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【長編小説】失学園―スクール・ロスト― ②

十一月 葛葉言乃のセカイ


       1


 葛葉言乃はペンを持った。黒板の文字をノートに書き写そうと思ったのだ。現代文の授業だった。栗原という女性教員は白いチョークをつかって、ていねいに黒板に文字を連ねてゆく。落ち着きのある感じの中年女性だった。

 板書されたきれいな文字は、葛葉が見た瞬間に黒板からはがれた――まるでシールのように。はがれた文字は空中に飛び散ってゆく。

 文字は白い蝶だった。ひとつひとつの文字が方々に舞う。もう、もとの文章を読み取ることはできない。空間を満たす白い羽ばたき。葛葉はため息をつく。

 黒板の文章を理解することが、葛葉にはできない。

 ノートに目を落とす。真っ白なノート。

 そこに自分の名前を書いてみる。『葛葉言乃』。

 書いた瞬間に文字は羽ばたいてゆく。

 『葛』『葉』『言』『乃』の四文字は舞い上がり、天井に飛んでいってしまった。葛葉はその行方をぼんやりとながめた。

これが葛葉言乃のセカイだった。

 葛葉が見た瞬間に、あらゆる言葉は文字に解体され飛んでいってしまう。

 したがって、書いてある文字を読むことができない。

 この奇妙な現象は、二年前からはじまった。原因は不明だが、医師は失読症と飛蚊症が併発したために起きた幻覚だと推測した。

 失読症とは脳の障がいの一種で、言葉を読んで理解するのが困難になる病だ。飛蚊症とは眼球内の硝子体というゼリー状の組織が濁って、飛んでいる蚊のような影が見える状態をいう。

 医師はこのふたつの症状を組み合わせることにより、合理的な結論を出したのだ。

 しかし、その診断がまちがっていることを、葛葉だけは知っている。

 事実、文字は羽ばたいてゆくのだから。

 この症状に罹った当初は、ひどく苦労した。目の前の文字が生き物のように浮遊するさまは吐き気をもよおすほどだった。授業を受けることができなくなり、学校には行かなくなった。

 そして、自分の部屋にこもるようになった。けれど、部屋の中にいても自分のセカイから逃れることはできない。あらゆるものに文字は記述されている。それらすべてを無視するのは困難だ。

 部屋の中にはたくさんの文字が舞っている状態だった。それは街灯に群がる羽虫のように目障りな光景だった。

 最も恐ろしいのは本だった――特に文字がびっしり書いてあるものは。開いた瞬間にわっと文字たちが飛び出してくる。テレビも例外ではなかった。表示された文字を見たとたんに、画面からはがれて飛散する。葛葉にとってテレビは文字が湧く機械だった。

 ベッドに寝転び、部屋中を飛び回る文字たちを漫然とながめ、日々を過ごした。なににも集中できず、それぐらいしかすることがなかったのだ。やがて葛葉は自分の症状に慣れていった。自分のセカイを受け入れるようになったのだった。

 かかりつけの医師から、霞ヶ原学園への進学を薦められたのはそのときだった。特異なセカイ観をもった生徒たちが集まる閉鎖された学園。外部のストレスのない快適な空間で生活することにより、葛葉の症状もやわらぐかもしれない、という話だった。

 葛葉は快諾した。病気が治るかもしれない。それに、自分と同じような境遇の人間となら、学校生活を送れるだろう。

 そうして霞ヶ原学園に入学した葛葉だったが、自分の不気味なセカイ観をクラスメイトにさらけだすことはできなかった。頭がおかしいと思われ、嫌われるのがいやだったのだ。

 そこで、自分は失読症だということにした。だが、葛葉の考えは杞憂に過ぎなかった。

 学園には、自分以上に奇妙なセカイに住んでいる人間がたくさんいた。


       2


 休み時間になると、葛葉は横向きにいすに腰かける。後ろの席のと話をするためだ。

 逆井は外に出ないためか、心配になるぐらい肌が白かった。髪は長く、ウェーブがかかっている。セットしているわけではなく、天然らしい。いつもぼさぼさで、髪が長いのも切るのが面倒というだけらしい。全体的に病的な印象をあたえる少女だった。

 葛葉は明るい話題を持ち出そうとしたが、逆井が先に口を開いた。

「次に消えるのは私かしら」

 教室が一瞬、凍りついた。みんなの視線が痛い。

「消えるはずないよ。超常現象じゃないんだから」

「でも、すでに三人消えていますよね」

 失踪したのは天羽、佐冬、そして白戸恵夢だった。

「それはそうだけど」葛葉は小声でいった。「ちょっと声が大きいよ?」

 逆井は葛葉の忠告を無視した。

「未だに三人の行方はわからず、目撃証言も報告されていない。彼らはもうこの世に存在しないのですよ。『みんな死ぬ』――。死んで、しかも現実から消されてしまったのです。次が私ではないという保証はどこにもありません。葛葉さん、あなたも例外ではないのですよ」

 逆井の虚ろな瞳が、葛葉をのみこむように向けられる。葛葉は小さくうめくと、反撃に出た。

「逆井さんは犯罪性を前提にしてるから、そういえるんだよ」

「犯罪性はあるに決まっています。三人連続で失踪したのですよ。失踪は毎月、月の終わりの近くです。自発的に脱走しているとするなら、もうすこしむらがあるんじゃありませんか。これは何者かによって企図された犯罪なのです」

 淡々といってはならないことをいう。葛葉はむきになった。

「じゃあ、その何者かってだれなの?」

 ひとつため息をついたあと、逆井は告げた。

「犯人です」

 葛葉は身を乗り出すようにして問い詰める。

「じゃあ、その犯人ってだれなの?」

「この学園の中のだれかです」

 堂々巡りになりそうだったので、葛葉は矛先を変えた。

「その正体不明のだれかさんが、三人の人間を消したんだ。魔法でも使ったっていうの」

「三人の人間を殺害し、その死体をどこかに隠蔽したのです。方法まではわかりません。犯人は『みんな死ぬ』のアナグラムを黒板に示し、犯行予告を行い、宣言通りにすべての人間を消すつもりなのです」

「でも、おかしいよ。消えているから死んでいるかどうかはわからない。それなのに、犯人は『みんな死ぬ』というメッセージを残した。『みんな消える』ならわかるけど」

「それは……」逆井はいいよどんだ。「消えているけれど、実は死んでいることを示すためではないでしょうか」

「犯人は死体を隠して、人間を消す必要があったってわけだね。でも、なぜそうしなくちゃいけなかったんだろうね。死体の隠蔽は楽じゃないだろうし、犯罪をややこしくしてるように思えるけど」

「それは……」

 そこでチャイムが鳴った。高校生にふさわしいとは思えない、血なまぐさい会話は中断された。葛葉は後悔した。みんなの前でタブーとなっている話をしてしまった。すこし熱くなりすぎてしまったようだ。みんなといっても葛葉を入れて十人しかいないのだけれど。

 犯人か――。

 黒板から飛翔する文字をながめながら、葛葉は考えた。

 もし、逆井のいっていることが正しいとするなら。犯人はこの学園内に存在する。ということは生徒の中に犯人がいるかもしれない。

 すこし寒気がした。

 私たちの中に犯人がいたとしても、不思議じゃない。みんな独特のセカイを持っている。そのセカイ観は異常ともいえる。そういった人間がどのような行動をとるのか、予想するのは難しい。

 私も気をつけて生活したほうがいいのかもしれない。

 次に消える人間にならないために。


       3


 逆井遥とは入学以来からの付き合いだ。席が近いこともあり、すぐに仲良くなった――と葛葉は思っている。というのも、逆井のふるまいは幽霊のように虚ろで、葛葉に好意を寄せているとは感じられないのだ。

 それでも、話し相手ができて葛葉は安心した。この学園には孤独を愛するタイプが多いが、葛葉はそうではなかった。ひとりには耐えきれなった。ひきこもっていた時期を思い出すからだ。

 逆井と生活をともにしていくうちに、葛葉は逆井のセカイ観を知ることになった。

 気晴らしに外に行こうと、葛葉が誘ったときだった。逆井はかたくなに屋外に出ることを拒んだ。葛葉が理由をたずねると、逆井は答えた。

「空に落ちてしまいますから」

 放課後の教室にしじまが降りた。葛葉は口を開いた。

「空に落ちる?」

「ええ」逆井は窓の外をながめながら話した。「外には支えるものが、なにもないじゃありませんか」

「いや、地面があるでしょ」

 半笑いで、葛葉はいった。

「地面は天井にあるのです。そして、空は足下にあります。だから、空に落ちるのです」

「それじゃ逆だよ」

 葛葉はつっこんだつもりだったが、逆井はまじめに応えた。

「逆ですよ。それが私のセカイです」

 心臓をつかまれたような気分だった。目の前の少女もまた特異なセカイに住んでいる。その事実をあらためて認めさせられた。

「たとえば」逆井は教室を見まわした。「私は今、天井に立っていて、床は上にあります。私は上から机やいすが落ちてこないか、とても心配です。でも、床にぴったりとはりついているから、落ちてはこないようです。葛葉さんも、しっかりと足を床にはりつけ、ぶら下がって見えています」

 葛葉は飛んできた文字を手ではらいながら、すこし考えた。

「もしかして上下が逆に見えているの?」

 今、見えている光景が上下逆になっているとしたら、説明がつくと葛葉は考えた。そうすれば、天井と床が入れ替わる。床に置いてあるものは、上からぶらさがっているように見えるはずだ。

「上下が逆になっているというよりも、私にだけ重力が逆に作用しているのだと思います。みなさんとは逆方向に重力が働いているため、私は天井を歩き、みなさんは床を歩いているのです。みなさんは気軽に外に行くことができますが、私は逆方向の重力で空に落下してしまうので、外に行くことはできません。だから、私は天井のある屋内でしか生活できないのです」

 逆井は早口で語った。葛葉は彼女の説明を咀嚼しようと努めたあと、素朴な疑問を投じた。

「ずっと外に出られていないの?」

 逆井の白い肌に、思わず目がいってしまう。

「十歳のとき、ひどい高熱におそわれました。熱が下がって目覚めると、世界は逆さまになっていました。それ以来、外には出ていません」

「じゃあこの学園にはどうやってきたの?」

「車ですよ。天井があれば空に落ちる心配はありませんから」

 逆井遥には世界が上下逆転して見えている。それどころか、自分にはたらいている重力は逆だと信じている。それが逆井のセカイ観なのだ。

 原因は逆井も知らないらしい。だが、葛葉なりの予想をたてることはできる。

 そもそも人間の網膜には上下逆転の像が映っている。それを脳で変換して、正立した世界に見せているそうだ。

 きっと逆井は十歳のときの高熱で、脳に障害をきたしたのだ。その結果として、像を正立させる脳の機能が、失われてしまったのではないだろうか。だから、世界が逆転して認識されている。

 ここまでは葛葉にも理解できなくはないが、自分にだけ重力が逆に作用しているという主張にはうなずけなかった。

 逆の重力など、科学的にありえない。

 上下逆のセカイに長く住んでいるため、そのような考えにとらわれるようになったのだろうか。

 だとするなら、席について授業を受けることはできないはずだった。天井からぶら下がるいすに、どうやって腰かければよいのか。しかし、逆井はふつうにいすに座ることもできる。というより、日常生活をふつうにこなせている。

 もしかしたら、逆井は逆さまのセカイを自分なりに解釈し、折り合いをつけたのかもしれない。不可解なセカイで生きてゆくために。

 視界が上下逆転しているというのは、不自然で、なかなか認めにくい光景だ。撮影した映像を、上下反転させるのと同じで、機械的でもある。

 でも、重力が逆転していると考えれば、逆さまのセカイを自然に受け入れられるのではないだろうか――前提からして奇妙ではあるけれど。自分には重力が逆に働いているから、当然、世界は逆さまに見える。

 矛盾を抱えるにしても、逆井はそういった認識をとった。それが狂ったセカイで正常に生きてゆくための、唯一の方法だった。

 葛葉の憶測にすぎない。けれど、葛葉もまた似た境遇にあった。飛んでゆく文字を虫と同じようにとらえることで、このセカイと折れ合っているのだ。

 折り合いをつける――。

 この不可解なセカイと現実の世界を結ぶ、危うい接点だった。


       4


 教室は重苦しい空気につつまれていた。白戸が失踪してから、雰囲気が悪くなったようだった。犯人の存在を信じ、猜疑心に支配されているからかもしれない。すべての授業が終わると、みんな教室から出てゆく。

 星川がいきおいよく、葛葉の肩をたたいた。

「さあ、行くよっ。言乃ちゃん」

 放課後、いつも星川にからまれる。UFOを呼ぶ儀式に誘ってくるのだ。なんでも、ひとりだとエネルギーが足りないらしい。

「嫌だよ……。みんなに変な目で見られるもん」

「関係ないよ、そんなの。宇宙の大きさを考えてみなよ」

「なんなの、その尺度」

 葛葉は救いを求めて、逆井の席を振り返った。逆井はふいと顔をそらし、教室を去ってゆく。

「ちょっと冷たくない? 逆井さん」

 逆井の背中にそう声をかけたが、そのまま行ってしまった。

 星川は葛葉を無理矢理、椅子から立たせる。

「今日はきっとくるよ。しかも大きめのUFOが」

「大きさはどうでもいいよ」

 葛葉はからみついてくる星川の腕を振り払った。

「だいたい、星川さんはなんとも思わないの? 失踪事件について」

 そこで星川はきょとんとした。なにをいっているかわからないとでもいう風に。

「人が消えていってるんだよ。犯人がいるかもしれないとか、次は自分が消えちゃうんじゃないかとか、不安に思ったりしないの?」

 星川は笑顔でいった。

「しないよ。だって誰が人を消してるか知ってるもん」

 その自信たっぷりの発言に、葛葉は驚きを隠せなかった。すがりつくように星川にたずねる。

「星川さんは犯人を知ってるの?」

 ひとつ咳払いをすると、星川はいい放った。

「人を消してるのはね、宇宙人さんだよ」

 開いた口がふさがらなかった。現実にそういった状態になるということを、葛葉ははじめて知った。

「人間を連れて行って、実験をするんだよ。生態を知るためにね。だから、私はすっごくうらやましい。私も宇宙人さんにさらわれたいなぁ。言乃ちゃんもそう思うでしょ」

「思わないよ、すこしも」

 つきあいきれなかった。葛葉は退室しようとした。

「ちょっと待ってよ。UFOを呼んで、宇宙人さんに聞けば、みんなの行方がわかるんだよ」

「逆にうらやましいよ、星川さんが」

「言乃ちゃん、なんの逆なの?」

 くだらないいい合いをしていると、が教室にやってきた。黙って席につくと、引出しからノートを取り出し、筆記用具を並べはじめた。

 これから授業を受けようとでもいうのか。時藤は教科書を並べ、黒板に目を向けている。理解不能な行動。

 時藤はこの学園でも、もっとも重症だと考えられている生徒だった。

 行動の意味がわからない。授業の途中でどこかに行ってしまったり、逆に授業でないときに授業を受けようとしたりする。食事の時間もきちんと把握していないようで、食堂が終わったときにやってきて、食事にありつけないこともよくあるそうだ。

 そのうえ、コミュニケーションがまったくとれない。会話が成立しないのだ。こちらのいうことの意味がわからないらしい。時藤のほうから言葉を発することもない。葛葉は時藤が話しているのを一度も見たことがなかった。

 いつも心ここにあらずといった表情をしている。見た目はふつうの高校一年生の男の子といった感じだ――制服以外は。

 この学園は十月から衣替えをする。十一月になった今は冬服を着るのが当然だが、時藤は夏服を着ていた。寒くはないのだろうか。たしか、すこし前はちゃんと冬服を着ていたはずだが……。

 ある種の自閉症ではあるのだろう。だが、行動が特異すぎる。

 時藤のセカイ観は謎に包まれていた。

 知ることはできないし、仮に知っても理解することすら困難かもしれない。

 葛葉は小声で告げた。

「もしかしたら、時藤君が宇宙人なんじゃない?」

 星川はぱっと顔を輝かせた。

「そうかもしれない。きっと人間に擬態してるんだね」

 星川は時藤にかぶりつくように、言葉を浴びせはじめた。

 余計なことをいったかもしれないが、おかげで星川から解放された。

 葛葉は星川にばれないように、教室をあとにした。


       5


 逆井はいつもの場所にいた。学園の二階にある音楽室の前だ。廊下にすわりこみ、壁に背をあずけている。

 美しいピアノの音が、音楽室から聞こえてきていた。葛葉は音楽のことは詳しくないが、とても上手な演奏だと思った。流れるようなクラシック音楽。

 逆井はこの音楽を、毎日のように聞きに行く。

 感嘆のため息をついたあと、逆井はいった。

「素晴らしい音楽だと思いませんか。葛葉さん」

「うん……。天才だからね。譜久原君は」

 譜久原拓人は音楽の天才だった。あらゆるピアノコンクールで賞をとったらしい。しかし、その才能は一定の閾値を超えてしまった。だから彼は霞ヶ原学園に入学することになったのだろう。無量素子と似たパターンの生徒だった。

「かっこいいし、才能もある。やはり、譜久原さんは女性におモテになるのでしょうね」

「そうだろうね。私の好みじゃないけど」

 カールした長髪に、整った顔立ち。いつも気取っていて、葛葉は好きになれなかった。逆井の気持ちがわからない。逆井は譜久原のことが好きなのだ。

「それでも、私は彼に触れることさえできない」

 ピアノの音がすこし小さくなった。

「私たちは重力に引き裂かれてしまっているのだから」

 詩的な表現のようだけれど、それが逆井遥のセカイだった。

 逆井は天井で暮らし、譜久原は床で暮らしていると錯覚しているため、ふたりは重力に引き裂かれているのだ。

 でも、私のことは重力に引き裂かれた友人って考えてくれないんだね。

 葛葉は心の中でつぶやいた。

 しばらくの間、ピアノの音色に耳をかたむけていた。葛葉も廊下に腰を下ろし、逆井と並んで鑑賞した。リラックスした気分だったが、ぼんやりとながめていた窓の向こうに、異様な光景を目撃した。

 葛葉は声をあげ、窓に張りついた。

「UFO……?」

 空に小さな円盤状の影を発見したのだった。しかし、今はまっ青な空がひろがるばかりだ。目の錯覚だろうか。

 そのとき、背後で逆井の悲鳴があがった。

「虫! 虫が……!」

 逆井は虫が大の苦手だった。きっと小さな羽虫だろう。逆井は腕をぶんぶん振り回して、虫を撃退しようとしていた。

「大丈夫?」

 逆井は卒倒してしまった。かがみこみ、ほおを軽くたたいてみるが、反応はない。本当に気絶してしまったらしい。

 よくあることだった。逆井は虫嫌いで、羽虫が最も苦手だ。というのも、羽虫は重力を無視したように動くからだ。逆井のセカイ観の基本である重力を、かき乱されるような思いがして、気を失うほどの拒否感をおぼえるのだ。羽虫なんてそこら中にいるから、逆井はよく気絶した。

 逆井さんが私のセカイを知ったら、絶交されるだろうな。

 葛葉は保健の森崎を呼びに行こうとしたが、音楽室のドアが開いたため、足を止めた。

「なんの騒ぎだい?」

 譜久原は倒れている逆井をみとめると、葛葉に目をやった。その視線に応えるように、葛葉はいった。

「気絶しちゃったの。私が森崎先生を呼んでくるから」

 譜久原は前髪を払い、微笑をつくった。

「僕が運ぶよ」

 そういうと、譜久原は逆井を軽く抱き上げた。そのまま、階下の保健室へと廊下を進んでゆく。葛葉はそのあとを追った。

「ありがとう……」

 譜久原にもやさしいところがあるらしい。音楽にしか興味がないと思っていたけれど。

「葛葉さんと逆井さんのこと、僕はとても好きなんだ」

 唐突に譜久原はいった。どきっとした自分が恥ずかしい。

「良い音を奏でるからね」

 その言葉の意味がわからなかったが、保健室に入るところだったので、質問をはさむのはためらわれた。

 森崎はいなかった。なにかの用事で、席を外しているのだ。教員たちの居住スペースである四階に行っているのかもしれない。

 譜久原は保健室のベッドに逆井を寝かせた。逆井は目を覚ますそぶりをみせない。といっても、今目を覚ましたら、譜久原に介抱されているのを知って、また気絶してしまうかもしれない。

 譜久原は窓辺に腰かけた。葛葉もまた手近にあったスツールに腰かけた。逆井が起きるまで待とうと思っていた。

「この学園は最高だよ。すばらしい音で満ちている」

 譜久原はブレザーの内ポケットから指揮棒を取り出し、優雅に振りはじめた。四拍子だった。

「私にはなにも聞こえないけど……」

「僕には聞こえるのさ。いや、こう表現したほうがいいかな。この音は僕だけにしか聞こえない」

 譜久原は指揮棒を常に携帯し、ひまができるたびに振っていた。どうして演奏者がいないのに、指揮棒を振っているか疑問に思っていたが――。

「譜久原君にはいつも音楽が聞こえているんだね」

「そうだよ」譜久原はうなずいた。「君たちの音楽がね」

 指揮棒を動かし続けながら、譜久原は語る。

「僕には人間から、その個性にあった音楽が聞こえてくるんだ。たとえば、ある人からはフルートのような音が聞こえてくる。またある人からはヴァイオリンのような音が聞こえる。といった具合にね」

 容易には理解しがたい話だった。しかし、そういった人間がここにいてもおかしくはない。それが霞ヶ原学園なのだ。

「この学園の生徒たちは」譜久原は続けた。「既存のどの楽器とも異なる音を出すんだ。前衛的で難解で美しい音だ。中には雑音も混じっているけれどね。僕はこうやって、この学園に流れる音楽の指揮をとっているのさ。だけど、とても残念だ。この音が他の人に聞こえていないなんて……」

 人間から音楽が聞こえるセカイ――それが譜久原拓斗のセカイなのだ。

「子どものころから、音楽が聴こえるの?」と葛葉はたずねた。

「生まれたときからさ。最初は耳の病気だと思われていたね。しだいに、両親はこの能力を音楽の才能だと考えるようになった。いつも音楽を聴いていたから、当然、音楽の素養はあった。練習を重ねていくうちに、僕はピアノ奏者として一目置かれる存在になった。でも、ちがうんだ。僕の夢は人間という音楽の指揮者になることなんだよ」

 譜久原は指揮棒を動かす手を止めた。

「逆井さんはもうすぐ目覚めるよ」

「え?」

 指揮棒をふところにしまいながら、譜久原はいった。

「かすかだけど、音楽が聴こえてきたんだ。目覚めの予兆さ。というわけで、僕はそろそろ帰らせてもらうよ」

 保健室のドアが閉まった。それに合わせるように、逆井は目を覚ました。


       6


 どんなにたくさんの人間と出会っても、夜は孤独だ。

 携帯電話があれば、他者とコミュニケーションをとり、孤独をまぎらわせることができるだろう。しかし、そんなものはここにはない。

 遠方の人間ととれる唯一のコミュニケーション方法が手紙だ。葛葉は机の引き出しから両親からの手紙を取り出した。

 宛名は宙に飛散した。

 もし、この手紙を読むことができたなら、すこしはさびしい気持ちも癒されるだろう。だが、自分は文字を読むことができない。それが葛葉のセカイなのだ。

 両親は葛葉の症状を認めていなかった。自分の子供は正常だと信じきっていた。だからこそ、葛葉には読めないはずの手紙を送ってくるのだ。

 けれど、手紙の封を開けないのも、かわいそうな気がする。

 葛葉は意を決して、手紙を開いた。

 紙面からぶわっと大量の羽虫が飛んできた。

 葛葉は思わず顔をそむけた。

 部屋は文字でいっぱいになってしまった。おそらく、心配と励ましの言葉たちなのだろう――葛葉には意味をなさないが。

 あとには、まっさらな手紙だけが残った。

 窓を開け、空気中に漂う文字を外に出した。失礼かもしれないが、しかたがない。こんなに文字がいたら、眠ることすらできない。

 十一月の外気は冷たく、葛葉の身をふるわせた。手早く文字を追い払うと、窓を閉めた。エアコンの設定温度を上げ、部屋着をもう一枚はおる。

 両親に手紙を返さなくてはならない。葛葉は便箋を一枚、机に置いた。

 葛葉でも文章を書くことはできた。

 文章を見ないで書けばいい。葛葉は目をつむったまま、手紙をしたためた。手の感触で文章を書く位置を把握し、書き進める。見ないで書いているため、きっと下手な字になっているだろう。それでもしかたがない。

 葛葉にはもうひとつ文章を記述する方法がある。錐などを用いて、文字を刻みつける方法だ。

 刻みつけられた文字は、飛んでゆくことはない。紙の表面に落とされたインクとはちがい、はがれる心配がないからだ。文字が飛翔しないため、見ながら文章を書くことができる。このほうが、きれいな文字が書けるだろう。

 しかし、両親に文章を刻み込んだ板などを送ることはできなかった。両親は自分を正常だと思っているし、そうでないとしても、板が送られてきたら違和感を感じるだろう。

 葛葉は人が見ているところでは、文字を刻まないようにしていた。そして、本当に大切な言葉だけ、自室の机に刻み込んだ。

 学園の規則は、忘れないように机に書いておいた。そして、失踪事件のことも――。

 葛葉は目を閉じた状態で、手紙をたたんだ。封筒に入れ、宛名を書く。

 なぜこのようなセカイで生きているのだろう。他人とは違うセカイ。だれにも理解されないひとりぼっちのセカイ。

 でも、人はだれしも自分のセカイを持っているのかもしれない。同じ世界に生きているように思えるけれど、とらえかたはまちまちなのだ。

 ただ、葛葉のセカイ観は他者と大きくずれている。それによってできる距離感に、葛葉はたえられなかった。

 そんな物思いにふけっていると、思わずまばたきしてしまった。

 宛名は宙に飛んでゆき、意味を喪失した。


       7


 毎月、人間が失踪するという異常な環境でも、学園生活はのんきに続いてゆく。犯人がいるという証拠がないのだから、しかたがないのかもしれない。

 星川はあいかわらず葛葉にからんできた。数日間は時藤に夢中になっていたが、どうやら宇宙人でないことがわかったらしい。センサーが反応しないそうだ。センサーというのは、いつもつけているまっ赤なカチューシャのことだという。

 なんでもそのカチューシャは、ふつうのカチューシャではないらしい。今の人類より遥かに高度な文明がつくった機械で、異種族とのコミュニケーションを可能にする、オーパーツだそうだ。よくはわからないけれど。

 そして、逆井はあいかわらず譜久原に恋こがれている。冷たい態度の逆井とつきあうのは気が進まなかったけれど、ひとりはもっと嫌なので、しかたなく時間をともにした。

 そんな私にも気になる人はいる。

 その人も不可解なセカイを抱えて生きているのだ。

 なんでも鼠の幻覚が見えるらしい。


 朽木梓はたぶん人があまり好きではないのだと思う。つきあう人間は佐冬ぐらいで、ほかの人とは話すらしなかった。

 だから、葛葉もあまり会話をしたことがない。それでも気になるのはなぜだろうか。

 大人びた雰囲気。暗い瞳。煙草のにおい――。

 朽木はどこか所在無げだった。この環境になじめていないのだろう。そういった不器用なところが、自分と似ているからそう感じるのかもしれない。だけど、本当のところはわからない。人が人を好きになる理由は不明なのだ。

 佐冬がいなくなり、朽木はうちのめされたようだった。葛葉は心配になり、声をかけたが、つっぱねられてしまった。あのとき、もうすこし力になれたらよかったのかもしれない。

 というのも、朽木は亜桜亜美と行動をともにするようになったのだ。仲がよくなった理由を葛葉は知らない。

 ただ、亜桜に嫉妬心を感じた。

 嫉妬心――嫌な言葉だ。

 佐冬の失踪に関係しているのだろうか。朽木は最近、瞳に異様な光をやどしていた。殺気だち、いらいらしている。

 その理由がわかったのは昼食後のことだった。


 朽木はの机を蹴り飛ばした。

「今日で終わりにしようぜ」

 静かにそう告げ、座ったままの姿勢で固まる猪爪を見下ろした。かたわらには亜桜が立っていた。

 教室がしんと静かになる。

 昼食を終え、教室にもどってきた生徒たちは、おそるおそる様子をうかがった。

 教室には逆井、亜桜、無量、そしてもいた。

 猪爪はその巨体に似合わず、恐怖のせいで身体をふるわせていた。かすれた声で猪爪はいった。

「おれ、ちがう」

「じゃあ、なんであんな嘘をついたんだ」

「嘘、なんかじゃ、ない」

 猪爪はかたことで話す。彼は人間でないからしかたなかった。正確にいえば、人間でないと思い込んでいる。

 自分は獣だと猪爪は思っていた。

 呪いをかけられ、人間から獣の姿になってしまった。人間とは似ても似つかない毛むくじゃらの怪物。のどは獣のものであるため、人語を流暢に話すことができない。

 猪爪は自分の醜い姿が人目に触れるのが恥ずかしいため、なるべく目立たないように過ごしていた。

 しかし、それは思い込みにすぎない。獣のように硬くクセのある髪をして、がたいもよかったが、だからといって獣に見えるはずがない。一般的な高校生の姿をしていた――あたりまえの話だが。

 猪爪には自分の姿が本当に獣に見えるらしい。

 それが猪爪武のセカイだった。

 朽木は猪爪の机をもう一度蹴った。猪爪はあきらかにおびえている。自分が獣だと思い込んでいるが、心はとてもやさしいのだ。

「犯人は白戸恵夢だといったな」朽木はあくまで冷静に語る。「だが、白戸は失踪した。つまり、白戸は犯人ではなかったということだ」

 白戸恵夢が犯人?

 葛葉には話がのみこめなかった。

「ちがう。おれ、佐冬がいなくなったとき、佐冬の部屋に、白戸が入ったのを見た、といっただけ」

「佐冬が失踪したと思われる時間帯に、おまえは白戸を目撃した。白戸は佐冬の部屋をたずね、そのあとのことは知らないそうだな。しかし、それは犯人が白戸であると誤認させるための嘘だった。そんな嘘をつく理由はひとつしかない――犯人はおまえだからだ」

「ちがう!」

 猪爪はうなるように、声をあげた。朽木は猪爪が犯人だと考えているらしい。

「しかも、おまえには白戸が失踪した時間帯のアリバイが存在しない。さらにいえば、アリバイが存在しないのはおまえだけなんだよ、猪爪。だから、犯人はおまえ以外にありえないんだ」

「どうして、そんなことが、いえる?」

「それは――」

 すかさず、ふたりの間に亜桜が入った。

「人間を傷つけることは看過できません」

 にらみあう三人。猪爪はたどたどしく反論した。

「おれ、犯人だったら、白戸を消す理由ない。白戸を犯人だと思わせた、意味ないから」

「どうしても白戸を消す理由ができたのさ。犯人以外知るよしもないがな」

「もう、うんざりだよ」

 七海美衣菜は苦々しげにつぶやき、席を立った。机に立てかけてある杖を手にし、教室を立ち去ろうとする。

 ツインテールが愛らしい、かわいい女の子だ。仰々しい木製の杖をいつも持っている。本格的な魔法の杖で、長さは一メートルほどもある。

 その杖を使えば、本当に魔法が使えるそうだ。

 七海は自分が魔法使いだと思い込んでいる。

 それが七海美衣菜のセカイだった。

「七海、待って、くれ」

 猪爪は七海のあとを追おうとしたが、「おまえは座ってろ」と朽木が低い声でいったため、しかたなく席についた。

 七海が好きだから、同じ場所にいたいのだ。

 朽木と猪爪はまた、いい争いをはじめた。

 そのとき無量が、がたっと席を立った。我慢できなくなったのだろう。学園中に響き渡るような大声で叫んだ。

「私の研究の邪魔をするなら、この学園から出て行きたまえ!」

 無量は昼休みの間に、なんらかの研究にいそしんでいたらしい。

 朽木はしぶしぶ自分の席にもどった。猪爪は頭をかきむしったあとに、机に突っ伏した。

 とりあえずケンカはおさまったようだ。

 数分後、昼食を終えた他の生徒たちがぞくぞくともどってきた。もうすぐ午後の授業がはじまる。

 葛葉は七海が帰ってこないことに気づいた。七海は傷つきやすい性格だから、さきほどの争いが、かなりのショックだったにちがいない。

 私が七海をなぐさめよう。

 葛葉は教室を出て行った。かつて友人だった七海のもとに向かうために、


       8


 七海美衣菜とは入学当初、仲がよかった。逆井とも話していたが、むしろあのころは七海といっしょにいたほうが多かった。

 七海は最初、クラスの人間に積極的に話しかけていた。きっと友達がほしかったんだと思う。友人になったのは結局、葛葉と猪爪だけだった。

「私が魔法使いだっていうと、みんな話してくれなくなっちゃうんだ」

 六月のある日、七海はさびしそうに語った。

 放課後の教室には、降りしきる雨の音が流れていた。

「なんでだろうね。七海さんは本当の魔法使いなのにね」

 葛葉は話を合わせた。少ない友人を失うわけにはいかない。

「そうだよ。色んな呪文が使えるんだよ。炎の呪文に、風の呪文でしょ。あと雷の呪文は勉強中なんだ」

「そっか。雷の呪文は難しいもんね」

 七海は大きな木の杖を持ち上げて、

「葛葉さんにも、私の魔法を見せてあげるよ」といった。

 それまでに何回も、七海の魔法を見せられていた。決して見えはしなかったが。

「じゃあ炎の呪文をやるよ。火力はおさえて、小さな火が出てくるだけだから、よーく見ててね」

 七海は呪文らしき言葉を、ぶつぶつとつぶやきはじめた。そして、杖を振った。葛葉は杖の先端をよく観察していた。やはり、なにも見えなかった。

「やっぱりすごいね。七海さんは」

 葛葉は小さく拍手した。

「ちがうよ」

 冷たい声で七海はいった。

「実は今、魔法を使ったふりをしたんだ。だから本当はなにも起きてない」

「いや、でも……」

 葛葉はうろたえたが、同時に理不尽だと思った。魔法を使っているか、そうでないかなんて、葛葉にはわからないからだ。

 七海は強い口調でいった。

「なにも起きてないって」

 表情は笑顔だったが、目は笑っていない。

「葛葉さんも同じなんだね」

 雨は降り続けていた。

 それから、ふたりの仲は急速に冷えていったのだった。


 階段の踊り場に七海はいた。杖を抱きかかえるようにして、うずくまっている。声をかけるのも、はばかられるような雰囲気だった。

 近づくと、「なに?」と敵意のこもった視線を向けてきた。

 おずおずと切り出す。

「突然出て行ったから、心配になってさ――」

「嘘だよ」

 あの一件以来、葛葉は信頼されていない。それでも、今の気持ちに嘘はなかった。

「ほ、本当だよ」

 すこしどもってしまった。

 七海は耳を貸さなかった。ただ一言だけつぶやいた。

「みんな私をバカにするんだ……」

 授業開始のチャイムがむなしく鳴り響く。

「もどろうよ。みんな待ってるしさ。猪爪君だって――」

「あいつはどうでもいいよ」

 七海は吐き捨てるようにいった。

「でも、友達でしょ?」

「あいつは友達なんかじゃないよ。私につきまとってるだけ」

 葛葉は無理に笑顔をつくった。

「猪爪君は七海さんのことが好きなんだよ」

 七海は力なく首を横にふった。

「あいつは私を利用したいだけなんだ。私の魔法で、自分が獣から人間にもどれると思ってるんだよ」

「それ、猪爪君がいってたの?」

「そうだよ。にやにや笑いながらさ」

 だれかが走ってくる足音が聞こえてきた。たぶん先生が探しにきたのだろう。

 七海は杖をついて、重い腰をあげた。

「どうして、みんなあんなこというんだろう」

 小さな声で、七海はそうつぶやいた。


       9


「猪爪君が本当に犯人だと思う?」

 音楽室の前で譜久原の演奏を聴き、個室に帰る途中だった。逆井はあぶなげな足取りで、階段をのぼっていた。上下逆転しているから、階段が視界の上方に映るため、足元がおぼつかないのだ。

「そうかもしれません。しかし、猪爪君が嘘の証言をしたというだけでは、根拠にはなりえないでしょう」

「じゃあ、なんで嘘をついたんだろう」

「犯人をかばうためではないでしょうか」

「猪爪君がかばう相手って……」

「七海さんしか考えられませんね」

 葛葉は足を止めた。三階にあがった直後だった。

「そんなわけないよ。人を消すことなんて、七海さんにできるはずがないよ」

「物理的にということですか。たしかに、華奢な彼女には殺人のあと、死体をどこかに移動させることは難しいかもしれません。でも、絶対に不可能ともいいきれません」

「そうかもしれないけど……。時間はかかると思うし、だれかに見られちゃうんじゃないかな」

「猪爪君が目撃者だったのではないでしょうか。だから嘘の証言をして、疑いの目を白戸さんに向けさせた。白戸さんを選んだのは、みんなに嫌われているから、犯人として都合がよかったためでしょう」

 逆井は淡々と語る。論理的な思考のように思えるけれど、やっぱり納得できない点があった。

 人間を完全に消すためには、その人を殺し、死体を隠す必要がある。しかし、それはかなり困難な行為だ。この学園は閉鎖されているから、外に死体を運ぶことはできない。隠すとしたら学園内になるが、どこにそんな場所があるというのか。しかも、消えた人間は三人もいる。

 疑問点を口にすると、逆井はこともなげに答えた。

「方法は私にもわかりません。しかし、どこかに秘密の部屋があるとしたら、話は別です」

「秘密の部屋?」葛葉は思わず聞き返した。

「ええ。パンフレットに書いてありましたが、この学園は元々あった建物を改築したものだそうですよ。改築の際にスペースが余り、人に知られていない部屋ができても、不思議はないんじゃないでしょうか」

 初耳だった。葛葉はパンフレットを読めないから、しかたがなかった。古い建物だと思ってはいたけれど。

「その考えは非現実的じゃないかな」

 そういうと、逆井は眉根を寄せた。虚ろな表情がすこし乱れた。

「そうなのです。可能性は否定できないけれど、その可能性はとても低い。もしかして、生徒が犯人ではないのかもしれませんね」

 くるくると髪をいじりながら、逆井は前言撤回するようなことをいった。

「じゃあ、犯人は……、教職員の中のだれかってこと?」

「そうなります。それでしたら、死体を隠す場所も説明がつきます。教職員の居住スペースである四階に隠せばいいのです。あそこは生徒の立ち入りが禁止されていますから。あとは物資を輸送するトラックに、ゴミなどと紛らわせて死体を運んでもらえば、死体消失の完了です」

 葛葉は思わずたずねた。

「それ本気でいってるの?」

「ええ。このタイミングで冗談をいうと思いますか?」

 視線を交わしても、心は通じ合っていない気がした。どうしてこうも残酷な発想ができるのか。重力がちがうから、別の世界の出来事だとでも思っているのだろうか。

「逆井さんは犯人がいると決めこんでるんだよね」

「そうですよ」と逆井はうなずく。

「逃げようとか、考えないの?」

 逆井は首を横に振った。乱れた髪が顔にかかっても、気にするそぶりも見せない。

「逃げるわけがないじゃありませんか。譜久原君がいるのですから」

「そ、そうだよね……」

 葛葉は苦笑を隠せなかった。


       10


 逆井は自室に帰っていった。葛葉も部屋にもどろうとしたが、階段からふたりの人間が降りてきた。

 朽木と亜桜だった。肩を並べて降りてくる。

 朽木は屋上で煙草を吸う。それに、亜桜がつきあったのだろう。

 やっぱり、ふたりは――。

 朽木はうつむき加減に歩いていて、こちらに気づいているかどうかさえわからない。まるで床を探っているようだ。なにか落ちているわけでもないのに。

 ながめていると、亜桜と目が合ってしまった。あわてて視線をそらしたが、亜桜は声をかけてきた。

「なにかお困りごとですか?」

「そ、そういうわけじゃないんだけど……」

 なぜこんなにあせらなくちゃいけないんだろう。

 朽木はそこではじめて顔を上げると、葛葉をちらとうかがった。だが、すぐに歩み去ってしまった。考え事に夢中になっているという感じだった。その姿は自室に消えた。

 亜桜とふたりきり。

 亜桜はすっと気をつけの姿勢をしている。葛葉の次の言葉を待っているのだ。ロボットのように、忠実に。

「亜桜さんってさ――」

「はい。なんでしょうか」

 ずっとのどにつかえていた言葉が、思わず出てしまった。

「朽木君とどういう関係なのかな」

 亜桜は無表情で答えた。

「人間とロボットの関係です」

「いや、そういうことじゃなくてさ」

 葛葉はどうやって婉曲的に聞こうか考えたが、結局、いい表現は出てこなかった。

「恋愛関係……ってことだよ」

 不器用にそうたずねた。

「恋愛とは互いに相手を恋することです。私はロボットであるため、人間の感情を持ちあわせておりません。したがって、私は梓さんに恋していません。その時点で、恋愛関係は成立しません」

「つ、つきあってないの?」

 前のめりになって、葛葉は聞いた。

「『つきあう』の定義が、恋愛関係になるということを示しているのなら、つきあっておりません。葛葉さんはその点でお悩みになっていたのでしょうか」

「そうなんだけど、でも、つきあってないんだよね」

「先ほどいったとおりです」

「よかった。いや、よかったじゃないよね。失礼だよね」

「どうかお気になさらずに。私は人間に奉仕するロボットにすぎませんから」

 亜桜はきれいなお辞儀をして、部屋にもどっていった。

 葛葉はひさしぶりに上機嫌になった。

 亜桜さんはロボットだもん。そうだよ。つきあってるわけないよ。

 しかし、葛葉には気がかりな点があった。

 亜桜さん、朽木君のこと、『梓さん』って呼んでたな。下の名前で呼ばれるのは、あまり好きじゃないのに。

 いや、細かいことを気にするのはよそう。とにかく、私にはチャンスがあるということだ。

 葛葉は胸をなでおろした。


 その夜、葛葉は自室のベッドに腰かけ、窓に目を向けていた。きれいな星空だった。

 こうやって安心して部屋で過ごせるのは、ドアにきちんと鍵をかけているからだ。生徒にはそれぞれ自分の部屋の鍵が渡されている。施錠を忘れなければ、他人に入られる心配はない。

 今は十一月なかばだけれど、すぐに月末はやってくる。法則通りにいけば、また人がひとり消える。次がだれかはわからない。私かも知れない。

 もしそうなったとしたら、私は朽木梓に自分の気持ちを伝えられない。

 朽木が消えてしまう可能性もある。

 事件にかなり首をつっこんでしまっている。犯人ならまっさきにねらいそうなものだ。

 けれど、朽木だけは消えないだろうと、葛葉は思っていた。朽木には強さがある。別に肉体的なものじゃない。その暗い瞳にやどる光に、彼独自の強さを感じるのだ。

 それでも、未来はどうなるかわからない。

 私は私の気持ちを伝えなければならない。亜桜と朽木がつきあっていないことは、もう確認できている。

 だけど、どうやって伝えればいいのだろうか。

 直接いうのが一番はやいけれど、そんな大胆なこと、私にはできそうにない。

 こんなとき、携帯電話があれば便利だ。一通のメールで、自分の言葉を送れる。

 けれど、ここには携帯電話はない。それに、葛葉にメールを打つことは困難だ。文字を打つためのボタンに書いてある文字が、飛散してしまうのだから。

 悩んだ末に、葛葉は両親に書いた手紙を思い出した。手紙を書いて、渡せばいいのだ。ラブレター。古典的な方法。

それも、悪くないかもしれない。

 でも、ラブレターというのは、どういうふうに書けばいいのだろうか。葛葉にはそんなものを書いた経験はなかった。たぶん、書くのはかなり難しいだろう。葛葉のようなセカイに住んでいるのなら、なおさらだ。

 机につき、ためしにすこし書いてみる。

 『梓』という一文字が、紙面から浮かびあがり、そして宙に舞ってゆく。


       11


 部屋は羽虫で満たされていた。

 羽音が鳴らない虫なのが幸いだった。葛葉は机にかじりつくようにして、手紙を書いていた。もちろん、目は閉じたままだ。

 書きはじめて、一週間近くたつ。葛葉はいまだに、手紙を完成できていなかった。何度も何度も書き直していたのだ。

 葛葉ははじめて、自分のセカイが便利だと思った。書き直したいときに、目を開き、手紙を見る。すると、書いてあった文字は飛んでいって、まっさらな便箋だけが残る。そこにまた、新しく書いていけばいいのだ。つまり、便箋を浪費する必要がない。

 おかげで、部屋中に文字が飛び散ってしまっている。

 葛葉は気にせず、手紙をしたためた。

 一週間で、だいたい内容はかたまってきている。しかし、見ないで書いているため、きれいな字が書けているかどうか、不安だった。

 葛葉は目を開いた。文字はばらばらになり、飛び立ってゆく。

 白い手紙だけが、机上に残った。

 次で最後にしよう。

 葛葉は目をつむり、ペンをとった。額がつくほどに、手紙に接近し、集中して書いた。

 ようやく、葛葉は手紙を書き終えた。はじめて書いたラブレター。たった一枚の便箋に、一週間もの時間を費やしてしまった。しかし、葛葉は満足だった。自分の想いをちゃんと文章で表現できたと思ったからだ。紙面を確認することはできないけれど。

 葛葉は目をつむったまま、手紙をたたみ、封筒に入れた。

 目を開けてみる。自分の想いがつまった手紙。

 文字が飛び出してしまわないように、葛葉はしっかりと封をした。宛名は書かないでおいた。自分で直接渡そうと考えていたからだ。

 きちんと届けて、受け取ったことを確認したかった。

 問題はいつ、どのように渡すかだ。

 そんなことを考えているうちに、時間はすぎていってしまう。


 一日中、ばれないように朽木のあとを追った。手紙を渡すタイミングを見つけるためだった。その行為はストーカーに似ていた。

 問題はいつも朽木のそばに亜桜がいたことだった。別に亜桜がいるときでも問題はないのだが、気まずい想いがあったので、朽木がひとりきりになる時間を探していた。

 その時間は夕食後だった。ふたりは別行動をはじめるのだ。

 朽木と亜桜は夕食後、生徒の個室の見張りを行う。月の終わりが近づいているため、警戒しているのだ。個室の扉を監視し、不審な行動をする生徒がいないかチェックしている。夕食後、ほとんどの生徒は個室にもどるので、だいたいの動きは把握できるようだ。

 先月も行っていたようだが、あえなく白戸は失踪した。それでも、犯人を求めてふたりは努力している。

 消灯時間は十時であるため、それまで見張りを続けているようだった。朽木は男子の個室を、亜桜は女子の個室を見張っている。もっとも、朽木は猪爪のみに的をしぼっていた。壁に寄りかかり、猪爪の部屋のドアをにらみつけているのをよく見かけた。

 亜桜は微動だにせず、直立して見張りを続けた。その姿はまさにロボットで、見張り役にはうってつけのように思えた。

 この見張りの時間に、朽木はひとりきりになる。建物の構造上、朽木と亜桜の立ち位置は互いに死角になるのだ。

 しかし、そんなときに話しかけていいものだろうか。だいたい、朽木はそのとき、殺気立った空気をだしている。手紙を受けとってくれるかどうかすら、あやしい気がする。可能なら別の時間のほうがいいだろう。

 そう考えて、ストーカーまがいの行為を続けていた。

 ある日の放課後、葛葉の肩に手が置かれた。

「話があるから、屋上まで来てくれないか」

 朽木梓だった。


       12


 屋上からのながめは美しかった。木々は紅葉し、山林を色とりどりに染め上げている。

寒風が吹き、葛葉は身震いした。朽木はポケットに手をつっこみ、遠くを見つめていた。亜桜はここにはいない。屋内に通じるドアの向こうで、待っているのだ。朽木の配慮だった。

「煙草、吸ってもいいかな」

「別にいいよ」

 朽木は煙草に火をつけた。そして、深呼吸するように息を吐いた。煙は宙に広がり、やがて消えてゆく。

「いや、なんでつけてるのかなって思ってさ」

 その声は穏やかで、怒っている様子はなかった。けれど、やはりばれていたらしい。ずっとつけまわしていたのだから、当然だった。

「悪気があったわけじゃないんだけど……」

 小さな声で葛葉は答えた。

「ちがうよ。俺はそういうつもりで聞いたんじゃない」

 朽木は煙草の灰を落とした。灰は風で飛んでいってしまったが、朽木は灰があった場所を凝視している。

「なにか聞きたいことがあるのかと思ってさ。葛葉も気になるんだろ」朽木は低い声でいった。「犯人はだれなのか」

 朽木は勘違いをしていた。だが、葛葉は本当の理由をいえなかった。

「やっぱり、猪爪君なのかな」

 苦し紛れに応答する。

「そうじゃないかと俺は思っている。だけど、いろんな矛盾点がある。おかしなことが起きてるんだ。俺たちの理解の範疇を超えた、おかしなことが」

 朽木は依然、地面を見つめている。そこになにかがいるかのように。

「それを亜桜さんと調べてるんだね」

「ああ。前は佐冬とやったんだけどな」

 ピアノの音がわずかに聞こえた。譜久原が演奏しているのだ。逆井は音楽室の外で、耳をすましているにちがいない。

「あいつは消えちまった。天羽も白戸も……」

「また、だれかいなくなっちゃうのかな」

「そうならないように行動している。だけど、事件は俺たちの手の届かない範囲で、進行しているような気がする。だから、手掛かりがつかめないんだと思う」

「それでも、朽木君はあきらめないんだね」

「許せないんだ。こんなことをやったやつが」

 静かな語りには、たしかな意思が感じられた。朽木は円柱型の携帯灰皿のふたを開き、煙草を捨てた。もう一本の煙草を取り出したところで、手をとめる。

「なにか聞きたいことがあるんじゃないのか」

 そこではじめて目が合った。思わず目をそらす。心臓が高鳴るのがわかった。

 手紙はブレザーのポケットに入っている。いつでも渡せるように。

「大丈夫だよ。安心したからさ。朽木君ががんばっているのを聞いて」

 早口でそういった。けれど、本当に伝えたいことじゃない。

「そうか……」

 朽木はつぶやき、二本目の煙草を吸いはじめた。

 ふたりは口をつむぎ、ただ時間だけが流れた。葛葉は切りださなければならなかった。でも、その勇気がなかった。

 煙草の長さが短くなってゆく。これを吸い終えたら、朽木は行ってしまうにちがいない。

 ただ一言いって、手紙を渡すだけだ。それだけなのだ。

 吸い終わるぐらいに、葛葉は口を切った。

「あのさ」

 朽木は顔をあげた。

「渡したいものがあるんだ」

 慌てて、ポケットから手紙を取り出す。すこし折り目がついてしまっているけれど、しかたがない。

「私の気持ちがつまってるから」

 手紙を差し出した。朽木は煙草をくわえたまま、きょとんとしたが、小さくうなずき、手紙を受け取った。

 不思議そうに手紙をながめている朽木に向かって、葛葉はいった。

「じゃあ、逆井さんが待ってるから、私は帰るね」

 そのまま走り去った。

 恥ずかしさと達成感が入り混じった気持ちを振り切るように。

 ドアの先には亜桜がいた。階段を降りていったが、後ろ髪を引かれる思いで、踊り場で足を止めた。

 亜桜は気をつけの姿勢のまま、空中の一点を見つめている。

「亜桜さん、ごめんね」

 思わず、そう口にした。

 そして、階段を駆け下りてゆく。


       13


 私の告白は、どのように朽木に伝わったのだろうか。

 期待を抱きながら、日々を過ごした。

 しかし、いっこうに返事はこず、期待は不安に変わっていった。

 あの手紙は読める字で書いてあったのか。そもそも、朽木はちゃんと手紙に目を通してくれたのだろうか。

 ふたりが会話をする機会はなかった。

 自分から聞くのもおかしいので、待つことしかできない。

 十一月が終わりに近づいてゆく。

 そして、事件は起こった。まるで、起こるのがあたりまえかのように。

 十一月二十七日、無量素子が失踪した。

 失踪当日、朽木と亜桜は見張りをしていた。消灯時間の五分前になっても、無量が自室に帰ってこないことに、亜桜が気づいた。教員に報告されると、例によって学園中の大捜索がはじまった。そして、無量の失踪が発覚した。

 個室が監視された状況で、生徒が失踪した。事件の詳細を朽木や亜桜にたずねたかったけれど、葛葉には声をかけることすらできなかった。

 そうして、十一月は終わる。

 結局、朽木から返事がくることはなかった。

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