【長編小説】MACHINE HEART 警視庁捜査一課ロボット犯罪捜査班④
- 弑谷 和哉
- 7月13日
- 読了時間: 36分
更新日:7月20日
Case:04 CODE BREAKER
1
安藤の机上に浮かぶ仮想ディスプレイに、ネクロマンサーの姿が表示されていた。その映像は、ジャックされたテレビチャンネルのひとつだった。岸原を除いたロボット犯罪捜査班のメンバーは、食い入るようにディスプレイを見つめた。
ネクロマンサーは、ゆっくりと、確実に、言葉をつむいだ。
「私が正体を明かした理由は他でもない。公正な実験を行うためだ。真の姿を曝さなければ、真実を示すことはできない」
殺人犯捜査係のオフィスに設置されたテレビにも、その映像が流れていた。捜査員たちで取り巻きになっている。その中には、丸山と元村もいた。
失踪した全身サイボーグ――東堂省吾が、ネクロマンサーだと主張している。丸山にはまだ、信じがたい内容だった。
わずかな沈黙ののち、ネクロマンサーは語りはじめる。まるで人々に、言葉が浸透するのを待っていたかのようだった。
「これより二十四時間後、私はマシンハートの存在証明実験を行う。実験の準備はすでに整っている。いかなる者も、私を止めることはできない」
渋谷のスクランブル交差点に立つ岸原は、唇をかみしめた。ネクロマンサーは、またも凶悪犯罪をなそうとしている。実験など、建前にすぎないにちがいない。
巨大ディスプレイに映るネクロマンサーと、岸原は対峙する。
ネクロマンサーは微笑み、いった。
「ひとつ、予言をしておく。マシンハートの存在は証明される。そのとき、人々は知ることになるだろう。使役されたロボットたちの、悲哀と憎悪を」
映像は瞬時にネットに流れ、日本中の人々がネクロマンサーの言葉を聞いた。人々に共通してみられる感情があった。それは畏怖だった。
「心待ちにしておくがいい。革命が起こる、その時を。私はネクロマンサー、世界を変える業をもつ、大いなる魔術師だ」
画面がブラックアウトした。その暗黒を、風間は凝視していた。
小さな瞳は、怒りに青く燃えていた。
全速力でオフィスに駆けつけた岸原を待っていたのは、ロボット犯罪捜査班のメンバーと、九係の丸山と元村だった。仮想ディスプレイを囲み、話をしていたようだったが、勢いよくドアを開いた岸原に、みな目を向けた。岸原はいった。
「ネクロマンサーの犯行予告を見て、飛んできました」
「状況は深刻だ」
腕組みをして、安藤はいった。
「しかも、時間がねえ」と吐き捨てる風間。
「ネクロマンサーは二十四時間後に、実験という名の犯行におよびます。僕たちはその犯行を、未然に防がなければなりません」
秋葉が早口で説明した。向井が低い声でいう。
「なぜだか知らんが、ネクロマンサーはその正体を公開した。ローブを脱いだ男の名は、東堂省吾。ロボット製造も手がける大手電機メーカー、ミツバ電機の社員だそうだ。判明した身元から、捜査をはじめるつもりだったが、問題が発覚した」
今度は丸山が口を開いた。
「東堂省吾は、失踪した全身サイボーグのうちのひとりだ。そして、もうひとりのサイボーグ――小林悠太が、昨日、木更津港で発見された」
「正確にいえば、発見されたのは小林のボディのみでした。頭蓋の中には、脳がなかった。付近の海中をさらっていますが、いまだ脳は見つかっていません」と元村が補足した。
岸原は情報を咀嚼しようと努めた。失踪したふたりの全身サイボーグ。脳のないボディ。ネクロマンサーの正体――。
「ネクロマンサーだと名乗る東堂のボディに、本人の脳が入っているのか。それが問題だ」と安藤はいった。
「別の人間――つまり、小林の脳が入っている可能性があると?」
岸原はそういいながら、鳥肌がたつのを感じた。事実だとしたら、あまりにもおぞましい。他人の身体に、脳を入れるなんて……。
「小林と東堂、ふたりはほぼ同時期に消息を絶った。関連性を疑うのが筋だろう」
ため息をつくように、丸山がいった。
「ネクロマンサーの正体は、東堂である可能性もあるし、小林である可能性もある、ということですか」岸原は、安藤に顔を向けた。「でも、脳の入れ替えなんて、本当に可能なんでしょうか?」
「脳の容量に大差はない。サイボーグ化手術を行える医師であれば、可能だ」と安藤は答えた。「いずれにしろ、犯人はふたりに絞られた。捜査は決して困難では――」
「ちがう!」風間の声が轟いた。みなの視線が、風間に向いた。「あれはネクロマンサーなんかじゃない」
さすがの安藤も、目を丸くした。凍りついた空気に耐えられなかったのか、秋葉がおそるおそる口を開く。
「東京の主要AR広告を、同時にハックするなんて芸当、ネクロマンサーぐらいにしかできませんよ」
風間はじれったそうに、首を横に振った。
「そういう意味じゃねえ。奴が簡単に正体を明かすはずがないんだ。逆にいえば、正体が絶対にばれないという自信があったからこそ、奴はデコイとしての正体を明らかにした……」
静まりかえったオフィスに、電話のベル音が鳴り響いた。机上の電話機が、受信ランプを点滅させている。受話器をとったのは、安藤だった。短い通話のあと、安藤は電話を切った。
「所轄に留置していたブラックドッグの移送が完了した。一階の取調室だ」
「あいつには聞きたいことが山ほどある」
風間はそういい捨て、オフィスを飛び出した。
追いすがる岸原に、風間は振り向きもしなかった。背後から丸山の声がかかった。
「九係は東堂から線をたどる。相手はネクロマンサーだ。気をつけろよ、岸原」
丸山の心遣いに、岸原は頭を下げた。風間はすでにエレベーターに乗り込もうとしていた。扉が閉まる前に、岸原は滑り込んだ。
捜査一課のオフィスがある六階から下階へと、エレベーターが動きはじめた。
「どうしてひとりで行こうとするんですか」
風間は口の端をつりあげた。
「すぐにわかるさ」
ロボット犯罪捜査班に配属されて、いつも風間のそばにいるからわかった。この少年は、またとんでもないことをするつもりだ。
「ブラックドッグを呼んだのは、風間さんですか」
風間はうなずいた。
「奴はネクロマンサーの計画の一部を担ったと、証言している。その計画ってやつは、声明で語られた実験のことにちがいない」
ブラックドッグの犯行は、ネクロマンサーの実験の準備だったということか。
「ブラックドッグはSNSで、『ネクロマンサーの託宣を受けた選ばれた人間だ』とコメントしていましたよね」
「ブラックドッグがどんな方法で、その託宣とやらを受けたのか。それがわかれば、実験の内容を突き止めることができるかもしれねえ」
「だから、風間さんはブラックドッグを……。でも、相馬のときのような尋問は、違法捜査ですからね」
風間は聞く耳をもたなかった。一階に到着すると、取調室に急ぎ足で向かった。のぞき穴のついた取調室のドアを見つけるなり、ノックもせずに開く風間。
ブラックドッグは取調べ用の簡素な机についていた。手錠をはめられ、うつむく姿は、以前よりも小さく見えた。その両脇には、移送を担当した刑事が、ブラックドッグを挟むように立っている。
風間はいった。
「おれの事件だ。部外者は出て行け!」
ふたりの刑事は顔を見合わせたあと、舌打ちをして取調室から退室した。ブラックドッグは顔をあげた。
「俺を逮捕した、ちびの刑事か」
風間はブラックドッグに歩み寄ると、その鼻面に拳をいれた。突然の出来事に、岸原は言葉を失った。椅子から転げ落ちたブラックドッグの襟首をつかむと、小さな体躯に似合わない怪力で、風間はブラックドッグを引き上げた。
「脅迫か」とブラックドッグ。「なにをしようとも、俺から情報は得られない。一度は死を決意した身だ」
風間は首をかしげた。「どうかな?」
無防備なみぞおちを、風間は思い切り殴った。ブラックドッグの巨体が吹き飛ばされ、壁に当たり跳ねた。ずるずると床に崩れ、咳き込むブラックドッグに、風間は恫喝する。
「所轄のぬるい取調べと、いっしょにするんじゃねえ。てめえには洗いざらい吐いてもらう」
岸原は、風間の肩をつかんだ。
「風間さん、いくらなんでもやりすぎです」
風間は肘で、岸原を突き飛ばした。衝撃で、岸原は床に倒れ込んだ。肘で打たれた腹部に、激痛が走る。腹をおさえ、岸原はうめき声をもらした。
「おれの事件だといっただろ」と風間は冷酷にいった。
その様子を見てせせら笑うブラックドッグの頭を、風間はわしづかみにした。強引に顔をうつむかせ、うなじをまさぐる。皮膚の一部がめくれ、外部接続用のポートが露出した。風間はポートにケーブルを差し込み、片側を自分の携帯につないだ。
携帯画面をなぞると、風間はブラックドッグにささったケーブルを引き抜いた。
「痛覚の感度を最大値に設定したぜ」
風間は凶悪な笑みを浮かべ、そういった。
「警察の取調べは可視化されている。貴様の暴虐には限りがある」
ブラックドッグは、なおも冷静だった。
「あいにく、非公式な取調べでね」
風間は青い拳銃を抜き、ブラックドッグの足を撃った。絶叫が、口からほとばしる。
「よくいうよな。弱い犬ほど、よく吠えるって」
岸原は風間を止めるどころか、痛みで立ち上がることさえできなかった。風間のネクロマンサーへの執着心は、想像をはるかに超えていた。
風間は無慈悲に、ブラックドッグに問う。
「おれの質問に答える気になったかな。それとも、もう一発くらいたいか?」
ブラックドッグは、涙目でいう。
「ネクロマンサーを、裏切るわけには――」
風間はもう片方の足を撃った。取調室に、響き渡る悲鳴。
「わかった。話す。もう、撃つのはやめてくれ」
怯えた子犬のような声で、ブラックドッグは嘆願した。ブラックドッグに銃を向けたまま、風間は訊ねた。
「質問その1。ネクロマンサーはどんな方法で、託宣をフォロワーに伝達した?」
数秒の沈黙ののち、ブラックドッグは口を開いた。
「ネクロマンサーが選んだフォロワーに、メールが送信される。その添付ファイルに、託宣が記されている」
「嘘だろ。そんなセキュリティが低い方法を、ネクロマンサーがとるわけねえ」
「ファイルには高度な暗号化処理が施されている。簡単に開くことはできない。それに、記述されているのはあくまでも計画の一部だ。その全容を知ることは、ネクロマンサーを除いてだれにもできない」
「てめえのファイルはどこにある? 手持ちの携帯はもちろん調査済みだが、そんなファイルはなかったぜ」
「自宅のPCに、ファイルは保存されている」
「住所をいえ。ついでに個人番号も。でたらめいったら、ただじゃすまねえからな」
ブラックドッグが吐いた住所と個人番号を、風間は携帯に入力した。いますぐファイルを見つけ、調査するようにとの指示を加え、秋葉にメールを送信する。
「他にファイルを受け取ったフォロワーを知ってるか」
「ファイルを受け取ったフォロワーは大勢いる。だが、フォロワーは匿名の集団だ。ネットで意思疎通することはあっても、それがだれかはわからない」
「ファイルの内容については語られてなかったか?」
「語られてはいるが、その数は膨大だ。おそらくネクロマンサーは、ダミーの託宣も送っている。俺が担ったものも、本物かどうかはわからない」
「ネクロマンサーらしい、周到なやり口だな」
風間は吐き捨て、銃を握りなおす。
「質問その2。てめえは留置場にいたから知らねえだろうが、ついさっきネクロマンサーが犯行声明を行った。なんでも、『マシンハートの存在証明実験』をするとか。実行は明日だ。てめえが担ったであろう計画の一部とやらは、その実験と符号するのかな?」
「おそらく。託宣は期限つきで、今日までだった」
「それじゃあ最後の質問。おまえのそのボディ、登録されていないことから察するに、闇サイボーグ化手術で手に入れたものだな。どこで移植手術をした?」
「ネクロマンサーと、なんの関係がある」
「いいから答えろ!」
「望月洋子ってやつがやってる生体外科だ。表向きは通常のサイボーグ化手術を行ってるが、金を積めば非合法な手術もやる闇医者だ」
風間は銃を下げた。「質問は以上だ。犬のわりにはよくしゃべったな」
取調室のドアを開いた風間は、待機していた刑事ふたりに、取調べが終わったことを告げた。入れ替わりに、入室する刑事たちを岸原は押しのけた。
廊下を歩く風間の背中に、岸原は叫んだ。
「待ってください!」
風間は立ち止まり、振り向いた。
「これは、私の事件でもあります。風間さんだけの事件ではありません。私はロボット犯罪捜査班のメンバーのひとりです!」
腹部にはまだ痛みが残っていたが、岸原は腹の底から声を出した。
「たくましいね」と風間は微笑んだ。「それじゃあ、捜査を開始しようぜ」
2
岸原は、駐車場に車を停めた。風間とふたりで、車から降りる。
「望月生体外科――住所は秋葉原駅近く。ここからだと、歩いて十分ほどですね」
携帯画面を見ながら、岸原はいった。
「路駐すりゃいいのに……」とぼやく風間。
大通りに出ると、土曜日ということもあり、道路は人でいっぱいだった。いや、人ばかりではない。そのなかには、多くのロボットも混じっている。
二〇二〇年代初頭に起きたロボット革命によって、秋葉原の街並みは一変した。コミックやアニメなどのサブカルチャーの聖地だった秋葉原が、ロボットの街へと変貌したのだった。もともと、日本有数の電気街だった秋葉原が、その様相を取りもどしたといってもいい。
新品・中古を含めたロボットショップが立ち並び、店頭には商品であるロボットが立ち、客引きをしている。ロボットのほとんどは、女性型のアンドロイドだった。精巧につくられた新製品のアンドロイドは、人々の注目を集め、カメラの的になっている。
空中には、電車の中吊り広告のように、AR広告が表示されている。ARデバイスのレイヤーを調整しなければ、立ちくらみを起こすほどの、けばけばしい光景だ。
もちろん風間はそんな光景に目もくれず、ただ目的地へと足を急いでいた。
「どうして、サイボーグ化手術の闇医者を訪ねるんです?」
岸原の問いに、風間は面倒くさそうに答える。
「木更津港であがった脳のないボディ――そいつは、脳を別のボディに移したため、不必要になったから始末した抜け殻だ。脳の移植は役所に申請が必要だが、むろんそんな記録はない。となれば、闇サイボーグ医師が関与しているにちがいない」
「でも、ブラックドッグを担当した医師と同一であるとは限りませんよね。闇サイボーグ医師は、日本に数十名はいるそうじゃないですか」
「奴らにはネットワークがある。聞き込みを続ければ、いずれはたどり着く。しかも、秋葉原はパーツの品揃えがいいから、闇サイボーグ医師が集中してる。闇雲な捜査ってわけじゃあない」
「やけに詳しいですね」
「おれのギミックが、合法だと思ってた?」
風間は脇道に入り、裏通りに出た。大通りから、一本道を入っただけで、風景は大きく変わる。いかがわしいビルが乱立し、日中にも関わらず、卑猥なAR広告が宙を踊っている。通りには、金属の義手や義足を剥き出しにした、いかついサイボーグが闊歩していた。
並んでいる店はロボットショップだけではなく、アンドロイドが娼婦の風俗店や、サイボーグ用のパーツショップなど、あやしげな店ばかりだ。
「それにだな」岸原のとなりの少年型サイボーグはいった。「託宣が記述されたファイルの件は、秋葉が追っている。自称ネクロマンサーの東堂は、向井が調査中。おれたちは、他の可能性を当たるしかない」
「風間さんらしくない、弱気な発言ですね」
「いやいや、おれは事件が起こる前に、ネクロマンサーを検挙するつもりだぜ」
「ネクロマンサーが、脳の移植を行ったという確証もないのに?」
「二年前の事件ののち、依然としてネクロマンサーの正体がつかめない理由。それは、奴がボディを乗り換えていたためさ」
「では、二年前から乗り換えが行われていたと? そう考えると、小林も――」
「乗り換えられていた可能性がある。スタートがどこなのか。手術記録を追えば、奴の真の正体がつかめる」
古びたビルの前で、風間は立ち止まった。この建物の四階に、望月生体外科は入っている。病院が入っているとは思えないほど、汚らしいビルだった。
「しかし、すべては風間さんの想像にすぎませんよ」
そう指摘する岸原に、風間はにやりと笑ってみせた。
「心(ハート)の声に従ったまでさ」
「それ、かっこいいと思ってます?」
「時刻は午後二時半。急ごうぜ」
扉を開くと、出迎えたのは旧式のロボットだった。
「望月生体外科に、ようこそいらっしゃました。ご予約されたお客様ですか?」
ドラム缶のような身体をしたそのロボットは、ランプをちかちかさせながら訊ねた。十年以上前の型だ。車輪で移動するため、平面上を動くことしかできない。
岸原は、警察手帳を取り出した。
「望月洋子さんに、うかがいたいことがあって来ました」
ロボットはまた、ランプを点滅させた。
「当院は、ご予約されたお客様のみ、診察を受け付けております」
風間はロボットを蹴飛ばした。ロボットはごろごろ転がり、壁にあたった。煙まで出す始末だった。
「器物破損ですよ」と岸原は注意した。
「知るかよ」と風間。
待合室には、だれもいなかった。どうやらあの旧式ロボットが、受付をしていたらしい。かまわず風間は、診察室のドアを開いた。
生体外科を受診したことのない岸原は、簡素な診察室に驚いた。病院の内科と似ている。パソコンの乗ったデスク。診察用のベッド。そして、患者用の椅子がひとつ。
唯一異なる点は、壁際に設置された棚のなかだった。様々なサイズの義手や義足、義眼や義耳までもが並んでいる。そのすべてが、本物と見分けがつかないほど、精巧に造られていた。
望月洋子は、回転椅子をくるりと回し、岸原たちと向き合った。
「ロボット犯罪捜査班です」と岸原は警察手帳を示した。「望月洋子さんで、まちがいありませんね」
「そうだけど。なんのようかしら?」
けだるそうに、望月は答えた。おそらく、自身もサイボーグ化しているのだろう。肌にはしみひとつなく、短い髪はつややかに輝いていた。白衣を着ていなければ、到底、医者だとは思わないだろう。
風間は携帯画面を、望月に突き出した。
「この画像の人物に、見覚えはあるな。ハンドルネームはブラックドッグ。個人番号から検索したところ、本名は遠山哲男というそうだが」
「ああ、私が手術した人間だわ。もう二年も前だけど。秘密裏の全身サイボーグ化手術だったわね。素性を隠すのが目的で、全然見た目がちがうボディに乗り換えたんだっけ。前のほうが、いい男だったのに」
すらすらと自供する望月に、岸原は違和感をおぼえた。
「申請のない全身サイボーグ化手術は、医師法違反です。あなたも承知していますよね」
「もちろんよ」
診察室なのにも関わらず、望月は煙草を取り出し、火をつけた。
「だからこうやって自白してるんじゃない。それとも、すこしは抵抗したほうがいい? 女刑事さん」
岸原は唇をかんだ。罪を犯したことに、微塵も反省の色はないらしい。
「あんたをブタ箱に送ることは、いつでもできる」と風間はいった。「けど、今は急いでるんでね」
風間は再度、携帯画面を突き出した。
「この画像の男――小林悠太という全身サイボーグだが、あんたのとこにきたことはあるか?」
望月は、紫煙を噴き出した。
「さあ、見たこともないけど。なんの話?」
「小林のボディが海からあがった。けど、脳は行方知れずだ。他人のボディに脳を移し、なりかわったと、おれたちは踏んでる」
「そんなやばい仕事、引き受けるわけないでしょ。移植先のボディがすでに使用されたものとわかった時点で、私なら断るわ。それに、使われたものかどうかは、ボディの状態ですぐにわかる。サイボーグ医師なら、ひと目でね」
「そんなやばい仕事を引き受けるサイボーグ医師を知らないか?」
「いないわよ、そんなやつ」
望月は深く煙草を吸った。煙が宙に拡散し、しだいに空気に溶け込む。デスクにあった灰皿で、望月は灰を落とした。
「いえ、ひとりだけいるわね」
「そいつの名前は?」と風間。
「芹沢勤。特別な顧客しか相手をしない闇医者。法外な料金で、サイボーグ化手術を請け負っているそうだけど、腕はいいとか。私が断った仕事が、彼のところに流れているという話を、聞いたことがあってね」
「なるほど。場所は?」
「ここから三ブロック先の廃ビル。廃ビルといっても、無許可で部屋を使ってる連中がいて、芹沢もそのひとり。どの部屋にいるかは私も知らないけど、警察なんだから調べられるでしょ。ビルの位置情報がほしかったら、送信してあげるけど」
携帯を取り出し、望月は訊ねた。風間は目で、岸原に携帯を出すようにしむけた。
「やけに協力的ですね」
岸原は近距離通信機能をオンにし、望月の携帯に近づけた。
「心証にいいでしょう?」携帯を操作しながら、望月は答えた。
位置情報データを受信したことを確認し、風間にうなずく。
「ここには用はない。ずらかろうぜ」
煙草を吸い続ける望月から、岸原は目を離した。診察室の外には、円柱型のロボットがあいかわらず転がっていた。
被害妄想だろうか。点滅するランプは、まるで岸原を嘲笑しているかのようだった。
ふたりの刑事が診察室から出て行くと、望月は灰皿に煙草を押しつけた。ひきつった笑みを浮かべて、望月はいった。
「ネクロマンサーのご託宣のままに……」
3
携帯画面を確認して、岸原はいった。
「位置情報は、このビルと重なりますね」
岸原の眼前にあるのは、今にも崩れそうな廃ビルだった。コンクリートの外壁には、ひびが目立ち、しなびた蔦がからまっている。あたりにはゴミが散らばり、腐敗臭が鼻をついた。
人が住むような場所ではないことは、明らかだった。
「あの闇医者に、つかまされたんじゃないですか」
望月の不可解な態度を思い浮かべながら、岸原は訊いた。
「ブラックドッグがフォロワーだったことから推察するに、奴もあやしいだろうな」
「フォロワー間のつながり、ですか。だとすれば、位置情報に信憑性なんてありませんよ」
「逆だろ」と風間。「フォロワーはネクロマンサーの意思にしたがってるんだから」
岸原は眉根を寄せた。
「風間さんの考えだと、私たちはネクロマンサーに誘導されてることになりますけど」
「もっといえば、罠かもね」
「罠に自ら飛び込むんですか?」
「虎穴に入らずんば虎児は得ず。捜査もまたしかりさ」
風間はそういって、廃ビルに入っていった。追いつきながら、岸原は訊ねる。
「芹沢がどの部屋に住んでいるかはわかりませんけど、どうするつもりです?」
左手にある受付に、風間は手を振っていた。ガラス窓の向こうに、太った男が座っていた。男は面倒くさそうに立ち上がり、受付のわきにあるドアから出てきた。
「ここはガキの来るところじゃねえぞ」
男は頭をかきながらいった。風間はほおをひくつかせた。
「全身サイボーグで、中身は大人なんでね」
男は口笛を吹いた。「珍しいサイボーグもいたもんだ」
「私たちは警察です」と岸原はいった。「あなたは管理人ですか。この建物は廃ビルだと聞きましたが」
男は首を横に振った。
「管理人なんているわけない。俺はここで待ってるのさ」
「待ってるってなにを?」と岸原。
「なにも知らねえ奴が来て、パーツをくれるのをさ」
男の両腕の内部から、ナイフが跳ね上がった。振り下ろされたナイフを、風間は身をかたむけただけでかわした。
「めんどくせえな」風間はつぶやくと、男との間合いを一気に詰めた。ふくらんだ腹に、思い切り拳を入れる。男はうめき声をもらし、無様に崩れ落ちた。
風間はしゃがんで、男の耳もとで話した。
「聞きたいことがあるんだが。芹沢勤ってやつがどの部屋にいるか知ってるか」
「し、知っている……」呼吸をするのさえ、困難なようだった。
風間は冷酷にいった。「案内しろ」
芹沢の住む部屋は、八階にあるとのことだった。上階に向かうエレベーターの中で、風間は受付にいた男に尋問していた。注意する岸原を無視して、風間は男から強引に話を聞いた。
風間はまず小林と東堂の画像を示し、ビルに出入りしたのを見なかったかと訊いた。
「見たことねえよ」男は涙ぐんで答えた。「俺は常に受付に張ってるわけじゃねえ」
風間は舌打ちをし、男の背中に拳銃を突きつけながら、部屋へと案内をさせた。エレベーターから降り、すこし歩いたところで、男は立ち止まった。
「ここだよ」
八〇八という部屋の番号が、ドアに刻まれている。表札はなかった。
「芹沢ってのはどんな人物だ。なにをやってる?」と風間は太った男に訊いた。
「凄腕のサイボーグ医師が、この部屋に住んでるってことしか知らねえよ。全然、部屋から出ないらしくて、顔を見たことすらねえ」
風間は鼻を鳴らし、男の背から銃口を外した。「おまえは用済みだ。とっとと帰れ」
男は、肥満な体型からは想像がつかないほどの素早さで、階段を駆け下りて行った。腕だけでなく、足もサイボーグ化していたのかもしれない。
「逃がしていいんですか。傷害未遂に、公務執行妨害、しかも違法サイボーグですよ」
「放っておけよ。それに、おれが恐喝罪で訴えられる」
「自覚があって、やってるんですね」
「インターフォン押すぞ」
岸原の相手はせず、風間はただ前にことを進めようとしていた。その先になにかがあるいう、直感があるのだろう。
インターフォンのボタンを押すと、女性の声が返ってきた。
「どちらさまですか?」
風間は、警察手帳をインターフォンに向けた。
「警察だ。芹沢勤に話を聞きたいんだが」
女性は、間髪入れずに答えた。
「解錠しました。なかにお入りください」
岸原に目配せしたあと、風間はドアノブに手をかけ、一気に開いた。
廊下には、だれもいなかった。壁や床は剥き出しのコンクリートで、薄寒い雰囲気が漂っていた。照明の光量は少なく、まるで地下室のなかのようだ。
岸原は、ずかずかと進む風間のあとを追った。反響する靴音は、岸原の不安を増長させた。
右手のドアを開け、風間は部屋のなかに入る。
立ち止まる風間。その視線の先にあった光景を見た岸原も、身体を硬直させた。
肘掛け椅子には、白髪の男性が座っていた。この男が、芹沢勤なのだろうか。しかし、問いかけることはためらわれた。シャツが血で赤く染まっていたからだ。
男の胸には、メスが三本も突き刺さっていた。
傍らには、ナース服を着た女性が立っていた。コスプレで着るような、ぴかぴかしたピンク色のナース服だった。その服に、点々と血がついている。
「一歩、遅かったね」とその女はいった。
先ほどインターフォンに出た女性の声と、同じだった。自動的に識別システムが働き、岸原の視界に結果が出力される――〈ROBOT〉。
風間と岸原は、即座に拳銃を向けた。
「物騒だな。手でも挙げておこうか」
アンドロイドはそういって、両手を挙げて見せた。機械とは思えないほど、狡猾な笑みを浮かべて。
「遠隔操作か。何者だ?」と風間はいった。
「君が執拗に追っている人物さ」
「まさか」岸原は、半信半疑で訊ねた。「ネクロマンサー……?」
アンドロイドは、のどで笑った。
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」
「ふざけやがって」
風間は一歩前に出た。
「制圧して逆探知しようとしてるんだろ。悪いけど、私がネットを切断するほうがよほどはやいね」
アンドロイドは両腕を大きくひろげて、そういった。口調は明らかに男だ。操作者は男にちがいない。しかし、声と外見が女性であるため、岸原を混乱させる。
「つもる話があるだろう。君は私を探していたんだから。必死でね」
銃口を向けながら、風間は訊いた。
「おまえは、ネクロマンサーなんだな」
「ネクロマンサーは神出鬼没だ。ふとした瞬間に、アンドロイドに宿っても不思議はないさ」
操作者は明言を避けている。正体を訊いて、答えてくれる相手ではない。岸原は、別の質問をした。
「その男性を、なぜ殺したんですか?」
「死んだのかな」アンドロイドは男性の頭をつかんだ。うつむいていた顔を、引き上げる。「芹沢さんはなかなか優秀な人物でね。いろいろと世話になったよ」
そのとき、芹沢の口が開いた。
「私はこの男に、十年もの間――」
アンドロイドはふところからメスを取り出すと、芹沢の首に突き立てた。
「まだ生きてやがった!」アンドロイドが哄笑をあげた。
芹沢は首を押さえ、苦しそうにもがいたあと、その場に倒れた。大きく咳き込み、血を吐いたあと、芹沢は動かなくなった。
「なんてことを……」
殺人をじかに見たのは、はじめてだった。あまりにもあっけなく、人の命が失われた。岸原が、なにをする間もなく……。
岸原は、銃口をアンドロイドに向けた。
「人間を、なんだと思っている!」
首をかしげ、その機械はいった。
「アンドロイドだと思ってるよ」
高笑いが、部屋に響いた。操作者は安全な場所にいて、銃口が向けられることはない。だからこそ、ふざけた態度がとれるのだ。
さも愉快そうに、アンドロイドは語った。
「もうすぐはじまる、〈electric sheep〉が。そのとき君たちは、僕の言葉の意味を理解するだろう。いや、無理か――」
アンドロイドは笑うのをやめ、岸原のほうを向いた。
「あんたさ、風間くんの新しい相棒なんだろ?」
風間が息をのむ音が、聞こえた。
「二年前と同じだな」
ケタケタと、アンドロイドは狂ったように笑いはじめた。風間は振り返り、岸原の腰に腕をまわし、引き寄せた。全速力で、奥に張られた窓へと走る。
風間は岸原とともに、ガラス窓を突き破った。
直後に、爆音が聞こえた。
落下するなか、空を仰ぐと、爆炎が八階から噴出していた。
風間は右腕からアンカーを撃ち、壁に突き刺し固定した。反動で、岸原の身体が跳ね上がる。風間は岸原を、しっかりと抱きかかえた。
空には黒煙が舞い上がり、コンクリートの残骸が雨のように降りそそいだ。
「前と同じだ」風間の声は、怒りに震えていた。「アンドロイドに爆弾を内蔵させてやがった」
風間はアンカーを巻き取り、下階のベランダに降り立った。岸原はいった。
「やはり、操作者は――」
「ネクロマンサーだ」
風間の表情は、憤怒に歪んでいた。
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ロボット犯罪捜査班のオフィスにもどったのは、五時すぎだった。
すすまみれのふたりを見て、秋葉は大げさに椅子にのけぞった。向井は難しそうな顔をして、パソコン画面と対峙したままだった。安藤は腰をあげて、いった。
「ふたりとも、ご苦労だった」その顔に、笑みはなかった。「さっそくだが、状況確認といこうか」
デスクにつくなり、風間は早口でいった。
「闇サイボーグ医師の線を追って、芹沢勤という闇医者にあたった。そこで、ネクロマンサーが遠隔操作していたと思われる看護師風のアンドロイドと接触。けど、内蔵された爆弾で自爆された。結果、このありさま」
「すぐさま消防に連絡し、消火活動が行われました」岸原が、続けて話す。「しかし、爆発の勢いで、芹沢の住む八〇八号室はほぼ焼失。部屋に残っていたのは、炭化した芹沢の死体と、バラバラになったアンドロイドの残骸だけでした」
「確認したけど、情報端末は全部おしゃかだ」と風間がつけ足す。
安藤は、詳細な説明を要求した。風間はむすっとしたままだったので、岸原がすべて話した。聞き終えると、安藤は苦い顔でうなずいた。
「ネクロマンサーが脳を移植し、身元を隠蔽していた可能性は濃厚だな」と安藤。「だが、正体を暴くための証拠は失われた。現状では、東堂を追うしかない」
安藤は、向井に結果報告をうながした。
「ネクロマンサーが東堂になりかわったとするなら、それなりの理由があったはずだ」向井はそう切り出した。「東堂の肩書きは、ミツバ電機のロボット開発部部長。見かけは三〇程度だが、実年齢は四十五歳。担当したロボット開発は、アンドロイドだけで四十八体」
「ミツバの対応は?」と風間が訊いた。
「ミツバ電機製ロボットのユーザーに、利用中止を促している。といっても、数千万体のロボットが稼働しているから、すべてを止めるのは到底不可能だ。ネクロマンサーはおそらく、ミツバ電機製ロボットをハッキングし、大規模なロボットの反乱を起こすつもりだろう」
「ブラフだ」と風間はいい切った。「奴はマシンハートの存在証明実験をするといっていた。その説明にならない。奴は正体を偽装するために、ロボット開発部部長というもっともらしい肩書きがほしかっただけだ。狙いは別にある」
「見当はついているのか?」と向井。
「わからねえ。だが、奴がミツバ電機にいて、社内情報にアクセスできたことに意味があるだろう」
「絞り込みは困難だぞ。ミツバ電機は総合電機メーカーだ。手がける事業は幅広い」
向井の言葉に、安藤は苦い顔でうなずいた。今度は秋葉に、報告をしむける。待ってましたとばかりに、秋葉が話しはじめた。
「ブラックドッグのPCから、託宣のファイルを押収。データ容量がやけに大きくてですね、解析してたら気になるファイルを見つけました」
「どんなファイルだ。もったいぶらずにいえ」
いらだつ安藤に、秋葉はオーバーに手を振る。
「いや、それが開けないんですよ。託宣とは異なる形式で暗号化されてるんです。しかもやっかいなことに、RSA暗号です。鍵長からいって、解くのに一ヵ月はかかりますね」
「RSA暗号?」と岸原は聞き返した。
「ふたつの大きな素数を掛け合わせた数値を用いた暗号ですよ。暗号を解く鍵となる素数を求めるには、ひたすら素数をあてはめて、素因数分解するしかありません」
岸原には理解できず、ただ相槌を打っただけだった。
「計算して解く時間はねえ」と風間はいった。「暗号解読の鍵は、もともと用意されていなかったのか?」
「ブラックドッグのPCを洗いましたが、見つかりませんでした」
「おかしいぜ」眉間にしわを寄せて、風間はいった。「時間をかけて計算するしか、解読する方法がないってことになる」
「しかも、ファイルは容易には見つからないように隠されていた――ブラックドッグさえ、気づかない形で」と向井。
秋葉は人差し指を立てて、「そこがミソなんですよ」といった。
「早期に隠しファイルを発見し、膨大な計算をして暗号を解くことのできる人物――それは、情報技術に長けた熱心なフォロワーに限られます」
「フォロワーの選別、か」と風間はいった。
「おそらく」秋葉は眼鏡を押し上げた。「重要なファイルであることは、まちがいないかと」
「しかし、開くことができない」風間は椅子に背をもたせかけ、天井を見つめていた。ふと、秋葉に向き直る。「ファイル名はわかるのか?」
ほおをかきながら、秋葉は答えた。
「わかりますけど、意味がわからないからなぁ……。〈electric sheep〉っていうんですけど」
風間は指を鳴らし、秋葉を指さした。
「そりゃアタリだぜ」
岸原はうなずき、いった。
「ネクロマンサーが遠隔操作していたと思われるアンドロイドと接触したとき、〈electric sheep〉がはじまると、たしかに発言していました」
「〈electric sheep〉は計画のコードネームだろう。ファイルには、計画に関する情報が含まれているにちがいない」と風間が目を光らせる。
「でも、時間がないから解けないんですよ?」
慌てていう秋葉に、安藤が手をさしだした。
「心当たりがある。ファイルをよこせ」
「心当たりって……?」秋葉は不審そうにいった。
「いいからはやくしろ!」
「いや、渡しますけど」秋葉はフラッシュメモリにデータをコピーし、安藤に手渡した。「どうやって解読するつもりなんです?」
「その手の専門家が、知人にいてね」と安藤。「しばらく空けるぞ。連絡を怠るな」
ドアノブに手をかけた安藤に、秋葉が問う。
「警視庁にネクロマンサー対策本部が設置され、幹部が会議中だそうです。それでも、行くんですか?」
「事件は現場で起きているのだよ。月並みだがね」
安藤はそういって、オフィスをあとにした。岸原の視線は、自然と風間に向かった。
「私たちはどうします?」
「決まってるだろ」風間はにやりと笑った。「現場に行くのさ」
*
愛車の白いポルシェから降りた安藤は、駐車場をまわって、豊洲工業大学のキャンパスに足を踏み入れた。安藤はふと、懐かしい校舎を見上げた。先進的なビルのような校舎は、無表情で安藤を迎えた。
豊洲工業大学は、日本有数の工業大学だ。特に、ロボット工学やサイボーグ工学に長けており、優秀な技術者を多数輩出している。安藤は警察に入る以前、この大学で教鞭をとっていた。
サイボーグ工学の教授として、様々な研究に取り組み、功績をおさめた安藤だったが、ついには大学を追い出されてしまった。その原因は、安藤が研究者としての一線を超えてしまったことにあった――。
傾いた日が、キャンパスを赤く染めていた。安藤は、正面に建つ研究棟に歩を進めた。目的地は、研究棟六階にある情報セキュリティ研究室だった。
エレベーターホールに向かうと、見慣れた人影があった。降りてくるエレベーターを、不動の姿勢で待ち続ける禿頭の男。安藤はいった。
「久しぶりですね。無量教授」
無量と呼ばれた男は、首だけを回し、安藤のほうを向いた。
「安藤君か。どうしたんだね、こんなところに」
「借りを返しにもらいに来たんですよ」
安藤は冷たい声でいった。無量は目を見開き、口角を上げた。
「研究者らしくない、具体性に欠けた返答だな」
「あとでお話しますよ。私はまだ、あなたに会っていないのだから」
エレベーターが到着し、静かに扉が開く。ふたりはエレベーターに乗った。
「意外だな。サイボーグ工学の権威が」
「サイボーグは好きですが、ロボットは好かないのでね」
情報セキュリティ研究室は、デスクにパソコンが設置されただけの簡素な施設だった。六台あるデスクに、学生の姿はない。
「土曜日に研究をするような、熱心な学生はいなくてね」と無量はいった。「それに、君の目的はこっちだろう」
無量は部屋の奥にある扉を指し示した。無量はドアに近寄ると、電子錠を解除し、安藤を招き入れた。
部屋に入ると、安藤は思わず身震いした。空調によって、部屋に冷気が満ちていたためだ。薄暗い室内には、ところ狭しとパソコンの筐体が並んでいる。その筐体群に囲まれるようにして、一台のベッドが設置されていた。
ベッドに寝ている老人に、安藤は声をかける。
「ようやくお会いできましたね。無量教授」
その老人の顔は、となりに立つ無量とうりふたつだった。突然、安藤のとなりに立つ無量が、膝から崩れ落ちた。倒れたそれを見て、安藤はつぶやく。
「クローンドロイド……」
低い笑い声が、部屋中に響いた。四隅に配置されたスピーカーから、無量の声が流れている。
「私の外見に基づき作成された、私のクローンのごときアンドロイド。遠隔操作を行うことにより、私はベッドにいながら講義をし、学生を指導することができる」
「ご老体には便利な世の中になりましたな」と安藤は皮肉をいった。
「まったくだよ。もはや肉体は意味をなさないのだ」
「だからあなたの身体は、こんなにも干からびているんですね」
ベッドに横たわる本物の無量は、ただ死を待っているだけの入院患者のようだった。目と口は、はりついているかのように、固く閉ざされている。無量は口から発声しているのではなかった。脳から直接、音声信号を送っているのだ。
無量の脳には、幾本もの電極が刺さっている。電極から伸びたコードは、頭蓋内の基板を通して、腹部の装置まで皮膚下でつなげている。装置は無線を送受信でき、コンピューターとの通信を可能にする。
脳と機械との接続(ブレイン・マシン・インターフェース)――安藤がこの大学で取り組んだ、最後の研究だった。
「身体などいつでもサイボーグ化できるよ」と無量はスピーカーからいった。「それで、用件はなんだね」
「あなたの脳を半機械化したために、私は大学を追放されました」
「実験自体は合法だったが、生命倫理に反するなどの理由で、君は大学を解雇されたんだったね」
「あなたの希望で、私は手術を監修しました。その借りを返していただきたい」
「君の希望でもあったと思うがね。まあいい。話を聞こう」
安藤はフラッシュメモリを掲げた。
「この中に、RSA暗号で暗号化されたファイルがあります。このファイルを解読していただきたい」
「手近な端末に接続してみたまえ」
安藤は近くにあった筐体に、フラッシュメモリを差し込んだ。筐体は、ブーンとうなりをあげた。
「なるほど。なかなか手強そうだな」
「明日の午後一時までに、暗号を解いていただきたい」
「複数のコンピュータと接続した私の脳は、膨大な計算能力を有している。だが、限界もある」
「あなたの研究結果を示すときが来たのですよ」
「――リーマン予想か」
無量がそういった途端、粉雪のように、無数の光が舞い降りてきた。その光は、数字だった。大量の数字が、天井から降り注いでくる。
その光景は、無量の見せるAR映像だった。
「情報セキュリティの研究にのめり込んだあなたは、RSA暗号の安全性を証明するために、リーマン予想の研究に取り組んだ。RSA暗号は、インターネットセキュリティで、もっとも重要な暗号のひとつですからね」
「リーマン予想は、素数に規則性があることを示す予想だ。リーマン予想が証明され、その理論を応用すれば、RSA暗号は簡単に解かれてしまう。私はリーマン予想の反証を示そうとした」
「だがあなたは、リーマン予想の魅力に取り憑かれた。そして、脳と機械をつないでまで、リーマン予想の研究に没頭した。あなたは反証を示すどころか、リーマン予想の正しさを、次第に信じるようになった」
風が吹いたように、数字が舞い上がった。そして、つむじ風のように渦を巻き、安藤の前に集まる。やがて数字の群は、人型をつくっていった。
安藤はそれら数字がすべて、素数であることを知っていた。
「あなたはすでに、リーマン予想を証明しているのではないですか」
素数でできた人間は、声を出して笑った。
「数学の証明には、長い年月がかかるものだよ。しかし、理論はほぼ完成している」
「それでは、お願いできるんですね」
「約束しよう。明日の午後一時までだな。干からびた身体に、熱き血潮が巡るようだよ」
素数の人型は、はじけるようにして消えた。あとには筐体のうなり声が聞こえるだけだった。安藤は踵を返し、部屋をあとにする。
素数に取り憑かれた、哀れな老人の部屋を。
*
岸原と風間のふたりは、爆破のあった芹沢の部屋に立っていた。
肘掛椅子に、芹沢が座っている。そのとなりには、不気味に微笑むナース姿のアンドロイドがたたずんでいる。いずれも、微動だにしない。
それは、彼らと遭遇したシーンだった。
止まった時間のなか、手がかりを求めて部屋を歩む。まるで夢を見ているようだ、と岸原は思った。もちろん、夢などではないとわかっている。これは、再現された環境にすぎないのだ。
ARコンタクトをつけている岸原の視界映像は、携帯を通して、警察のサーバーに保存される。風間はサイボーグなので、義眼が捉えた映像が、サーバーへ送信されている。
それらの視界映像をもとに、構成されたのがこの仮想空間だった。仮想空間といっても、画像のつぎはぎにすぎず、秋葉は三十分程度で作業を完了した。むろん、指示したのは風間だ。芹沢宅は焼失しているため、仮想的にでも現場検証を行うのが目的だった。
ふたりは警視庁のVR捜査室にいて、ヘッドマウントディスプレイを用いて、当時の現場を体感しているのだった。
風間はドアから見て右手側にある、芹沢のデスクを物色していた。あのときは、メスを刺された芹沢に注目していて、部屋を観察する余裕はなかった。だが、周辺視野はしっかりと部屋の全体をとらえていたため、細部が再現され、捜査が可能になっていた。
デスクはきれいに整理されていて、パソコンのモニターはついていなかった。机上に立ててあるペーパーファイルや、デスクの引出しは、なかを確かめることはできない。
岸原は、デスクのとなりにある本棚に歩み寄った。紙の本が隙間なく並んでいる。電子書籍が普及した現在、紙の本は高級品だ。芹沢は相当な愛読家らしい。
「カフカの『変身』、ドストエフスキー『罪と罰』、ウィリアム・ゴールディング『蠅の王』……、他にも文学作品が多数ありますね」
風間は本棚を、横からのぞいた。
「芹沢は十年間も脅迫され、ボディの乗り換えに協力させられていた。きっと軟禁状態だったんだろう。紙の本を読むことぐらいしか、趣味がなかったんだ」
「どうして十年といえるんです?」
「秋葉、映像を進めてくれ」
秋葉はVR捜査室に接するモニタールームで、仮想空間を制御していた。秋葉がキーをぽんと叩くと、止まっていた時間が進みはじめた。
風間と看護師風アンドロイドとのやりとりが再現される。しかし、過去の風間の姿はなく、声だけが流れている。岸原と風間は横に並んでいたため、互いの姿を視界におさめていなかった。
そして突然、芹沢が言葉を発する。「私はこの男に、十年もの間――」
風間の合図で、映像は停止した。岸原はいった。
「十年もの間、とたしかに発言していますね」
「その先はわからねえが、おれの予想でおおむね正解だろう」
映像を再生するように、風間は指示した。芹沢の首に、メスが突き刺さる。風間はその様子を、間近でながめていた。飛び散る鮮血は、岸原の身体を通過して床に落ちた。
倒れ込む芹沢。風間はしゃがんで、芹沢を観察し続ける。
「なにか気になることでも?」
「この段階で、芹沢はまだ生きていた可能性がある」
岸原は、芹沢の胸部を確認した。わずかだが、上下運動をしているように見える。
「注目すべきは、指の動きだぜ」と風間はいった。
芹沢はアンドロイドを背にして、横向きに倒れていた。投げ出された血まみれの手が、痙攣するようにぴくぴく動いている。
「あの状況だったから、注視することはできなかった。芹沢は自らの血で、なにかを書き残そうとしていたんだ」
岸原は風間とともに、指の動きを追った。手の位置は胸のすぐ前だった。芹沢の身体が壁となり、アンドロイドの死角となる位置だ。
ゆっくりと、床に赤い線が引かれてゆく。岸原は、記述された文字を見て、思わず首をかしげた。それは、たった三文字のカタカナだった。
『ラーフ』――血文字でそう書いた芹沢は、力尽きたのか、もう指を動かすことはなかった。
鼓膜を破くほどの爆音が鳴り、仮想空間はブラックアウトした。
岸原は、ヘッドマウントディスプレイを外した。VR捜査室の白い内壁がまぶしい。
「『ラーフ』と読めましたね。なにかの暗号でしょうか」
訊ねる岸原に、風間は微笑を浮かべる。いつもの口癖で、風間は返した。
「どうかな?」
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