡巡していた。憎しみでいっぱいになった彼女の気持ちには共感できる。けれど、彼女にどう告げればいいのだろうか。どうすれば彼女を救えるのだろうか。

 時計は淡々と針を進める。仮に時が壊れているにしても。

 日にちは過ぎ去り、夏季休暇は終わりを告げた。

 八月二十九日。授業が再開される。

 出席をとるとき、心がしめつけられるようだった。みんな生きている。そのあたりまえの事実が、うれしくもあり、悲しくもあった。

 席が一番前でよかったと、天羽は思った。うしろだったら、みんなの姿が見えてしまう。そうすると、天羽はみんなの気持ちに共感せざるをえない。

 いつまでもぐずぐずしてはいられない。天羽は自らを鼓舞するが、勇気がわかなかった。決心がついたのは夕食を食べたあとだった。天羽は朽木に声をかけた。

 朽木には芯の強さがそなわっていた。どんな困難にも立ち向かう勇気をもっている。そういったタイプの人間なのだ。天羽とはちがって。

 天羽は朽木から勇気をわけてもらおうと、自らの不安を吐露した。

「ライ麦畑から落ちたら、人はどこに行くんだろう」


 朽木ははげましてはくれなかった。天羽は学園の屋上でひとり、暮れてゆく夕陽をながめた。紅い陽は涙でにじみ、空をいろどっていた。

 天羽は涙をぬぐった。不安を打ち明けることはできた。それだけでもかまわない。きっと勇気は人にわけてもらうものではないのだろう。

 そう自分にいい聞かせてみる。けれど、本当に運命は変えられるのだろうか。時藤にとってはこれから先の未来は、過去の出来事であり、すでに経験されている。それが世界のルールになっているなら、運命は固定され、変えることはできない。

 時藤実散――。その不可思議なセカイ観に思いを馳せていると、天羽はある違和感をおぼえた。階段を降りてゆくうちに、違和感は整理され、ひらめきに変化する。

 それは希望だった。悲惨な運命に対抗するための最後の光。

 時藤は一階の廊下をさまよっていた。声をかける。あいかわらず反応はない。

 天羽はズボンのポケットから本を出した。『The Catcher in the Rye』。『ライ麦畑でつかまえて』の英字版の文庫本だ。天羽はこの本をいつも持ち歩くようにしていた。天羽にとってのお守りだったのだ。

 天羽は時藤に『The Catcher in the Rye』を差し出した。

 そして、魔法の言葉をいった。

 時藤はうなずき、本をふところにしまいこみ、大事そうに抱えた。

 天羽は微笑した。自分のひらめきは合っていたらしい。時藤に自分の言葉が伝わったのだ。希望の光がともるのを、天羽は感じた。

「僕は今日、彼女のもとに行く。運命は変えられないかもしれない。それでも――」

 あとには言葉が続かなかった。去り際に天羽はいった。

「うまくキャッチできるといいけどね」


 天羽は校舎の外に出て、小石をひろうと、二階に向かった。教室から机を運びだし、廊下に設置する。天羽は机の上にのぼり、小石を使って天井に文字を刻んだ。落ちてゆく人間をつかまえるために。

 机を教室にもどすとき、星川が通りがかった。丸い目をさらに丸くする。

「なにしてるの?」

「大切な言葉はしっかりと刻み込まなければならないんだ」

 天羽は応える。葛葉のうけうりだった。

 机をもとの位置にもどすと、天羽は三階に上がった。

 そして、個室の前にやってくると、小さく深呼吸した。

 すぐ近くで嗤い声が聞こえた。白戸恵夢だった。廊下にたたずみ、天羽の様子をながめている。白戸のマスクに描かれている嗤いマークをまねて、天羽は口の端をつりあげてみせる。白戸はその表情を見て、ひときわ大きく嗤った。

 天羽は視線をもどすと、ドアを二回ノックした。

「七海さん、ちょっといいかな。話したいことがあるんだ」

 そして、天羽は失踪した。


       5


 八月三十一日。時藤は眠りにつけなかった。いいようのない不安が心を支配していた。記憶が入れ替わることによって、分解されてもなお、その感覚が残った。眠気はおとずれない。時計の秒針の音が妙に大きく聞こえる。

 時間だけではなく、時藤の心までも刻んでいるようだった。

 時計は午後十一時五十九分を指していた。あと一分で八月が終わる。

 秒針が12の数字にたどり着いたとき、時藤の意識は十二月にひきもどされた。

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