【長編小説】MACHINE HEART 警視庁捜査一課ロボット犯罪捜査班③
- 弑谷 和哉
- 7月6日
- 読了時間: 31分
更新日:7月20日
Case:03 BLACK DOG
1
雲が星を覆い隠しても、東京の街は明るかった。
立ち並ぶ高層ビルには、ARデバイスによって視認できるCGのヴェールがかけられ、企業の存在をアピールしていた。
街はAR広告で埋め尽くされ、まるで現実を虚構で覆い隠しているかのようだ。
きらめく世界を、一台の大型トラックが走っている。そのトラックの車体にも、運送会社のロゴが表示されていた。
運転席の男は、両手を頭の後ろで組み、半分目を閉じていた。頭髪の薄い、四十がらみの男だった。
「オートドライブが開発されたら、俺も失職かと思ってたけどよ」
カーブにさしかかると、ステアリングがひとりでに回った。
「オートドライブでは、想定していない状況に対処できないため、人間が不可欠なんですよ」
助手席からの声に、男は大きく口を開けて笑った。
「ロボットにいわれてもな」
男性型アンドロイドは、男と同じ作業服を着て、助手席に座っていた。プログラムされた笑みを浮かべて、アンドロイドはいう。
「まったくです」
男はフロントガラスに目をやって、感慨深げに話した。
「おまえには本当に助かってるよ。長いことこの仕事してるせいで、腰をやっちまったからさ。荷物運ぶのがつらくってよ」
「荷物の積みおろしや運搬などが、私の役目ですから」
「職場にロボット導入するって聞いたときにゃ、どうなるかと思ったけど。なんのことはねえわな。最近の若いやつらより、全然使えるぜ」
「ありがとうございます」
「まさか、ロボットが相棒になるとはなぁ……」
トラックは自動的に、目的地へと走った。法定速度を遵守した、安全な運転だった。男はふたたび口を開いた。
「しかし、変わった荷物だよなぁ。セットアップしたドローンを百台も。どんな会社か知らねえが、なにに使うんだろうな……」
アンドロイドの反応はなかった。独り言と認識されたのだろうか。男が助手席を見たとき、アンドロイドの顔が目前にせまっていた。
男は声をあげたが、それも一瞬だけだった。アンドロイドが首を絞めつけてきたからだ。その腕をつかみ、引き離そうともがいた。だが、びくともしない。
さまよう視線が、車載ディスプレイに釘づけになった。ディスプレイには、『後部ドア開放』という文字が光り、バックカメラの映像が表示されている。
幾体ものドローンが、車外に飛び立っていた。
その様子は、群れなす鳥のようだった。小型ドローンは、羽の代わりにプロペラを用いて、宙に拡散してゆく。
何者かの手によって、車が操作されていることは明らかだった。車もコンピューターを積み、ネットに接続されている。ハッカーの仕業か。
男は苦しみながらも、ネット接続を切るスイッチに手をのばす。しかし、シートに押さえつけられているため、手が届かない。
ともに仕事をしてきた相棒に、表情はなかった。ただ機械的に、首を絞めていた。裏切られたという思いより、悲しみのほうが強かった。あまりに感情移入していたため、アンドロイドがハッキングされていると、考えることはなかった。
薄れゆく意識のなかで、ステアリングが右いっぱいに回転するのを見た。
車のクラクションが、天へと導くラッパのように響き渡った。
ロボット犯罪捜査班のオフィスに、五人のメンバーがそろっていた。ひさびさに起きた事件に、みな表情を引き締めている。ここ一ヵ月、大きなロボット犯罪は発生していなかった。
安藤は仮想ディスプレイの横に立ち、説明をはじめた。
「昨夜未明に、配送業者の大型トラックと乗用車の衝突が起きた。トラックが突然、対向車線に侵入し、ブレーキの間に合わなかった乗用車に突っ込んだ。いずれのドライバーも死亡したそうだ」
手をあげて、風間はいった。
「ロボットとなんの関係があるんすか?」
「話を最後まで聞け」安藤は一喝した。「トラックにはドライバーの他に、アンドロイドが一体乗っていた。乗用車のドライブレコーダーには、アンドロイドが、トラックの運転手の首を絞めている映像が残っていた」
「興味わいてきた」と風間。
「アンドロイドがハッキングされ、遠隔操作された可能性が高い」
岸原は、風間と同じように手をあげてみた。
「どうした、岸原?」
「首を絞められている状態では、運転できないはずですよね。それでも、トラックは対向車線に侵入した」
安藤はうなずいた。
「この配送業者のトラックは、オートドライブが基本だそうだ。オートドライブにも誤作動はつきものだが、対向車線に入るなどの大幅な誤作動は考えにくい。つまり――」
「ハッキングが原因」と秋葉が口をはさんだ。
向井は腕を組み、静かにいった。
「アンドロイドのハッキングと、オートドライブのハッキングが同時に起きた……」
「それだけではない」と安藤はいった。「衝突直前に、トラックの後部ドアが開き、積んでいたドローン百体が飛び去った。所轄が行方を追っているが、方々に散ったようで、捜索は困難だそうだ」
首を回したあと、風間はいった。
「犯人の目的は、百体のドローンを盗むことだった。まず車をハッキングし、コントロールを奪う。さらにアンドロイドをハッキングし、運転手の首を絞めることで、手動運転への切り替えを阻止。車を事故らせたのは、車載コンピュータやアンドロイドを物理的に破壊し、証拠を隠滅するため。計画的な犯行だな」
「その線が濃厚だ」と安藤。「しかし、証拠隠滅は不完全だった。車載コンピュータもアンドロイドも、かろうじてアクセスできる状態だ」
「僕の出番ってわけですね」と秋葉がにやつく。
「向井はドローンを発注した企業を洗え。風間と岸原は、ネットにあがっている犯行声明の調査を」
「犯行声明?」と岸原は聞き返した。
「あいかわらず情弱だな」と風間は嘲った。「SNSや匿名掲示板に、別名の犯行声明が複数アップされてる。いずれも、ネクロマンサーのフォロワーを名乗ってやがるぜ」
岸原はあごに手をそえて、考え込むようにいった。
「複数のフォロワーが犯行声明を……。いったい、なにが起きてるんでしょうか」
「ネクロマンサーがまた動き出したのかもしれねえ」風間は宙の一点を見つめていた。「奴がフォロワーを教唆しているとすれば、複数の犯行声明の説明はつく」
「しかし、ネクロマンサーは単独犯だったはずです」
岸原の指摘に、風間はうなずいた。
「単独ではできなかった、大規模な犯行計画の実行……。今回の事件は、そのはじまりにすぎないのかもしれねえな」
二時間後、向井がドローンの発注元からもどってきた。
「会社のパソコンが、不正アクセスにより遠隔操作されていた。そのパソコンを調べてみたが、犯人にたどりつくような情報はなかった」
「最近さ、スカを引くのがおまえの仕事になってるよな」
風間は半笑いでいった。向井はなにもいわず、椅子に腰を下ろした。
「自信があるらしいな」と安藤は皮肉っぽくいった。「報告をしたまえ、風間君」
「新人に任せますよ」と風間。
岸原は、にべもなく立ち上がった。
「複数の犯行声明を調査し、もっとも信憑性のある記述がされた声明を特定しました。これが、SNSにあった記述です」
マウスを操作し、仮想ディスプレイに文言を送信した。
『俺はネクロマンサーの託宣を受けた選ばれた人間だ。五月某日、百匹のコウモリを空に放つ。彼が覚醒する日は近い』
みなが目を通すのを待ったあと、岸原は続けた。
「ドローンのボディカラーはブラックです。コウモリとは、ドローンを指していると考えられます」
「こいつの可能性が高いな」と安藤はいった。「アカウントから身元を割り出せないのか」
「運営者に問い合わせたところ、数日前に不正アカウントであることが発覚したそうです。アカウント停止の処分を、検討している最中という話でした」
「IDとパスワードさえわかれば、アカウントの乗っ取りは容易だ。闇サイトで簡単に購入することさえできる。身元の割り出しは困難か」
向井が仮想スクリーンを見ながらつぶやいた。
「アカウント名は、Black-Dogか」
「直訳すると、黒い犬。なんの意味だか……」
「イギリス全土に伝わる犬の怪物だそうだ。普通の犬よりもでかくて、赤い目をしてる。ブラックドッグを見たら事故るって話もあるみたいだぜ」
得意そうに語った風間に、岸原は視線を向けた。
「一応、調べたんでね」
「犯行と結びつく名前ではあるようだが、確信にはいたらない」
安藤はそう結論づけ、今度は秋葉に報告をうながした。
「車載コンピュータとアンドロイド、それぞれからウイルスを検出。車のほうは最近流行ってる遠隔操作ウイルス〈reckless〉の亜種です。アンドロイドのほうはオリジナルのウイルスのようですが、ちょっと見覚えがあるんですよ」
「見覚え?」と安藤。
自分のモニターを見つめつつ、秋葉は話した。
「ウイルスを逆コンパイルして、ソースコードに変換したんですよ。ソースコードは人間が記述したものなので、作成者のクセがでるんです。小説でいう文体みたいなものですね」
「能書きはいい。だれのソースコードに似てたんだよ」
ぶっきらぼうに、風間が訊いた。
「あくまでも、僕の直観にすぎないんですが」秋葉はキーボードを叩き、仮想ディスプレイに画像ファイルを送信した。「こいつです」
やせこけた、いかにも病的な顔をした男が映った。
「相馬孝典(そうまたかのり)。二十四歳。僕が三年前に、サイバー犯罪対策課で挙げた犯人です。ロボットから情報を窃取するウイルスを作成し、ネットを通じて販売していました。ウイルス作成罪などで、懲役三年」
「出所後、すぐに犯罪に手を染めやがったか」と風間。
「だから、僕の直観にすぎないんですって」
「私は君の容姿は認めないが、捜査能力は認めている」
安藤の言葉に、秋葉は顔をしかめた。
「それ、ほめてるんですか?」
「相馬の自宅に行ってこい。ロボット犯罪捜査班、出動だ」
2
運転中、岸原は煙草を吸いたい気持ちでいっぱいだった。たよりになりそうな向井は、オフィスでの待機命令だ。つまり、同乗者は風間と秋葉。やっかいなふたりと、行動をともにしなければならないわけだ。
風間は助手席から、岸原の運転をせかしてくるし、秋葉に関してはもっとひどい。バックミラーを確認すると、いやでも目に入ってくるのだ。後部座席で、携帯ゲーム機に興じる秋葉の姿が。しかも、きっちりイヤフォンまでつけている始末だ。
「仕事中にゲームね……。私たち、公務員なんですけど」
苦虫をかみつぶしたような表情で、岸原はいった。
「好きにさせてやれよ。あいつがゲームやる目的は単純。現実逃避さ」
岸原は、風間に目を向けた。
「そんなに逃げたいんなら、警察やめればいいじゃないですか」
「おーこわ」風間は苦笑した。「あいつなりの理由があるのさ。相馬は秋葉の大学時代の友人であり、同業者なんだから」
「同業者? 犯罪者と?」
「そうだよ。秋葉は元ハッカーだからな」
「ハッカー?」
仰天する岸原に対し、風間は平然と相づちを打った。
「卓越したハッキング技術を認めた警察が、秋葉をスカウトしたのさ」
「警察が犯罪者を受け入れたんですか」
「記録上、秋葉は犯罪者じゃない。警察が目をつぶったからな。それと引き換えに、秋葉は警察に入り、ハッカーを検挙する側にまわった。そして最初の仕事が、ハッカー仲間を摘発し、逮捕することだった」
「相馬はそのなかのひとりだったと」
「そんなわけで、秋葉も気が重いんじゃないの。裏切った仲間と再会しなけりゃならねえんだからさ」
秋葉はバックミラーのなかで、黙々とゲームをしていた。岸原は、風間に訊いた。
「ちなみに秋葉さんって、どんな犯罪をやったんですか」
「ゲーム会社のPCをハッキングして、開発中のゲームの情報をリークしてたそうだぜ」
ため息まじりに、岸原はいった。
「しょうもない罪ですね……」
そのとき、後部座席から声があった。
「しょうもなくはないっすよ」秋葉はイヤフォンを外し、早口でまくしたてた。「世界中のユーザーが待ち望む新作ゲーム。その情報にどれだけの価値があるかわかっていないですね。だれよりも早く情報を届けるために、僕はハッキング技術をみがき――」
「相馬の住むアパートに到着しました」
「行こうぜ」
アパート二階にある相馬宅のチャイムを鳴らしたが、返答はなかった。居留守を決め込んでいるのか。それとも、外出しているのか。
ドアを蹴破ろうとする風間を、岸原はとがめた。
「捜査令状、とってないですよね」
「緊急逮捕の場合は、あとでもいいんだぜ」
「緊急性が認められる状況じゃ――」
風間は岸原を突き飛ばし、身を引いた。ドアが蹴破られたのは、内側からだった。勢いよく開いたドアが壁に当たり、大きな音をたてた。
現れたのは相馬ではなく、学生服を着た少女だった。力からして、人間ではないのは明らかだ。しかし、識別を欠かすことはできない。
「こりゃ緊急事態だ」
風間は青い拳銃を抜いた。岸原も銃を取り出す。
「相馬氏、昔と趣味が変わらないようですね」
秋葉はそうつぶやき、風間と岸原の影に身を隠した。
少女は凜とした表情で、こちらを見つめた。ローファーで床を蹴り、瞬時に間合いが詰まる。その両手は、風間の細い首筋を捉えた。うなじに爪が深く食い込んでいる。
だが、風間はぴくりとも動かなかった。三秒後、風間はいった。
「識別完了」
風間は少女型アンドロイドの両手を力づくで開き、蹴飛ばした。
「相馬が逃げるぜ。はやく行け」
銃をアンドロイドに向けながら、風間はいった。
岸原と秋葉は、相馬の自宅に駆け込んだ。岸原は正面のドアを押し開け、拳銃をかまえた。ベランダに続くガラス戸が、無造作に開かれている。
その先には、相馬の姿があった。ベランダの手すりに足をかけ、二階から飛び降りようとしているようだった。勇気がわかないのか、岸原たちと地上を、見比べるように首を動かしている。
「止まりなさい!」
岸原は叫び、ベランダへと走った。相馬は短い悲鳴をあげ、手すりを越えようともう一方の足をあげる。
相馬が飛び降りるよりも、岸原の行動のほうがはやかった。岸原は相馬を抱え、思いきり引き下ろした。
暴れる相馬の腕をとり、うつぶせに組み敷くと、ポケットから手錠を取り出した。
「相馬孝典、傷害容疑で現行犯逮捕します」
岸原は相馬に手錠をかけた。
「まあまあだな」
背後から聞こえた声の主は、もちろん風間だった。そのとなりで秋葉は、悲しみとも怒りともつかない複雑な表情で、昔の友人を見下ろしていた。
銃をちらつかせながら、風間はいった。
「さてと、尋問タイムといこうかな」
後ろ手に手錠をかけられた状態で、相馬は椅子に拘束されていた。
反対するふたりをよそに、風間は手近にあったコード類で、相馬を椅子に縛りつけたのだった。相馬の背後には、まるで三面鏡のように、モニターが設置されたデスクがある。相馬の仕事部屋で、取調べというか尋問をするといいだしたのは風間だった。
「違法捜査でしょう」
眉根を寄せていう岸原に、風間は目もくれない。ほおに張りつくその笑みは、犯罪者のそれと等しかった。風間はこの状況を、心底愉しんでいるようだった。
「秋葉、たすけてくれよ。この刑事イカレてるぜ」
懇願する相馬に、秋葉はため息をつくように応えた。
「残念ですよ、相馬氏。ウイルス作成に加え、人殺しまでするなんて……。僕らの信条は、正義のハッカーだったのに……」
「殺しなんかしてねえよ。俺はロボットを遠隔操作するウイルスを作っただけだ」
「そのウイルスは、これでまちがいないですか?」
秋葉は自分の携帯画面を、相馬に見せた。
「このソースコードは、俺が書いたものだ。まちがいない。でも、俺は人殺しなんて……」
「しらばっくれるな」風間は銃口を、相馬のひたいに押しつけた。「おまえがブラックドックだろ」
「だから、俺はウイルスを作っただけだって!」
「じゃあ、てめえのアンドロイドにウイルスを仕込んで、おれたちを襲わせた理由をどう説明する?」
「あれは護身用で……。あいつがもどってくるかもしれないから……」
「だれがもどってくることを、恐れていたんですか?」
岸原は訊ねた。相馬は岸原を見つめたが、徐々にその視線は下がっていった。口元を震わせている。発言を躊躇しているのは、明白だった。
「おっと、安全装置を解除し忘れてたぜ」
風間が銃をいじりはじめると、相馬は泣き叫ぶようにいった。
「わかったよ、いえばいいんだろ!」一息つくと、相馬は低い声で続けた。「俺が恐れているのは他でもない。あんたらの探してるブラックドッグだよ」
風間は首をかしげた。安全装置を外した銃を向けようとする風間の手を押さえ、岸原は訊いた。
「あなたはブラックドッグと、接触したということですね」
相馬はうなずいた。
「ブラックドッグに脅されて、ウイルスを作成したんだ。ネクロマンサーに心酔してるみたいで、気味の悪い野郎だった。俺は奴にウイルスを渡したが、そのあとのことは知らない」
突然、銃声が轟いた。弾丸は相馬の頭のすぐ横を通り過ぎ、モニターに当たった。画面が砕け、光が失われた。
「本当だよ!」相馬は絶叫した。「証拠もある。俺のARコンタクトで撮った、映像が残ってるんだ」
岸原は落ち着いた声で訊ねた。
「そこに、ブラックドッグの姿が映っているんですね」
相馬は興奮した様子で、幾度もうなずいた。
「てめえの携帯はどこだ」と風間は威圧的に訊いた。
「俺のポケットだよ」
風間は秋葉に首を振り、探すように促した。
「相馬氏、疑ってすみませんでした」ズボンのポケットを手探りしながら、秋葉はいった。「凶悪犯罪に手を出すような男じゃないと、僕が主張するべきだったのに」
「いや、いいんだ。俺も共犯みたいなもんだ。でも、秋葉に二度もつかまることになるとは、思ってもみなかったぜ」
「三度目がないことを祈りますよ」
相馬の携帯を手にして、秋葉はいった。秋葉は携帯を操作し、問題の視界映像を岸原たちに送信した。
目前に仮想ウインドウが立ち上がり、クローズアップされた男の顔が映し出された。
その顔は醜悪そのものだった。血走った眼。上向きの鼻。大きく開かれた口から覗くいびつな歯。凶暴な獣のような顔だ。皮膚病なのか、顔半分が黒く変色しており、男の闇が表出しているようでもあった。
手前には、首元をつかむ手と、鋭いナイフがきらめいていた。つるし上げられ、相馬はナイフで脅されているのだ。
男はしゃがれ声でいった。
「指定された期日までに、ウイルスを作成して送信しろ。わかってると思うが、他言すれば命はない」
相馬の首元をつかんでいた男の手がゆるんだ。視線が下方に落ちる。相馬は力なくその場にへたりこんだようだった。位置は、岸原がいる場所付近のようだ。
「おまえの目的は、いったいなんなんだ」
相馬は目を上げ、声を絞り出した。男の全身が、視界に映った。巨大な体躯に、黒いコートを身に着けている。
「彼の託宣の成就だ」
男は無表情でそう答えると、部屋の外に出て行った。
相馬はうつむき、嗚咽をもらしはじめた。そこで、映像は途切れた。
「奴がブラックドッグですか」
秋葉が訊くと、相馬はうなずいた。
「秋葉は知らないだろうが、俺が大学の時につるんでた奴だ。つるむっていっても、ネット上でだけだがな。高度な技術はもっていなかったが、発言は過激だった。世界を変えるとか、ありきたりなものだったが」
秋葉は中指で、眼鏡を押し上げた。
「その後、ネクロマンサーというカリスマが出現し、彼に影響を与えた。考えられなくもないですね」
「ウイルス作成の技術をもつ俺が、出所したことを聞きつけて、奴はたよってきたんだ」
「託宣というのが気になりますね」と岸原はいった。「ブラックドッグは犯行計画について、なにも語らなかったんですか」
「計画はおろか、本名さえ知らない。俺が知ってるのは、ブラックドッグという奴のハンドルネームだけだ」
「となると、手がかりはブラックドッグの顔写真のみですか」と岸原。「まずは犯歴を検索しましょう。特徴的な顔ですから、検索は容易なはずです」
「犯歴はないぜ」風間は携帯を切ったところだった。「待機中の向井に映像を送信。検索をかけてもらったが、該当者はゼロ。ちなみに、個人番号データベースに登録された顔写真も洗ってみたが、こちらも該当者ゼロだそうだ」
「は、はやいですね……」
「捜査はスピードが肝心なんだよ。前にいっただろ」と風間。
「でも、これからどうするんですか。該当者なしでは、ブラックドッグを特定できません」
「向こうから来させるのさ」風間はにやりと笑い、相馬を指さした。「こいつにメールさせて、ブラックドッグをおびきだす」
「そのおとり捜査は違法ですよ」と岸原。
「大丈夫だ。こいつが勝手にメールしたってことにしとけば」
相馬は激しく首を横に振った。
「絶対に嫌だ。裁判所で証言してやる!」
「証拠があればいいけどな」と風間。
「いえ、その必要はありません」決然とした表情で、秋葉はいった。「僕に任せてください。考えがあります」
「どうすんだよ」
「監視カメラと監視ドローンの映像に、全検索をかけます」
「それじゃ時間がかかりすぎんだよ。おれの方法が最短だろ」
「ここは地道に聞き込みを――」
そのとき、三人の視界に着信通知が光った。安藤からの電話だった。
『ブラックドッグに動きがあった。至急、現場に向かえ』
三人は携帯を下ろし、顔を見合わせた。すぐに動いたのは、やはり風間だった。「とんだ茶番だったぜ」といい捨て、部屋から飛び出た風間を追うように、岸原と秋葉も戸口へと足を向ける。振り返り、秋葉はいった。
「安心してください。相馬氏のかたきは必ずとりますよ」
椅子をがたつかせ、相馬はいった。
「俺はこのままかよ!」
「所轄に連絡しときますから、そこで待っといてください」
岸原はそう叫ぶと、相馬宅から走り出た。
3
東京駅のバスターミナルに、男はいた。あたりは、観光バスを心待ちにしている客たちでごった返している。男はだれとも関わろうとしなかった。季節外れの分厚い黒いコートを着て、ポケットに手をつっこんでいる。
街灯に取り付けられた監視カメラを気にすることもなく、男は顔をあげ、ターミナルを回るバスを見つめている。その顔の半分は、焼け焦げたように墨色に染まっている。
観光バスがやってくると、アンドロイドのバスガイドが降りてきて、客たちをバス内へと案内しはじめた。ロボットがガイドする、格安の東京観光プランだった。
男は最後にバスに乗り込むと、運転席の前で立ち止まった。オートドライブなのにも関わらず乗車している、愚鈍な運転手は男を不思議そうに見上げた。男はポケットから模造拳銃を取り出すと、引金をひいた。
運転手の頭から血が噴き出し、動かなくなったことを確認すると、男はもう片方のポケットから、携帯を抜き出した。バスガイドが慌てて駆け寄ってきたが、携帯画面を一度たたいただけで、歩みは止まった。
バスのドアが閉まり、アクセルペダルがひとりでに沈んだ。客たちのつんざくような悲鳴を無視して、観光バスは発進した。男はアンドロイドに銃を渡すと、コートの中から自分用の銃を抜き、天井に発砲した。
客たちはぴたりと口を閉じた。男はいった。
「おまえたちを、ネクロマンサーへの生贄に捧げる」
その目は、狂気に潤んでいた。
ハンドルをにぎる手に、自然と力がこもった。即応性を要する事件であるため、岸原の片耳には、小型のヘッドセットが装着されている。そのヘッドセットから、状況を伝える安藤の声が聞こえる。
「東京駅発の観光バスがジャックされた。監視カメラの映像から、犯人はブラックドッグだと特定された。ブラックドッグは運転手を射殺したのち、バスの車載コンピュータおよびバスガイド用アンドロイドをハッキング。予定されていた観光ルートを大幅に逸れ、南西方面に進行中。いまのところ目的は不明だ」
助手席に座る風間は、なにやら携帯をいじっていた。秋葉は車に乗っていない。潤沢なPC環境がなければ役立たず、という風間の言葉に従い、途中で降ろしたのだった。オフィスから、こちらを援護してくれるらしい。
「バスの乗客はブラックドッグを除き四十八名。当然ながら、人命最優先だ。どんな方法でもいい。ブラックドッグを確保しろ。以上だ」
「ボスも無茶をいってくれるぜ」と風間が毒づいた。
「せめて要求があれば、交渉に持ち込めるんですけどね」
「ネットをざっと閲覧したが、ブラックドッグの犯行声明はなさそうだ」風間は携帯をしまいながらいった。「力ずくでいくしかねえな」
「いつも通りに、ですか?」
「そう、いつも通りに」
岸原は、風間の目を見て訊いた。
「勝算はあるんですか?」
「勝算は常にある。おれのスペックをなめないでもらいたいね」
あいかわらず、風間は生意気な口をきいた。しかし、彼の能力はたしかに高い。生身である岸原が、嫉妬するほどに。
「見ろよ。向井だぜ」
前方に、向井の乗る車が見えた。通信が入ってくる。
「もうすぐバスに追いつく。計画は?」
「向井が先行してくれ。あとはおれが片づける」
岸原は、車を向井のうしろにつけた。車載モニターには、ブラックドッグがジャックした観光バスの位置情報が表示されている。
レインボーブリッジに、差しかかったところだった。
バス内は、空気が締めつけられたかのように静かだった。だれも口をきかないのは、運転席のすぐそば、全員を見渡せる位置に、銃をもったアンドロイドが立っているからだ。バスガイドの服装で、銃をかまえるアンドロイドの姿は、悪夢というほかない。
ブラックドッグは、一番うしろのシートに悠然と座っていた。運転は自動であるし、アンドロイドには動いた乗客を撃つように命令してある。
追走してくるパトカーのサイレンがやかましい。しかし、奴らには手出しできない。人質がいるからだ。
車体がレインボーブリッジに入ったところで、ブラックドッグは携帯画面をタップした。バスの両側面に、AR広告が展開される。
『ネクロマンサーは再臨する』
執拗に張りつくマスコミのヘリやドローンを通じて、大々的に報道されていることだろう。ブラックドッグは眠るように、座席に頭をもたせかけた。
そのとき、一発の銃声が轟き、後部ガラスが飛散した。
「残念。ハズレだぜ」
ドアを開けて車から身を乗り出し、無謀にも犯人を撃とうとした風間に、岸原は怒鳴った。
「なにをしてるんですか。私たちはSWATじゃないんですよ」
「冗談さ。調子こいてるから、ビビらせてやろうと思ったんだよ」風間は指さしていう。「ほら、犯人が動いたぜ」
ブラックドッグが、バス後部から顔をのぞかせた。岸原は反射的にハンドルを切った。連射された弾丸は、岸原の車には当たらず、先行する向井の車に当たった。
「おい、風間。俺は盾役か?」
怒りをはらんだ向井の声が聞こえた。とにかく、無事らしい。
「奴はおれが引きつける。向井はバスの横に回って、アンドロイドを狙ってくれ」
「了解。早めに決めろよ」
バスの左横に、向井は車をつける。その向こう側には、東京湾が静かに波打っていた。
ブラックドッグは、容赦なく銃弾を撃ち込んだ。蛇行して回避する岸原だったが、弾はボンネットに当たり、ついにはフロントガラスに命中した。砕け散るガラス片に、思わず目をつむる。身体に痛みがないことから、直撃は避けたようだ。風間のほうはどうか。
助手席に目をやった岸原は、絶句した。風間がいなかったからだ。
開け放たれたドアが、風でふらふら揺れている。
頭上で、物音がした。
「車の上に……?」
ヘッドセットから、風間の独言が漏れた。
「フルオート仕様のグロックか。模造拳銃にしては、よくできてるほうかな」
「風間さん、なにやってるんですか。頭おかしいんですか」
「悪い。ドア閉め忘れた」
風間はかかとでドアを蹴り、乱暴に閉めると、ルーフ上からブラックドッグを見据えた。「そういう問題じゃないんですよ」と指摘する岸原を無視し、秋葉に問いかける。
「準備はできたか?」
「まだですよ!」と秋葉。カチャカチャと、打鍵音がうるさい。「あとすこし時間ください」
身を伏せて弾をかわし、風間はぼやいた。
「そんな余裕ねえっての」ヘッドセットに指先を当て、風間はいう。「向井、アンドロイドはしとめたか?」
「車体に隠れてるから無理だ。位置は運転席付近。視覚を送る」
仮想ウインドウを確認すると、アンドロイドは運手席と乗客席の間に位置していた。
「しゃあねえ向井、バスに一発かましてやれ」
「……どういう意味だ?」
「バスに一発、車ぶつけてやれっていってんだよ」
「乗客の身の安全は?」と岸原。
「バス相手にセダンでか?」と向井。
「一発だけだ。車体が揺らぐ程度でいい。その隙をつく」
「了解。だが、どうなっても知らんぞ」
「心配するな。合図はおれが出す。岸原!」
必死にハンドルを操作しながら、岸原は返答した。
「おれが合図を出したら、全力でアクセルを踏んで、バスとの距離を縮めろ。いいな?」
「いいわけないじゃないですか!」と岸原は叫んだ。「こっちは生身なんですよ。撃たれたらひとたまりもない」
「伏せて身を隠せ。ハンドルから手を離して、アクセルだけ踏むんだ」
「それ、本気でいってるんですか?」
ブラックドッグの銃が弾切れになるのを見計らうと、風間は叫んだ。
「いまだ向井。岸原も行け!」
風間のいうとおり、岸原はハンドルから手を離した。右足だけ伸ばした状態で、座席にうずくまる。アクセルペダルを蹴り込み、いい放つ。「もう、どうにでもなれ!」
加速する車のルーフ上で、風間は膝立ちになり、右のそでをまくった。向井の車が豪快に、バスに体当たりをかます。弾倉を再装填し、バス後部から顔を出したブラックドッグは、たまらずよろめいた。
その隙を、風間は見逃さない。伸ばした右腕が開き、アンカーが射出される。狙いはバスの後部側上端――ルーフとリヤウインドウの中間地点に、アンカーが突き刺さる。
つながったワイヤーはすぐさま巻き取られ、風間の身体が宙に飛ぶ。見上げるブラックドッグは、慌ててリロードした銃をかまえようとするがもう遅い。風間はバスに飛びつくと、アンカーを引き抜きつつ、ルーフによじのぼり、走る。
確認したアンドロイドの位置の上で足を止め、青い銃を抜き連射した。弾はルーフを穿ち、アンドロイドの頭部に直撃した。火花を発しながら、倒れるアンドロイドの後方には、すでに風間の影がある。
バスのフロントガラスを蹴破って、なかに侵入した風間は、体勢を立て直すとまっすぐに銃をかまえた。ブラックドッグが振り向き、銃をかまえるのと同時だった。
「投降しろ」と風間はいった。「たとえ人間だろうと、おれは容赦しねえ」
ブラックドッグは不敵に笑い、
「おまえが撃てば、俺は乗客を撃つことになる」とあごで示す。
「その前に決着がつくさ」と風間。
走行音が、テレビのノイズのように響き渡っていた。風間のかたわらには、運転手の死体と、ひとりでに動くハンドルがある。
「ネクロマンサーの託宣とやらが、実現しなくて残念だったな」
挑発する風間に対し、ブラックドッグは口の端をつり上げる。
「なにも知らないようだな。託宣はすでに成就されている」
風間はわずかに首をかしげた。
「ドローン百体を強奪することが、その託宣ってやつだったの?」
「俺が担ったのは、計画の一部分にすぎない」
「部分だと?」風間は詰問した。「奴はなにをたくらんでやがる」
「彼が現れたとき、すべては明らかになるだろう」
ブラックドッグは、片手に持った携帯を掲げた。
「再臨の布告はもう十分だ。あとは生贄を捧げるのみ。俺とおまえを含めてな」
ブラックドッグが携帯画面を指で押した。
そのとき、車体が大きく傾いだ。バスは進行方向を左へと転じた。もちろん、その先に道はない。あるのは青く広がる東京湾だけだ。
風間は舌打ちした。「全員を沈める気か!」
手動操作に切り替えようと、運転席に目をやる。左いっぱいに切られたハンドル。そして、シートを占領する運転手の亡骸。
死体は操作パネルに覆いかぶさっている。ひきずりだそうとするも、風間に銃弾が浴びせられた。乗客の悲鳴。ブラックドッグの哄笑。
それらをかき消すように、重い衝突音が耳を打った。
岸原が目にしたのは、バスの落下を防ごうと、車で押し止める向井の勇姿だった。しかし、車両の大きさがちがいすぎる。向井の車は、バスと歩道を隔てる柵との間に挟まれ、いまにもつぶされそうだ。
金属音がつんざき、折れ曲がった柵が路上に飛んだ。向井を巻き込む形で、バスは歩道に乗り上げる。バスの鼻先が、欄干に触れようとしたそのとき、通信が入った。
「遅れてすみません!」
秋葉からの通信だった。
4
銃弾を受けても、風間は倒れない。機械の身体は強靱だ。詰め寄るブラックドッグに、殴りかかる風間だったが、その手はがっちりと包み込まれた。
「やはり、サイボーグか」と風間はいった。「どおりで検索に引っかからないわけだぜ。顔を変えやがったな。黒色の皮膚は、人工皮膚の劣化か」
「察しの通り、全身サイボーグだ。貴様の筐体では、俺の出力には勝てまい」
蹴り飛ばされ、風間は床に転がった。その衝撃で、手にしていた銃も床に滑る。
ブラックドッグは、風間の頭に銃口を向けた。
「終わりだ」
秋葉の通信を耳にした風間は、にやりと笑った。
「おまえがな」
バスのハンドルが右回転し、ブレーキペダルが沈んだ。急ブレーキがかけられ、車内に慣性力が働く。ブラックドッグは進行方向につんのめった。
その先に、左腕を突き出す風間の姿があった。
「遠隔操作ウイルスのほうは、出回ってるものをいじっただけだった。ワクチンを作成するのに、さほど時間はかからない。同時に、こっちでバスを遠隔操作させてもらった。てめえのぬるい仕事が祟ったな」
前腕の手の甲側が、がちゃりと跳ね上がる。腕の中から、銃身が出現した。
「じゃあな、犬野郎」
ブラックドッグのみぞおちに、弾丸が撃ち込まれた。ブラックドッグは吹っ飛び、あおむけに倒れた。胸の中心から、火花が爆ぜている。
「バッテリーを撃ち抜いた。ねんねしてろよ、犬らしく」
左腕に搭載された銃のギミックを、風間は元にもどした。
岸原は車から飛び下りた。バスは完全に停止したものの、落下ぎりぎり――欄干を倒したあとだった。向井の車は、欄干にもたれかかるように停車している。
心配して駆け寄ったが、向井は壊れたドアを蹴破って出てきた。
「サイボーグでよかったぜ」
あれだけのことをしたにも関わらず、向井は傷ひとつ負っていなかった――車はぼろぼろではあるが。
無精ひげをひとなでし、向井はいった。
「問題はブラックドッグだ。風間はうまくやったかな」
岸原はすかさず連絡した。「風間さん、ブラックドッグは?」
「ぶっ倒したぜ。運ぶの手伝え。こいつ重いんだよ、犬のくせにさ」
岸原は思わず噴き出した。そして、秋葉にいった。
「相馬さんのかたき、取れたみたいですね」
安堵の息をもらしたあと、秋葉はいった。
「ええ、魅せプレイがすぎたようですけど」
解放された乗客が、ぐったりとした様子でバスから降りてきた。安藤の指示を受け、保護に向かう。
吹き抜ける潮風が、岸原の背中を後押しした。
*
同刻、殺人犯捜査第九係の丸山係長は、千葉県木更津港にいた。
車中に留まり、警察無線を聞きながら、何とはなしに外を見る。
青い空の下、釣り客たちがのんびりと竿をたらしている。幾隻もの漁船が係留され、ゆらゆらと船体を揺らしている。
木更津港は穏やかだった。東京湾の向こう側で、ロボット犯罪捜査班がバスジャック犯相手に、熾烈な戦いを繰り広げたにも関わらず。
丸山も駆けつけたいところだったが、無線が入ったときにはすでにアクアライン内にいたため、急行することはできなかった。岸原の身が心配であったが、さきほど、事件は無事解決したとの報があった。
丸山は胸をなでおろした。
岸原の父は、丸山の上司だった。丸山は、岸原の父から娘の話をよく聞いていた。だから、岸原那々ことが気になったのだった。
相棒の元村刑事とともに、丸山は車から降りた。新人の元村は、長時間の運転で疲れたのか、ぐっと大きく伸びをした。
「すこし泳いできたらどうだ」と丸山はいった。「頭がすっきりするぞ」
元村は破顔した。「死体のあがった海で、ですか?」
千葉県警から、失踪した全身サイボーグに似た死体が発見されたとの報告を受け、丸山たちは急行したのだった。木更津港付近で底引き網漁をしていた漁師が、網にかかった死体を発見。警察に通報したとのことだった。
警視庁の管轄外ではある。だが、丸山は迷わず現場に行った。かたくなに事件を追及する姿勢は、岸原元係長に習ったものだった。
「本当にこんなところで、小林の死体が見つかったんですかね」
元村がぼやいた。丸山は、手帳に記した小林の情報を確認した。
「小林悠太、二十八歳。在宅勤務のプログラマーか。失踪したのは四月の頭。そのわずか一週間後に、もうひとりの全身サイボーグが失踪した」
「約一ヵ月、捜査に奮闘しましたが、これといった形跡は発見できず。死体から、なにかつかめればいいですけどね」
制服警官が、丸山たちの前にやってきて敬礼をした。港の端にある桟橋にまで案内すると、警官は先に進むように促した。
桟橋の先には、一隻の漁業船が停泊していた。その上には、スーツ姿の男たちが、呆然と立ち尽くしていた。
「千葉県警の刑事ですよ。まだ死体を降ろしていないんですかね」
不審そうに、元村はいった。
丸山は船上の刑事たちにむかって、警察手帳を提示した。
「警視庁捜査一課の丸山だ」
船上の刑事たちは、一様に丸山を見つめた。まるで、夢から醒めたかのような表情だった。
「我々は混乱している」
口を開いたのは、もっとも高齢の刑事だった。顔には年輪のようにしわが描かれ、くたびれたグレーのスーツを着ている。混乱しているといったが、その口調は妙に落ち着いていた。
「なぜ、死体を降ろさない。鑑識はどうした」と、丸山は強い口調でいった。
高齢の刑事は、首を横に振った。
「これは死体ではないよ。だから、鑑識は必要ない」
元村は顔をしかめた。
「じゃあ、いったいなにがあがったんですか?」
数秒の沈黙ののち、高齢の刑事はつぶやくようにいった。
「人の抜け殻だよ」
丸山は刑事たちを押しのけ、船上に横たえられた人影に顔を近づけた。
全身サイボーグは生身の人間とちがい、水中で腐敗しない。シリコン製の皮膚が、水を含んでふくれてしまったり、剥がれてしまったりする程度だ。
その顔は失踪した全身サイボーグのうちのひとり、小林悠太にまちがいなかった。
元村は小林の顔を確認すると、高齢の刑事に目をやった。
「死体じゃないですか。いったい、あなたは――」
「もどしておいたからな、頭を」
白手袋をつけた丸山は、小林の頭部に触れた。ずるり、と頭の上半分が抜けた。
丸山と元村は、互いに視線を交わした。
頭の上半分を、丸山はわきにそっと起いた。元村と回り込み、頭の中をのぞいた。ふたりは息をのんだ。
小林悠太の頭の中には、脳が入っていなかった。
警視庁への車中で、丸山は険しい表情で語った。
「これは、とんでもない事件になりそうだぞ」
うなずく元村の顔つきも厳しく、軽薄な様子は消えていた。
「問題は、消えた脳の行方ですね」
「脳だけ別に処理したのか。それとも、奪われたのか。もしかすると、小林はまだ生きているのかもしれん」
「脳を他のボディに移植した、ということですか?」
他のボディ――その言葉を聞いた途端、丸山の身体に戦慄が走った。
「小林のあとに失踪した、もうひとりの全身サイボーグ。そのボディに、乗り換えた可能性もあるな」
「名前は東堂省吾(とうどうしょうご)。大手電機メーカー、ミツバ電機の社員でしたね。東堂になりかわり、なんらかの犯罪行為におよんだあと、行方をくらました。ありえる線ですね」
「失踪前の東堂の行動を再捜査だ。本庁にもどったら、すぐにな」
胸が早鐘を打つのを、丸山は感じていた。その不安は的中することになる。
*
ブラックドッグによるバスジャック事件の翌日――五月十二日午後一時。
東京都心の主要AR広告が、何者かによってジャックされた。
非番であった岸原は、そのとき、渋谷駅前のスクランブル交差点を渡っているところだった。
駅ビルに貼り付く巨大AR広告にノイズが走り、映像が切り替わった。
魔術師のようなローブを着た男が、大きく映し出された。フードを目深に被り、うつむいているため、顔はよく見えない。
男はいった。
「私は存在する。私の存在を証明するもっとも簡単な手立てを、これより行う」
男はフードに手をかけた。スクランブル交差点の人々は静止し、その映像を凝視していた。信号が変わっても、クラクションが鳴る音はない。車中の人々も、映像に注目していたからだ。
男はゆっくりとフードを下ろした。これといった特徴のない、三十程度の男だった。
男はいった。
「私が、ネクロマンサーだ」
そのとき、岸原はまだ知らなかった。
その男こそが、丸山が探していた全身サイボーグ――東堂省吾だということを。
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