【短編小説】猫が死んだ世界(1/4)
- 弑谷 和哉
- 8月10日
- 読了時間: 5分
1
喫茶店の中は、煙草のにおいが充満していた。
僕以外の客はすべて喫煙していた。
まるで煙草を吸うのが、喫茶店でのルールだと主張しているようだった。
学生服に、においが染みこまいないことを祈った。
「君も吸うかい?」
須藤はセブンスターを差し出した。
「いらないよ」
「なぜ?」
「僕は高校生だから」
「まじめだな宮原くんは」
須藤は煙を吐き出しながら、ほくそえんだ。彼もまた高校生なのだ。二年一組、僕と同じクラスである。
「僕はまじめさ。少なくとも、君以上は」と僕。
くくく、と須藤はのどで笑った。彼独特の笑い方だった。
「たしかに」
僕はコーヒーを飲み干した。
「行こう」と言って立ち上がった。
「外は〈鼠〉でいっぱいだぜ」
彼は声のボリュームを少し上げて言った。わざとに違いない。周囲の人間に聞こえるように。
目論見どおり、沈黙が店内を支配した。雑談していたサラリーマンとOL、静かに本を読んでいた中年女性、コーヒーを運ぶ店員、すべてが僕らに注目した。
「出よう」と僕。
伝票と千円札をカウンターに置き、釣りももらわず店を出た。むっとした夏の熱気が僕らを包み込んだ。
「あれは禁句だ」
「だって事実じゃないか」
事実には違いなかった。喫茶店の外には〈鼠〉が二匹もいた。一匹は電信柱にかじりついていた。もう一匹は僕のすぐそばを通り過ぎ、何かを探すように歩んでいる。
〈鼠〉は以前より大きくなっているようだった。西瓜に匹敵する大きさだった。
それは地球で生まれ、ペストを流行らせ、屋根裏に住みつくあの鼠ではない。鼠のような形をした何者かだった。ただ、僕らはそれを〈鼠〉と呼んでいるに過ぎない。
「気分が悪いな。こう――〈鼠〉ばっかりだと」
蠢く〈鼠〉を見て、僕は眉をひそめた。
「なぜ町中〈鼠〉ばかりなのかわかるかい?」
僕は須藤の目を見た。その瞳は妙な光を宿していた。長身の須藤が僕を見下ろしている格好だった。生暖かい風が、彼の長髪をたなびかせた。
「猫が全部死んじまったのさ」
自分のジョークに、須藤はくくくと笑った。
■
センセーショナルなニュースというものは、突如としてやってくるものだ。今回に関しても例外ではなかった。しかし、ニュースの内容はこれまでに例を見なかった。
七月二日。世界中で鼠に似た謎の生物が大量発生した。そして、その生物は建物や道路などを喰っている。
同じニュースが繰り返し地球上で流された。
ニュースキャスターは、まるで狂った人形のようにしゃべり続けた。
当時の僕は、嘘のようなニュースを嘘じゃないかと思いながら見ていた。
テレビ画面には、大量の〈鼠〉が新宿の街を喰っている映像が映し出された。
恐怖で逃げる人々。必死にリポートするニュースキャスター。
まるで、映画のようで現実味がなかった。
アップで映し出された〈鼠〉を見ると、ディティールはまるで鼠と異なっていることがわかった。
目は三つあり、赤く輝いていた。体からは細長い足が四本生えている。それは昆虫のように中間で折れていて、足には長い指が三つ付いていた。
墨をぶちまけたように黒い〈鼠〉が、もぞもぞと素早く町を徘徊するさまは、人々の背筋を凍らせた。
学者たちが熱心に研究したが、その生物が何なのか特定することはできなかった。
どうやら遺伝的に地球の生物とは無縁らしい。
そして、〈鼠〉は宇宙から隕石などで飛来した生命体なのではないかという意見が蔓延していた。
ただ、〈鼠〉が人に危害を加えないことは判明した。
〈鼠〉が破壊するのは、人工的につくられたものだけだということだ。
理由はわからない。
しかし、インフラが破壊されたことによる交通事故の多発、犯罪の増加、加えて工場が破壊されたことによる食糧難など、深刻な被害が世界中で出ている。
事件の後、学校は閉鎖された。
■
太陽からの熱心なまなざしで、アスファルトは顔を火照らせていた。
靴を履いていなければ、やけどしていたところだろう。まるで放浪しているかのような須藤の足取りに、苛立ちを覚えても無理はなかった。
「どこに行くんだ?」
僕は尋ねた。
「決まってるだろ。学校に行くんだ」
須藤は答えた。
僕の質問は確認にすぎなかった。
七月十日現在、学校は閉鎖されている。
その学校に向かおうと、須藤は提案したのだった。
わざわざ学生服を着るように、指示までするという念の入れようだ。
「学校に行く理由は?」
「学生だからさ」須藤は自嘲した。「学生が学生服を着て登校する。何がおかしい」
「おかしくはないさ。学校がやっていさえすれば」
須藤は僕の指摘を無視し、コンビニに入った。
登校するのは単なる好奇心からだろうか。
須藤の心理を推察するのは難しい。
そして、根拠のない推察など意味はなかった。僕は鞄を肩にかけ直した。
店内には、商品の入っていない白い棚がいくつも並んでいた。
あの日以来、入荷される品はごくわずかだし、入荷してもすぐに売り切れてしまうためだ。須藤はインスタントカメラを探しているようだった。店員に聞いても品切れということだった。
僕らは、何も買わずにコンビニを出た。
「思い出にしようと思ったんだけどね」
須藤は目を細めて言った。
僕は気づいた。簡単なことだった。これはちょっとした冒険なのだ。
危険な道のりを経て、目的地に辿り着く。
きれいな青い空の下で記憶される、ささやかな夏の思い出。
「いいよ。どの道いい景色は撮れそうにない」
僕らは駅に向かった。
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